序章 秘宝館 2

 紀彦を乗せたSUVは、夜の山道を疾走していた。

 女将の運転は、意外なことに相当荒っぽい。カーブを曲がるたびにタイヤが悲鳴を上げ、後部座席にいる紀彦の体は、右に左に大きく傾いた。

 しかも、薄ぼんやりとした街路灯が時々現れるだけで、辺りは漆黒の闇に包まれている。

「女将さん、夜の山道でそんなにスピード出して大丈夫? シカとかタヌキとか、動物にでもぶつかったら、大変だよ」

「ここら辺の道には慣れてますから。ご安心下さい」

 女将は紀彦の心配など意に介す風もなく、むしろ、一段とスピードを上げて山道を上っていく。

<おいおい、綺麗な顔してスピード狂とは。人は見かけによらないな。だが、こんな夜の山道で、降ろしてくれとも言えんしな>

 カーブを曲がると、道路はしばらく緩い上りの直線になり、女将はまた一段とスピードを上げた。すると、前方の暗闇の中で、二つの眼だけが光っている。夜行性のけものか何かが、道路の真ん中に立ち止まって、こちらを見ているようだ。

「ねえ、前に何かいるよ!」

 紀彦が叫んだ。

「はい」

 そう答えたものの、女将は減速もせず、そのまま走っていく。

<あの獣をき殺すつもりか?>

 車は、その獣がいたと思しき場所を、猛スピードで通り過ぎた。特段、何かをねたような衝撃は感じられない。

「轢いちゃった?」

「いえ。今のはテンでしたね。ぶつかる直前に逃げていきました。彼らも馬鹿じゃありませんから」

 女将は何事もなかったかのように、落ち着き払っている。

 紀彦は、脇の下をはじめ体のあちこちから汗が噴き出しているのに気が付いた。冷や汗だけではない。車内が、蒸し風呂のように暑いのだ。

「女将さん。車内が暑いね。エアコンの温度、もうちょっと下げてくれる?」

「あ、すみません。この車、エアコンが故障してまして。近々、修理に出す予定なんです。窓を開けられればいいんですが、そうしますと、蛾だとかだとか、夜の虫がたくさん中に飛び込んできてしまいます。ですので、開けないで下さい。もうすぐ着きますので、ちょっとの間、ご辛抱下さいね」

<チッ! 車も、エアコンがダメなのかよ。これじゃぁ、口コミ評価が悪くて当然だな>

 紀彦は腕時計を見た。時計のボタンを押すと青色のバックライトが点灯するのだが、体が常に動いているから、実に見にくい。やっと、時刻が確認できた。宿を出発してから、30分どころか、45分は過ぎている。

「女将さん。もう30分は経ったね。まだだいぶかかるの?」

「いえ、もうすぐです」

「しかし、なんでまた、そんな辺鄙な場所に秘宝館を作ったのかねぇ」

「場所は妹が決めたんです。あ、着きましたよ」


 車は、車道から脇道に入っていった。舗装されていないらしく、タイヤが砂利じゃりを踏む音がする。

 しばらく行くと、建物の前に出た。

 木造平屋建てで、入り口の上に《秘宝館》と書いた看板が見えた。看板の周りで点滅する色とりどりのLEDライトが、秘宝館にふさわしい隠微な雰囲気を醸している。建物の間口はそれほど大きくはないが、奥行きがどれくらいあるのか、辺りが暗いので皆目見当がつかない。

<へぇー。こんな山奥に、秘宝館とはな>

 女将が先に降りて、後部ドアを開けてくれた。グリーンのTシャツにジーパンという服装だ。浴衣姿の紀彦が車から出ると、車内が蒸し暑かったせいか、涼しい夜風が心地いい。風は、夜の匂いや森の香りを運んでくる。

 もしかすると、ここはうつぼ館がある場所より、さらに標高が高いのかもしれない。

「あの。帰りはどうすればいいの?」

「私は宿には戻らず、ここの事務室でお待ちしています。ご見学が終わったら、ご一緒に宿に戻りましょう」

「そう。悪いね」

「いえ。うつぼ館の直営施設ですから。時間は気になさらず、ゆっくりと見学なさって下さい」


 紀彦が入口ドアを開けて中に入ると、右側がガラス張りの券売所になっている。

「いらっしゃいませー」

 ガラスの向こうにいる女性は、女将の妹だろう。

<女将よりだいぶ若いな。30前半といったところか。俺の勘は当たったな。女将に輪をかけて、美形じゃないか!>

「大人ひとり」

 紀彦は、舐めるようにネットリとした視線を妹に向けながら、クーポン券をガラス板の下にある隙間から、妹の方に押し出した。

「うつぼ館にお泊りの、藪原様ですね?」

「うん。そうだよ」

「でしたら、お代はいただきません」

「そうなの? なんだか悪いな」

「いえ。姉がお世話になっていますから。だいぶ遠くて、お疲れになったでしょう?」

「うん、まあね。夜の山道で、疲れたというより、気疲れしたよ」

「あー、姉の運転、ちょっと荒いですからね。でも、あれで長年無事故無違反なんです。あのぅ、当館にはちょっとしたバーも併設してありますんで、ご見学の後、くつろいでいかれるといいですよ」

「え? バーがあるの? そりゃぁ、いいねー。温泉の周りには何もないんで、退屈していたところなんだよ」

「そうですよね。とにかく何もない所ですから。後ほど、ささやかながら、おもてなしさせていただきます」

<なんだ。こんな辺鄙な所でも、バーがあるんじゃないか。この子が相手してくれるのかな? いや、待てよ。観光地のバーだから、ボラれるかもしれないな。用心、用心>

 紀彦は、ドアを開けて秘宝館の展示室に入った。部屋の照明は何やら怪しげなピンク色で統一されている。しかし、音楽などはかかっておらず、妙に静まり返っている。

 展示物は、紀彦がイメージしていた、ひと昔前の「秘宝館」そのものだった。

 昔、信仰の対象とされていたらしい、木彫りや石造りの巨大な男根や女陰。

 ヘビ、タヌキ、キツネ、シカ、クマ、サルなどの剥製は、どれも雌雄が交尾する体勢をしている。

 ガラス瓶などに入ったホルマリン漬けの標本は、さまざまな動物のペニスだ。その中でひときわ長大な代物しろものは、長四角の箱に収められている。セイウチのペニスだそうだ。長さは50cm以上あるだろう。

 それらのホルマリン漬け標本はどれも埃を被っていて、消毒液のような強烈な臭いを発している。思わず吐き気を覚えた紀彦は、次の展示に移ろうとした。だが、標本の中の一つが、紀彦の足を止めた。

 てのひらで口と鼻を覆いながら、その標本瓶に顔を近付けた。やや褐色がかった透明な液体の中に、人間のペニスに似た物体が、先を上にして浮かんでいる。横から見る限り下端の切断面は、鋭利な刃物で切断したかのように整っている。

<何だこれ。どう見ても、人間のペニスじゃないか>

 その標本の瓶には、茶色く変色して古びたラベルが貼ってあり、

《Homo sapiens》

と筆記体で書いてある。

<確か、ホモ・サピエンスって、人間のことだろ?>

 他の標本のラベルは皆、《ツキノワグマ》や《ニホンザル》などと日本語で書いてあるのに、なぜかこれだけが日本語表記ではない。

<このペニス、本物なのか? 本物だとしたら、マズいんじゃないか? あとで、女将の妹に聞いてみよう>

 臭いが強すぎて、これ以上ここに立ち止まっていられない。

 次は、人間の女性器の模式図だった。その隣には、女性外性器のカラー写真が、ご丁寧にも額に入れて掲げてある。各部位の名前が英語で表記されており、解剖学の医学書か何かから切り取ったものらしい。

<clitorisは俺にも読める。医学書なら、猥褻物わいせつぶつには当たらんというわけか>

 紀彦は妙に納得した。

 顔を近付けてよく見ると、チョウのような二つのはねを開いた真ん中は、毒々しいほどの赤色を呈している。印刷の精度が低い古い本にあった写真かもしれない。

 ふと、さっき旅館のロビーで見た食虫植物の、肉厚な「唇」が思い出された。

<あの美人姉妹のアソコも、こんな具合か?>

 そんな妄念が、食虫植物の唇と重なり合った。


 展示物の見学は、ものの15分くらいで済んでしまった。やたらに巨大なマラ神様や、江戸時代のものだという張形はりかた(男根を模した道具)、オセアニア地域の民族が使用しているというペニス・ケースなどを見ても、まったく興味が湧かず、足早に通り過ぎたからだ。

<やっぱりな。秘宝館なんて、こんなもんだろう。タダだったからよかったものの、カネを払ってまで観るような代物じゃねぇな>

 紀彦が《出口》と表示してあるドアを開けて展示室から出ると、そこは狭くて薄暗い部屋だった。窓はなく、ベンチがぽつんと一台置いてある。

「お疲れさまでした、藪原様」

 女将の妹が待っていて、丁寧にお辞儀をした。ライトグリーンの半袖ブラウスに、黒っぽいタイトスカートという服装だ。小柄な女将とは対照的に、女性としては背が高い。170cmくらいはあるだろう。紀彦は、思わずスタイルが良い妹の肢体に見蕩みとれた。

「展示はいかがでした?」

 妹の声に、我に返った。もし相手が男だったら、紀彦は手加減せず「まったく面白くなかった」と言っただろう。

「はあ。なかなか興味深かったよ。それで、一つきたいことがあるんだ。ペニスの標本の中で、ホモ・サピエンスと書いてあるのがあったけど、あれは本物?」

「はい。もちろん本物の、人間のペニスです」

「え、本物! だとしたら、余計なお世話かもしれないけど、法律的に問題があるんじゃないか?」

「あれはだいぶ前、ある古物商から買ったものです。作られたのは、外国のようです。古物商は、特に何も言ってませんでしたよ」

「へー、そうなの」

 紀彦は今一つ納得できなかったが、これ以上議論しても意味がないと思った。

「確か、バーがあるんだよね。案内してくれる?」

「あの、実は、展示は今ご覧いただいたものだけじゃないんです」

 妹は、反対側のドアを指差した。《特別展示室》と表示されている。


 


 

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