うつぼかずらの夜 ~美しくて醜い虫たちの標本箱~
あそうぎ零(阿僧祇 零)
序章 秘宝館 1
ここは、北関東の山の中にある
途中、山の中で道に迷ってしまい、何度か宿に電話をして、やっとたどり着いた。この宿は、なぜかカーナビに表示されなかったのだ。
明日は月曜日で勤務があるのだが、明朝会社に電話して休暇を取るつもりだ。当日の休暇取得を上司に直接申請すると、嫌味の一つくらいは言われるだろう。だから、上司の出勤前に職場に電話して、後輩に伝言を頼むつもりだ。紀彦が時々やる手だ。もちろん、温泉に来ていますなどとは言わない。今のご時世、発熱のため自宅療養すると申告すれば、たとえ会議や業務の予定があったとしても、いちおう大義名分が立つ。
この温泉宿は、こじんまりとした一軒宿だ。宿の周りは谷川と、
夕食は午後6時からで、「部屋食」だった。ちびちびと酒を飲みながら食べたが、すぐに終わってしまった。料理はたいして旨くなかった。
宿に着いた時、和服姿の小柄な
「『うつぼ館』に、ようこそおいで下さいました」
お辞儀を終えた女将の顔を間近に見た紀彦は、ネットにあった口コミは正しかったと思った。
泊まる旅館は、ネットのホテル・旅館予約サイトで探した。
そのサイトでは、うつぼ館の口コミ評価はあまり芳しくなかった。総合評価は、5点満点のところ2.5だった。
《実質的に女将一人で切り盛りしているので、人手不足感が否めない》
《料理の味は可もなく不可もないが、量的には物足りない》
《温泉は源泉掛け流しらしいが、洗い場の床がヌルヌルしていた》
《部屋やロビーは、エアコンの利きが悪い》
《全体的に、設備の老朽化が進んでいる》
《鉄道の駅から遠すぎる》
《カーナビに、宿が出てこない》
《宿の周りには何もないので退屈》
《コスパは良くない》
そうしたマイナスの口コミが並ぶ中で、紀彦の目を引いた口コミがあった。
《女将がすごい美人で、とても感じがいい》
この口コミを見て、うつぼ館に決めた。
今日は9月上旬だ。学校の夏休みが終わっているためか、紀彦のほかに客の姿はない。
<口コミのとおり、周りには飲み屋もスナックもなさそうだな。そう何度も温泉に入るわけにもいかんし。つまらん所に来ちまったかな?>
所在なげに階段を降り、1階ロビーのソファーに、
周りを見回したが、何の変哲もない旅館のロビーだ。他に誰もいないし、フロントにも人影はない。辺りは静まり返っていて、わずかに谷川を流れる水の音だけが、遠くから聞こえてくる。
紀彦は下っ腹に力を入れて放屁した。その音は静寂を破って、
隅の方に、熊の
だいぶ古いものらしく、体の上に
<つまらねぇな……>
熊の剥製の並びには、ガラス張りの室内用温室のようなものがある。中には、
その植物には、下が丸みを帯びた袋状のものがたくさんぶら下がっている。袋の口には蓋のようなものがあり、パックリと口を開けたように見える。しかも、袋の
<これは食虫植物だな。艶々した袋の縁に留まった虫が、足を滑らして袋の中に落ちる仕掛けだろう。落ちたら二度と上がってこられず、一巻の終わりか?>
紀彦の頭の中に、袋の底に溜まっている水の中で
<暇だー。何か面白いことはないか?>
思案していた紀彦は、ふと思い付いた。
<この食虫植物に餌でもやってみるか。餌になる虫はいないかな?>
しかし、ロビーにはハエ1匹いない。
紀彦は、ロビーの前にある
<灯りに集まっている虫でも探してみよう。どうせ食虫植物と対戦させるなら、出来るだけ強そうな奴がいいな。まあ、カブトムシじゃデカすぎて、あの袋には入らないだろうが>
ガラス張りの引き戸を開けて外に出ると、スリッパのまま中庭に降りていった。飛んでいる虫を捕まえるのは難しそうなので、庭園灯の下を探してみた。
灯りの下には、意外に多くの虫がいた。ノコノコと歩き回ったり、再び庭園灯の灯りに向かって飛び立ったりしている。
体長1cmくらいの、背中が黒い甲虫が歩いているのが見えた。
<こいつじゃ、ちょっと頼りねぇな。もっと大きくて、強そうな奴はいないか>
紀彦は、もう一つの庭園灯の下に移動して探し続けた。
<お! いたいた>
芝生の上を1匹の甲虫が、長い触角を振り立てながら急ぎ足で歩いている。
<初めて見る種類だな。やっぱり山の中なんで、住んでいる虫も都会とは違うようだ>
長さ5cmくらいの細長い体つきをしており、褐色の背中にはツヤがある。体よりはるかに長い触覚が特徴的だ。紀彦は、その虫の背中を親指と人差し指で摘まんで捕まえた。
顔に近付けてよく見ると、足をバタつかせながら、口にある牙のようなものを開いたり閉じたりしている。牙は鋭く、嚙まれたらちょっと痛そうだ。黒く大きな複眼が、サングラスのように見える。
<カミキリムシか? なかなか精悍な面構えをしているじゃないか。それに、この
いつしか紀彦の目的は、食虫植物への餌やりから、強い昆虫にあの袋を食い破らせて、食虫植物に一泡吹かせることに替わっていた。
紀彦は、カミキリムシを持って、ロビーに戻った。
食虫植物が入っている温室の引き戸には鍵はなく、すぐに開いた。
<どの袋に入れるかねぇ。虫が大きいから、一番デカい袋でないと入らんな>
見たところ、長さが7~8cmくらいの袋が一番大きそうだ。
<よし、決めた。これだ>
紀彦は左手で袋の下を持ち、カミキリムシを頭から、赤く艶々とした「唇」の中に押し込んだ。そしてすぐに、温室の引き戸を閉じた。
<さぁ、虫対植物の
カミキリムシは、しばらく袋の中で踠いていた。しかし、大顎を使って袋の底に穴を開けることにしたらしい。脚を突っ張らせながら袋の底に嚙み付いて、盛んに大顎を動かしているようだ。
<お! いいぞ、カミキリ選手。俺の期待通りじゃないか。そんなちゃちな袋なんか食い破って、うまく脱出しろよ>
たちまち袋の底に穴が開き、中の水が漏れ出てきた。カミキリムシはさらに穴を広げた。そしてついに袋から出て、温室の底面に落下した。
<やったー! カミキリ選手の勝ちー。よくやったぞ。お前は、俺が見込んだだけのことはあったな>
袋を見事に食い破って脱出したカミキリムシが、なぜか誇らしく思えた。
<ご苦労だった。さあ、森に帰れ>
紀彦は再びカミキリムシを捕らえると、ロビーの引き戸を開けて宙に放り投げた。
<元気でなー>
カミキリムシは羽ばたいて、夜の闇に消えていった。
<いやー、なかなか面白かった。どだい、植物が動物を捕って食うなんて、生意気なんだよ。あの温室の植物も、思い知っただろう>
温室まで戻った紀彦は、ふと温室の側面に貼られた紙を見つけた。そこには、手書きで次のように書かれている。
《食虫植物・ウツボカズラの一種 【お願い】捕虫袋に虫を入れないで下さい。ウツボカズラが弱ってしまいます》
<え? いけね。こんな注意書き、気が付かなかったな。もっと良く見える場所に貼らなきゃダメだよ>
虫対植物の対戦が終わると、また暇になった。それに、ロビーはかなり蒸し暑い。せっかく温泉に入って汗を流したのに、汗が噴き出してきた。
<客が俺一人だもんで、空調のスイッチを切ったな。近ごろ電気代が高くなっているから、節約しようってか? 女将に文句を言ってやろう>
ふとフロントに視線をやると、カウンターに置かれたパンフレット・スタンドに、宿周辺の観光施設のパンフレットや割引クーポン券が差し込んである。
<どれ、見てみるか。明日行って面白そうな所はあるかな?>
しかし、どれも子供連れの家族が行くような施設ばかりだ。
<アラフォーの独り者が、一人で行くような所はないか>
そう思いかけた時、何かのパンフレットの後ろから、意外な名前が書いてあるクーポン券が出てきた。
《うつぼ館直営「秘宝館」》
入場料2,000円のところ、このクーポン券で1,000円になるとある。
<5割引きか。ずいぶん安くなるな。それにしても、今どき秘宝館なんて珍しい。昔は、よく温泉街で見かけたもんだ。男女の性にまつわる、あれやこれやが展示してあった。もちろん、あまり露骨なものを展示すると御用になるから、当たり障りのない物ばかりだった。こんなものが、今でもあるのか。しかも、こんな辺鄙な所になぁ>
クーポン券をよく読むと、開館は年中無休、午後5時から10時までとある。
<まだ午後7時だ。こんな早い時間じゃ、寝られやしない。騙されたと思って、秘宝館とやらに行ってみるか>
「すみませーん!」
紀彦は、フロントから中の方に向かって声をかけた。しかし、何の応答もない。
カウンターの上にベルがあったので、
<誰もいないのか? 女将はどこ行った? 客をすっぽかして……>
少し苛立った紀彦は、チン・チン・チンとベルを連打した。
「はい、何でございましょう?」
突然、後ろから声を掛けられた。
「あ! ビックリしたなー」
「すみません。お布団を敷かせていただいていたものですから」
女将は年のころ40歳前後。つまり、紀彦と同じくらいの年恰好だ。灰色っぽい、小菊模様の着物を着ている。
<やはり、女将はなかなかの美人だよな。それだけが、ここの取り柄だ>
「あのー、この秘宝館という所は、ここから遠いんですかね」
紀彦は、クーポン券を見せながら尋ねた。女性に「秘宝館」などと言うのは多少気が引けたが、そんなことで臆する歳でもなかった。
「そうですねー、お車で30分くらいです。行かれますか? 行かれるんでしたら、お車でお送りしますよ」
「秘宝館には何があるんですか? 面白いんですかね?」
「お陰様で、見学されたお客様には好評です」
「うつぼ館直営と書いてありますね」
「はい。当館の付属施設なんです。でも、運営はすべて妹に任せています」
「ほう。妹さんがねぇ」
俄然、行く意欲が湧いてきた。
<この女将の妹なら、やはり美人に違いない。拝んで損はないはずだ>
「じゃぁ、行くことにします。お手数ですが、送迎をお願いできますか?」
「承知いたしました。着物では運転できませんので、これから着替えてまいります。藪原様も、いったんお部屋にお戻りになって、貴重品はご自身でお持ちください」
女将は、貴重品を入れるための
紀彦が準備を終えて玄関を出ると、大型のSUV(多目的スポーツ車)が横付けされていた。
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