標本No.1 ジョロウグモ 1

「では、標本No.1からご見学下さい。私がご一緒させていただきます」

「お。それは嬉しいね。でも、秘宝館の受付は大丈夫?」

「閉館させてきましたから、大丈夫です。こちらへどうぞ」

 若葉は、一番端の標本ケースの前に紀彦を案内した。標本ケースは、横2m、縦1mくらいと、かなり大型だった。

 ケースの中の展示物を見て、紀彦はギョッとした。

 タカアシガニを横に伸ばしたような物体が、ケースの底板に留められている。左側の胴体と思われる部分から右側に向かって、長い足のようなものが何本も伸びている。

 だいぶ乾燥しているらしい。もともと黄色と黒の縞模様があったようだが、今は色褪せている。足の先には、細く鋭い爪が一本ずつ付いている。足は全部で8本あるようだ。

「何なの? これは!」

「ジョロウグモです」

「クモ? クモがこんなに大きいわけないよね」

「ですから、とても珍しいんです」

 紀彦は腑に落ちなかったが、右側の足先から左へ移動しながら、顔を近付けて観察した。

 しなびて空気の抜けた風船のようなものは、元は腹だった部分だろう。

 そして、さらに左を見ると……。

「あ!」

 紀彦は声を失った。

 そこには、人の顔のような部分があった。ただ、頭蓋骨が抜かれているのか、干し首のように小さく縮んでいる。目を閉じ、口は開きっぱなしにならないよう、細い紐のようなもので縫って留めてあるようだ。だいぶ抜けて薄くなってはいるが、長い茶髪ちゃぱつも残っている。

「こ、これは、人の顔じゃないか? これ、ヤバいぞ!」

「藪原様。落ち着いて下さい。その椅子におかけになって。これから、解説を流しますから。ビール、お代わりありますよ。必要でしたら、遠慮なくおっしゃって下さいね」

 若葉は、標本ケースの下にあるボタンを押した。

 すぐに、解説のアナウンスが聞こえてきた。その声は若葉のものだ。



 きょうの綾奈あやなは、すこぶる機嫌きげんが悪かった。

 目が覚めたのが昼ごろで、そのままベッドでダラダラ過ごしていた。しかし、店のスタッフから連絡があって、夕方短時間でよいから出勤してほしいという。

<困ったときは助けてくれないのに、仕事はお構いなしに入れてくる……>

 面倒くさかったが断り切れず、こうして日暮れの街を歩いている。

<それにしても、耕平こうへいの奴!>

 耕平と付き合って3年目だった。

 最近耕平の様子がおかしいので、きのう彼を問い詰めたら、別れようという。

<この仕事を目一杯頑張って稼いだカネを、みんな耕平にぎ込んでやったのに。やっぱり、他に女を作ってたんだ>

 お前なんかこっちから縁を切ってやると言い放って別れたものの、悔しかったし、自分が惨めだった。

<でも、きのうは危うくが暴走しそうになったけど、なんとかコントロールできたな。自分をめてあげたい……>


 年季の入ったビルの前に来た。屋上の大看板はライトに照らされていて、安っぽい原色で《HOTEL PARADISE》と書かれている。

<ここは建物や設備が古いから、好きじゃない。仕事でなけりゃ、絶対に来ないな>

 道路に面して衝立ついたてのような壁があり、その脇を入るとビルの入口がある。

 ロビーを横切り、小窓のようなフロントの前を、行先の部屋番号を告げて通り過ぎる。

「お疲れさまー」

 フロントの中から、年配の女性の声がした。ここの支配人で、綾奈のような風俗嬢に親切だ。時々、お茶のペットボトルをくれたりする。

<きょうは、嫌な客に当たりませんように>

 綾奈はいつも、客室に向かうエレベータの中で、そう祈ることにしている。


 5階で降り、番号表示が点滅している部屋のドアをノックすると、待ち構えていたかのようにサッとドアが開いた。

 部屋のぬしを見たとたん、力が抜ける思いがした。

 客はすでに、黄ばんだ白ブリーフひとつの姿だ。

「入って、入って――」

 早くも肩に手を回してくる。

「先にお店に連絡を入れます。あのー、前払いですので、代金をお願いします」

 連絡を終えて、改めて客の姿を見た。

 50歳代だろうか。下膨しもぶくれの顔に禿げ上がった額。腹はいわゆるメタボ体形で、へそから下は毛むくじゃらだ。仕事帰りなのだろうか。顔一面にあぶらのようなものが、今にも滴り落ちそうなほど浮き出ている。

「いやー、可愛いねぇ。君、えーと、綾奈チャンだっけ。出身はどこ?」

「東京です」

「やっぱり、東京の子はどこか違うね、雰囲気が」

 本当は四国の出身だが、訊かれれば東京と答えるようにしている。

「俺は秋田だけど、きのう出張で東京に来てさ。今夜の新幹線で帰るんだ。その前に、いい思い出を作りたくてね」

<たった40分で、思い出なんか作れるんか?>

「さ、君も脱いで」

 綾奈はさっさと脱衣した。二人でバスルームへ行く。


「洗いますね」

 客の体を洗おうとすると、抱き付いてキスしてくる。

「洗い終わるまで、待って!」

 つい、綾奈の声がとげとげしくなる。

「分かったよ……」

 綾奈は、客の局部を洗い始めた。これからくわえたりしゃぶったりするのだろうから、念入りに洗わねばならない。持参した消毒液も使って。

 ところが、客は我慢しきれないらしく、綾奈の乳房をんだり、乳首をまんでひねったりしはじめた。

<そうガツガツするなよ。このエロジジイ>

 綾奈の中に少しずつ、ある感覚が溜まりだした。それは懐かしくて、しかし禍々まがまがしい何かだった。


 ベッドに行くと、綾奈は型どおりのサービスをした。

「今度は、俺が綾奈チャンを気持ちよくさせてあげる」

 綾奈は黙ってベッドに仰臥ぎょうがした。

 客は、ひとしきり綾奈の体を舐め回してから、綾奈のアソコに中指と薬指を差し入れた。そして、その指をピストンのように出し入れし始めた。

 指のピストン運動は、すぐに猛烈な速さになった。

「痛い! やめて!」

「もうすぐ気持ちよくなってくるからね。我慢、我慢。おシオ吹いちゃってもいいよ」

「いや!」

 綾奈は客の手を振りほどいて、起き上がった。

 あのまま続けさせていたら、出血したかもしれない。

「せっかく気持ちよくしてあげようとしたのに……。君は、顔は可愛いけど、ワガママだねー。今日は地雷を踏んじゃったかな?」

<それはこっちのセリフだよ。魚雷ってやつだ>

 綾奈の眼に異様な光がともり始めたが、客は気付くはずもなかった。

「ねえ、残り時間が少なくなってきたね。本番させてくれる?」

<やっぱり、そうきたね。このエロジジイ>

「デリバリー・ヘルスのお店ですので、本番は固く禁じられています」

 綾奈は、店から教えられたとおりに答えた。

「そんなこと、百も承知だよ。分かったうえで言っているんだ」

<誰が、お前のようなキモいジジイとやるか>

 綾奈は面倒になってきたので、適当にあしらうことにした。

「そんなにやりたいの。じゃあ、5万出しなよ。でも、ゴム付けてよ」

「え? 5万?」

 客の顔から、作り笑いが消えた。

「5万だって? は? 君は自分にそんな値打ちがあると思ってるんか? こりゃ、あきれたねー。自信過剰もほどほどにしろよ。君みたいな貧乳女は、千円でもおつりが来るだろうね。ほら、大人しくこっち来いよー」

 客は手を伸ばし、綾奈を捕まえようとした。

 するりと客の手をかいくぐった綾奈は、裸のままバスルームに飛び込んで、勢いよくドアを閉めた。

「ほら、戻ってこいよー。可愛がってやるからさー。さもないと口コミサイトに、本番ありの『アリさん』だって書き込むぞ!」

 客はベッドの上で叫んでいる。

「おい! 手抜きサービスじゃねぇかよ。カネ返せ!」


 バスルームには、ボディソープのボトルがあった。綾奈はボトルのキャップを外し、湯に満たされたバスタブに、中身を全部注ぎ込んだ。そして、ジェットバスのスイッチを押した。

 バスタブの湯は勢いよく泡立ち、泡が盛大に盛り上がっていく。

 バスルーム内が暗くなって、バスタブの底に設置された赤や青のライトが点滅した。それとともに、綾奈の顔や体に異様な変化が現れてきた。

 やがて、泡は天井まで届くほどかさを増し、バスルームは隙間なく泡で満たされた。


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