標本No1. ジョロウグモ 2

<ちくしょう。あの女、いったい何やってやがるんだ>

 しびれを切らした客はベッドから降り、バスルームのドアを開けた。

「うぉっ!」

 バスルームには泡が充満していて、ドアを開けたとたん、ドアの外まで泡が溢れ出てきた。

「おい、何の真似だよ! こんなことしたら、ホテルからクレームが付くぞ。お前、何とかしろよな」

 客は両手で泡を掻き分けながら、泡の中を進んだ。

「おい! どこにいるんだ? 早く出てきて、泡を何とかしろよ!」

 客の声は怒気どきを含んでいる。

 バスルームの中は暗く、赤と青の光が点滅するばかりで、周りがよく見えない。上下左右、ぜんぶ泡ばかりだ。

<こりゃぁ、いかん。いったん外に出た方がよさそうだ>

 客は、方向転換しようとした。

 ところが、上手うまくいかない。

 泡が妙にネバついている。体にまとわり付いて、引き剝がそうとしてもできない。発泡性入浴剤の泡であれば、粘着性はこれほど強くないはずだ。

「おい、お前! 何やったんだ? この泡は何だ?」

 もがけば踠くほど泡が体に張り付いて、締め付けてくる。クモの網に絡め捕られた虫のように、身動きが取れない。

 泡は、ネバついているばかりか、り合わさると強靭な繊維のような状態になるらしい。成人男性の力をもってしても、引き千切ることが難しい。

 それでも客は、何とかしてクモの糸から逃れようと、空しく踠き続けた。


 突然、客の顔の前に泡の隙間ができて、綾奈の顔が現れた。両目は真っ黒で白目がない。額に、6個の小さな目がある。どの目も瞬きせず、じっと男を見ている。

 その異様な形相ぎょうそうは、客の荒肝あらぎもひしぐに余りあった。

「す、すみませんでした。私が悪かったです。持っているおカネは全部あげますから、どうか命だけは助けて下さい」

 客は態度を一変させて、怯えた声で哀願した。左手はまだ少し動かせたので、綾奈の方に伸ばした。

 そのとたん、綾奈の上半身が現れた。顔、腕も含め、上半身は金色の短い毛でびっしりと覆われている。

 綾奈のへその両側に、縦に三つずつ並んだこぶのようなものが現れた。瘤の先端には小さな穴があり、そこから銀色の糸状のものが、客めがけて噴射された。糸の束は泡を突き抜け、たちまち客の左腕に絡み付いた。客は左手も動かせなくなった。

「あんた、何者だ? 化け物か?」

 それには答えず、綾奈は両方のてのひらで、左右から客の頭を挟んだ。指の爪は長くて鋭く、とても人間の爪とは思えない。

 客の顔をしばらく八つの眼で睨みつけたあと、キスでもするように、客の口に自分の口を重ねた。

 ――ゴボ、ゴボ、ゴボ――

 ヘドを吐くような音がしたとたん、客がうめき声をあげ、体が小刻みに震え出した。顔は、苦悶で歪んでいる。

――ゴボ、ゴボ、ゴボ――

 客は目を閉じ、ぐったりとして動かなくなった。しかし、泡が支えているためか、立ったままだ。


 綾奈が口を離したのは、10分くらい後だった。客の胸の辺りにへばり付いた糸の束を摑むと、泡の中から引きずり出した。客の体は力なくダラリとしていて、どうやら死んだらしい。

 客を引きずりながら、ベッドへと向かう。

 現れた綾奈の全身は、全体が金色の短い毛で覆われているが、下半身は黒色と金色の毒々しい縞模様だ。ジョロウグモやコガネグモの色彩と似ている。

 それにしても、片手で肥満した男を引きずるとは、若い女らしからぬ腕力だ。しかも、ベッドの脇まで来ると、片手で客をベッドの上に放り投げた。客の体は天井にぶつかりそうな高さまで飛んでから、ベッド上に落下してバウンドした。このようなことは、プロレスラーのような力自慢の男であっても、簡単に出来るものではない。

 それから綾奈は、ベッドの向きとは反対方向に客を仰臥させると、その頭がベッドの端から下に垂れる位置まで動かした。

 客の口から、赤褐色の液体が流れ出てきた。液体は、酸のような異臭を放っている。綾奈は客の頭の脇にしゃがみ、客の口に自分の口を重ねた。そうやって、客の口から流れ出る液体を飲んでいるようだ。というより、強い吸引力で液体を吸い込み、ゴクゴクと飲み込んでいる!


 このホテルは、チェックアウトしない限り、客室利用時間は自動延長になる仕組みだ。しかし、翌朝になってもチェックアウトしないので、不審に思ったホテルのスタッフが男の部屋に電話した。だが、誰も出ない。

 支配人の女性が部屋のドアをノックしたが、何の応答もない。そこで、マスターキーを使って入室した。

 部屋の内扉を開けると、嘔吐を催させる強烈な異臭が襲ってきた。

「うっ……」

 支配人は思わず掌で口と鼻を覆った。そして、ベッドに目を向けると……。

 仰向けに横たわった男の顔が、ベッドの端からけ反るようにしてこちらに向いていた。その顔は一面焼けただれたように赤黒く、どこが目なのか鼻なのか識別できないほどだった。ただ、口だけは異様に大きく開かれていて、歯も舌もない虚ろな穴と化していた。


 警察官が駆け付け、現場検証が行われた。

 被害者には持ち物を盗まれた形跡がなく、すぐに秋田県在住の会社員と判明した。被害者の体には、外力が加わってできる切創せっそう索状痕さくじょうこんなどは見られなかった。

 口の周りや顔に血液が混じった吐瀉物としゃぶつが付着していたことから、毒殺の可能性が濃厚だと判断され、司法解剖に回された。

 捜査員は、バスルームを見て目を疑った。

「これは、いったい何だ……」

 内部全体にクモの糸のようなものが張り巡らされていて、ハサミなどの刃物を使って切断しながらでないと、奥まで進むことができなかった。

 糸状物質などの遺留物は、分析のために科学捜査研究所に送られた。


 犯人については、男が呼んだデリバリーヘルス店コンパニオンの綾奈が、最有力とされた。しかし、不可解な点があった。綾奈が部屋を出た形跡がないのだ。

 このホテルの客室オートロック・システムは、やや特殊だ。一度入室すると、室内からはドアを開けることができない。開けるためには、室内のドア付近に設置されている精算機に客室料金を投入して精算しなければならない。しかし、この事件では、料金を精算して開錠した形跡がない。

 綾奈がホテルに来たことは、フロントにいた支配人が確認している。支配人が一定時間客室ドアを開錠したから、客はドアを開けて綾奈をしょうじ入れることができたわけだ。

 5階の廊下に設置された防犯カメラの映像には、綾奈が入室する姿は写っていたが、出ていく姿はなかった。

 客室の窓はロックが外れ、少し開いていた。しかし、窓の下は地面まで垂直の壁面であり、窓から飛び降りることは不可能だ。そうとう長い縄梯子なわばしごでも用意しない限り、窓からの逃走は難しい。


 解剖や科捜研による分析の結果は、驚くべきものだった。

 被害者の首から下の上半身は、中身のないガランドウの状態だったのである。胸の部分は、かろうじて残った肋骨により形を保っていたが、腹部は著しく凹んでいた。臓器がほとんど残っていないからだ。

 上半身内の残留物から、ラトロトキシンという神経毒と、消化酵素が検出された。これらの組成は、毒グモとして知られるゴケグモ類のそれと酷似している。

 ここから連想されるのは、クモの捕食方法だ。クモは、獲物に突き立てた牙の先から毒液と消化液を注入する。獲物は死に、体内のタンパク質は、消化液により消化される。ある程度消化が進んだら、クモはポンプのような胃を使って、これを吸い取るのだ。

 一方、浴室に充満していたのは、クモの糸や網と同じ組成の物質だった。

 主成分はタンパク質である。おそらく、浴槽で発生させた泡に糸の成分を混ぜ合わせたのだろう。この泡を浴室に充満させて被害者を捕捉し、さらに雁字搦がんじがらめにしたと推測される。被害者の体は、このクモの糸のようなもので、グルグル巻きにされていた。

 ミズグモといって、水中に巣を作るクモもいるくらいだから、水に濡れても糸が溶けることはないのだろう。

 犯人は、クモの糸のような物質を撚り合わせたつなを使って、窓から地上に降りたと断定された。窓のふちから、クモの糸と同じ成分が検出されたからだ。

 クモの糸の強度は、同じ太さで比較すると、鉄の4~5倍だといわれている。撚り合わせて太くすれば、人ひとりを吊り下げることは可能だろう。

 綾奈という名前はもちろん、本名ではなく源氏名げんじなである。

 店には本名を届け出ているはずだ。しかし、店に提出されていた本人確認書類は、偽造されたものであることが判明した。

 綾奈は、店が借り上げたワンルーム・マンションに住んでいたが、この日以来、帰っていない。捜査員が部屋を詳細に調べたが、本人を特定できるものは何一つ残されていなかった。

 所轄署に、「ホテル・パラダイス 会社員殺人事件 捜査本部」が設置されたが、捜査は難航した。


 2か月ほどのち、都内のワンルーム・マンションの一室で、その部屋の住人が殺害される事件が発生した。その事件には、ホテル・パラダイス殺人事件と共通する点が多々あった。

 遺体はクモの糸状物質に分厚く覆われており、体が見えないほどだった。また、臓器や血液などの内容物が抜き取られ、体の中はガランドウ状態だった。部屋に泡状のクモの糸が充満していることも、前の事件と共通していた。

 今回の事件の被害者は、山下耕平やましたこうへいといった。山下と綾奈の関係も判明した。


 二つの事件は連続殺人事件であると判断され、「クモの糸状物質を使用した連続殺人事件 合同捜査本部」が設置された。警察内部では、「クモ女連続殺人事件」と呼ぶ者もいた。大勢の捜査員を投入して容疑者・綾奈を追っているにもかかわらず、ようとして所在が知れない。事件は現在も未解決のままである。


 *


 紀彦は、フーッと息を吐きだした。

「なに? この標本が、今の話に出てきた綾奈だっていうの?」

「はい」

「そんな馬鹿な。綾奈は人間だろ? だったら、この標本、死体遺棄とかいう罪になるんじゃないの?」

「綾奈は、すでに人間ではありません」

「いや。そこに、しぼんではいるが、人間の顔のようなものが付いてるぞ」

「だったら、これはレプリカ、ということにしましょう」

「……?」

 紀彦は、首をひねった。

「さあ、次の標本に行きましょう。どんどん観ていただかないと、いつまで経ってもバーには行きつけませんよ」

「だね」

 彼らは、次の標本に移っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る