標本No.5 キイロショウジョウバエ 4

 翔はその場を離れ、海岸線を東に向かって飛んだ。

<元の世界だったら、この先に、小田原おだわらがあるはずだ。今はどうなっているのか……>

 特段行く当てはなかった。ただ、元の世界で住んでいた都心が、ここではどうなっているか、いずれは知りたいとは思った。

<とにかく、何か食いたい。何でこんなに腹が減るんだ?>

 翔は、の目鷹の目で獲物を探しながら、飛行を続けた。


 しばらく飛ぶと1匹のハエが、翔の行く手を右から左に猛スピードで横切った。大きさは、翔と同じくらいだし、色も似ているから、同じ種類のコバエだろう。

 そのハエの通ったとおぼしきところを通過すると、猛烈にそのハエに惹きつけられる何かを感じた。翔は左に急旋回して、そのハエの後を追った。

 空腹なはずだが、そんなものはどこかへ吹っ飛んだ。翔から逃げるようにして前方を飛ぶコバエを追ううちに、そのハエから発せられる吸引力が、指数関数的に高まっていくのを感じた。

<これは何だ? 人間の男が若くて美しい女に惹かれるといった生半可なものじゃない。もっと強烈な何かを感じる>

 やがて森の上空で、2匹は空中戦のようにもつれ合った。捕食者がそばにいたら、ひとたまりもなく食われたかもしれない。しかし、そんなことはどうでもよかった。

<なぜこんなにも、このハエに惹かれるのか? 食うためか?>


 ひとしきり2匹で乱舞した後だった。そのコバエは、高い木の枝に留まった。翔はすかさず、そのコバエの背中に留まった。下のコバエは嫌がる風もなく、じっとしている。

 別に意図してやったのではない。翔の腹の先端が、下のコバエの腹の先端に差し込まれたのだ。

<そうか! おれはメスのコバエと交尾しているんだ!>

 人間の男が射精する時のような快感はなかったが、何とも言えない満足感が翔の中に広がった。

<俺の遺伝子が、このメスバエに託されたんだ。オスバエとしての役割を、立派に果たしているということだ>

 やがて2匹は離れ、メスバエはどこかへ飛び去っていった。

<ここでお別れだ。付いて行ってやれないが、無事に卵を産んでくれよ!>

 メスバエの後ろ姿を目で追いながら、翔は心の中で叫んだ。

 しかし、疲労感と空腹感が、どっと襲ってきた。

<何か食わなければ、飛べなくなって墜落してしまう>


 翔は空腹でヘロヘロになりながらも、海岸線沿いに東に向かって飛んだ。

 すると、またもや、何者かに追われる人間の集団と遭遇した。

 人間は20人くらい。追っているのは、何とダンゴムシの群れだった。

 ダンゴムシといっても、体長は1mくらいある。ゾロリと並んだ足の先端は、ムカデのような鋭い爪となっていて、動作は驚くほど素早い。口には鋭い大顎を備えている。これらも、肉食への適応だろう。

 ダンゴムシは人間に飛びかかって押し倒すと、大顎を使って頭から貪り食い始めた。

<ダンゴムシといえば、子供のころ、よく捕まえたものだな。子供のよい遊び相手だった>

 だが、眼前のダンゴムシには、そんな親しみやすく可愛げな風情はまったくない。その反対に、獰猛なハンターといったところだ。

 先ほどのブタに輪をかけて悪食あくじきらしい。まず、大顎で人間の頭蓋骨を粉砕する。それから、ブラシ状の舌で脳や脳漿のうしょう(脳室内の液体)などを舐め取る。最後は、バリバリと頭蓋骨を咀嚼している。どうやら、ハイエナのように骨や骨髄を食らうようだ。

 ダンゴムシが人間をほふっていると、おこぼれ頂戴とばかり、バッタだとか、ミツバチだとかが集まってくる。それらが人間の死体に群がって、辺りは大騒ぎだ。


 1匹のダンゴムシが、一人の女を波打ち際に追い詰めている。女は、恐怖に顔を引きつらせて、小岩の向こうに回り込んだ。

 一瞬、女の顔が見えた。

<あ! あれはさちじゃないか!>

 体のサイズは小さくなっているが、その顔は幸に間違いない。縄文人のような粗末なものを着て、髪はボサボサだ。

 ダンゴムシは、青みがかった灰色の背中に陽光を反射させながら、小岩を上り始めたかと思うと、たちまち小岩の上に到達した。これから、小岩の向こうで立ちすくんでいる幸に、飛びかかろうというのだろう。ダンゴムシは、大顎を大きく開いて、岩の上をさらに前進した。

 その瞬間、翔は急降下して6本の脚で幸を摑むと、今度は急上昇した。

「きゃー!」

 幸の悲鳴が辺りに響いた。

 それを聞きつけた人間の何人かが、翔めがけて小石を投げてきた。しかし、どれも飛び去る翔には命中しなかった。


 しばらく飛んだが、幸が叫びながら手足をバタつかせるので、ひどく飛びにくい。翔は海岸に降りた。

 幸は仰向けに横たわり、相変わらず叫びながら、足で翔の胴体を蹴りまくっている。

<お! 改めて見てみると、幸の奴、実に旨そうじゃないか>

 「旨そう」というのは、食べ物としてという意味だ。

 翔は前脚まえあしと中脚を使って、幸が着ている粗末な服を剥ぎ取った。サイズは小さくなっているが、翔が記憶してる肉付きのいい幸の裸身が現れた。

<食いたい。でも……>

 翔をためらわせたのは、人間としての意識の、最後の残り火だったのかもしれない。しかしそれも、ローソクの火を軽く一吹きで消すように、すぐに消えた。

<いただきまーす>

 翔は大顎を思いきり開いて、幸の頭にかぶりついた。幸の頭がグシャリと潰れ、潰れた脳と脳漿のうしょうが辺りに飛び散った。

 翔は、幸の頭に舌鼓を打った。元の世界で作った幸との思い出は、綺麗さっぱり翔の心から消えていた。

<ふー。こりゃぁ旨い。これで少しは、食い溜めできるかな?>

 そう思った瞬間、翔の背中に激痛が走った。

 幸を食うのに夢中になっている間に、背後から忍び寄ったダンゴムシに襲われたのだ。

<しまった! 警戒監視を怠った>

 翔は幸を食うのを止め、体を反転させた。ダンゴムシが、し掛かってくる。

<ダンゴムシ如きに、このままやられてなるものか!>

 逆境とは反比例するように、闘志が湧き出してきた。

<コバエの実力、見せてやる!>

 翔は、ダンゴムシの喉元に大顎を突き立てた。突き立てた部分から、ダンゴムシの体液が、どっと噴き出してきて、翔に降りかかった。ダンゴムシはたまらず、踠いている。

<どんなもんだ。コバエを甘く見るなよ>

 だが次の瞬間、無数にあるダンゴムシの鋭く尖った爪の一つが、翔の胸を貫いた。

<し、しまった! 相打ちか>

 翔は、急速に薄れていく意識の中で考えた。

<俺はダンゴムシと刺し違えて死ぬけど、まあいいさ。俺のDNAは、しっかりとメスコバエに託したからな。彼女は、たくさんの卵を産んでくれるだろう。それさえ出来りゃぁ、俺の命なんて、どうでもいいのさ……>


  *


「え? なに? これがそのコバエだというの?」

「はい。そのとおりです」

「そりゃぁ、変だ」

「何がです?」

「だって、その翔とかいう自衛隊員は、異世界に転生してコバエになったんだろ? それがなぜ、ここにいるんだ?」

「異世界で死んで、再びこの世界に戻ったんです。コバエのまま、ダンゴムシと一緒にです」

「ふーん、そうなんだ。でも、あまりに出来過ぎじゃないの? そういうのを、ご都合主義っていうんだよ。でもいいや。こっちは、一刻も早く見学を終えたいからね」

「よろしいですか? では、次に進みましょう」

「そうしたいところだが、ちょっと待った。またトイレに行かせてくれ。今度はちょっと長いかも。どうも腹の具合がおかしいんだ」

「はい。行ってらっしゃいませ。ここでお待ちしていますね」

 愛想よく言った若葉だったが、紀彦がトイレに向かった途端、笑顔が消えて無表情になった。


 



 

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