序章 秘宝館 3

「特別展示室? 何があるの? また、エッチなヤツ? もっと過激になるのかな?」

「いえ。虫の展示です」

「虫? 虫というと、カブトムシとかクワガタムシとか? とすると、子供向けの昆虫館かな?」

「いえ、お子様向けではありません。実は、姉と私は虫の収集が趣味なんです。他ではまず見ることができない珍しい虫を集め、標本にして展示しているんです。どれもこれも、美しい虫ばかりですよ」

「美しい虫? そうすると、チョウチョか何か? でも、俺、虫には興味がないんだ。、とかは別だけどね。へへへ。それより、早くバーに行って、一杯やりたいなぁ。喉が渇いたよ」

「申し訳ありませんが、特別展示室を通らないと、バーには行けないんです。あの、もしよろしければ、これ、どうぞ。お飲みになりますか?」

 妹は、肩から下げている緑色の保冷トートバッグから、ビールのロング缶を取り出して、紀彦に差し出した。

「お! こりゃぁ、サービス満点だね。宿の車、エアコンが故障していて、大汗おおあせかいたよ。だから、喉がカラカラなんだ。遠慮なくいただくよ」

「車のエアコンの件では、大変ご迷惑をお掛けしました。お詫びの印にビールをご用意するよう、姉から指示されたんです。では、ビール、開けますね」

 妹は缶の蓋を開けて、紀彦に差し出した。紀彦の喉音のどおとが部屋に響いた。

「カー! 旨い! よく冷えてるねー。女将さんも、なかなか気が利くな。じゃあ、特別展示室、観るとしよう」

「ありがとうございます。では、ご案内します。改めまして、私は葛城かつらぎと申します。葛城若葉わかばです。姉は葛城みどりです」

 若葉は、特別展示室の重そうな鉄扉を、体で押しながら開けた。


 「特別展示室」は、さっき見てきた展示室よりずっと広く、照明も明るかった。 窓はなく、壁は白一色だ。壁のところどころに、大小の展示ケースが掲げられている。

「へー。こっちの方が広いんだね」

 紀彦は、ビールを飲みながら、若葉に話しかけた。

「はい。どちらかというと、こちらの方に力を入れていますから。では、ご見学いただく方法を、ご説明しますね」

「え? さっきみたいに、自由に見て回るんじゃないの?」

「ひととおりご覧になった後は、ご自由に回っていただいても結構ですよ。特にご興味のある展示に戻って、もう一度観るとか」

「うん。それで?」

「各展示に表示されている番号の順に、見学していただきます。まず、展示ケースの中の標本をよくご覧下さい。各展示ケースの下にボタンがあり、それを押すと展示物の説明が流れます。展示物の前に椅子が置いてありますから、それにお座りになってお聴き下さい」

「ほう。君が口頭でごく簡単に説明してくれれば、それでいいんだけどな」

「説明は退屈しないように物語風になっておりまして、中には少々長いものもあります。申し訳ありませんが、私、全部は覚えていないんです。でも、すべて私のアナウンスを吹き込んだものですから、私がご説明するのと同じです」

「なるほど。それで、全部見終わるのに、どれくらいかかるの?」

「そうですね……。途中で戻ったりしなければ、90分くらいですかね」

「え! そんなにかかるの。さっきも言ったけどさぁ、俺、虫には興味ないんだよね。途中で飽きちゃって、居眠りするかもね」

「その点は、ご心配いりません。目が覚めるような、飛び切り美しい虫を厳選していますから、眠たくなることはないと思いますよ。ただ、何が美しいかの判断基準は、あくまで姉と私の感覚です。美しいとか醜いとかいった感じ方はかなり主観的なものですから、もしかしますと、一部に美しくないとお感じになるものもあるかもしれません。その点は、あらかじめご了承下さい」

「了解。でも、若葉さんが美人だということは、ほとんどの人、いや、万人が認めるんじゃないかな?」

「ありがとうございます。あ、そうだ! いつだったか、途中で気分が悪くなって、吐いちゃった方がおられました。それが、説明の中で美味しそうな食べ物が出てきた時だったので、なぜかなーって、不思議に思いました」

「俺なんか、もう吐き気がしてるよ。あのホルマリン漬け標本。あれが原因だと思う。ものすごい臭いだったからね。おや? ビール、空になっちゃった」

「はい、お代わりをどうぞ」

 妹は、トートバッグから、またロング缶を取り出した。

「すまないね。さあ、さっさと観て、はやくバーに行こう。いや、その前にトイレに行っていい?」

「はい。トイレはアチラです。ビールの缶、お持ちしています」

 妹は、《TOILET》と表示のあるドアを指差した。


 紀彦は、男性用小便器で用を足した。

 ふと横を見ると、壁にバスケットが掛かっていて、うつぼ館のロビーで見たのと同じような、ウツボカズラが垂れ下がっている。

<女将たちは、よほどウツボカズラが好きらしいな。それにしても、このトイレには、空調がないのか? それとも、さっきの車と同じく故障中か?>

 ひどく蒸し暑い。早く空調の効いた展示室に戻りたいと思ったが、だいぶ溜まっていたとみえ、紀彦の放尿は年寄りのように長々と続いた。

 その植物が入っているバスケットの上に、名札が掛けてあった。やっと小便を出し終えた紀彦は、植物に近付いて名札を読んでみた。

《ネペンテス・メリリアーナ》*

 一度も聞いたことのない名だ。

<ロビーにあったウツボカズラより、袋がずっと長くて大きい。たぶん、別の種類のウツボカズラなんだろう>

 こちらのウツボカズラは、捕虫袋の長さが40cmくらいもある。

<袋が大きいということは、それだけ獲物も大きいということか? 袋が一番大きな奴は、いったいどれくらいになるんだろう。そのデカい袋で、何を捕まえるのか?>

 紀彦の脳裏に、長さ1mくらいの巨大な袋を持ったウツボカズラの姿が浮かんだ。その中には、人間の赤ん坊が……。

<そんなこと、あるわけがないな>

 すぐにおかしな想像を頭から追い出したが、植物のくせに動物を狩るウツボカズラという存在への違和感が蘇った。今度は、自分の手で目の前にぶら下がっている袋をひねり潰したいと思った。しかし、人が栽培している植物を故意に傷付けるわけにはいかない。

 いつものように手を洗わないまま、特別展示室に戻っていった。


* 食虫植物・ウツボカズラの一つ。

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