標本No.2 オオスズメバチ 1
No.2はスズメバチに見えるのだが、異様に大きい。
自然博物館などにある昆虫の標本のように、きちんと
「オオスズメバチが飛んでいるのを見たことがある。姿形はそれとそっくりだけど、大きさは桁外れに大きいな。これは新種なの?」
「説明を聞いていただければ分かりますが、これはオオスズメバチの亜種です」
「亜種って?」
「かなり似ていますが少し違う種類、くらいの意味じゃないでしょうか」
「実に凶悪な顔してる。こんな奴に集団で襲われたら、怖いだろうな」
「はい。これから始まるのは、そういうお話です」
「イヤだねー。酒、なくなったよ。ビールみたいな薄いのじゃ物足りない。もっと強いのないの?」
「ワンカップの日本酒ならありますよ」
「それ、もらうよ」
若葉は、トートバッグからワンカップを取り出し、蓋を開けて紀彦に渡した。紀彦は、一気に半分くらい飲んだ。
*
こうした真夏の風景に接するたびに僕は、虫好きで風変りな少女と出会った夏を思い出す。時期は昭和30年代で、僕はその時、小学5年生だったと思う。
僕はそのころ、母に買ってもらった昆虫図鑑や児童版『ファーブル昆虫記』の影響で、虫の観察や採集、飼育に夢中になっていた。
しかし、虫に関する知識という点では、同級生で親友の
1学期の終業式の日、勇人君が耳寄りな情報をもたらした。
「『クヌギの森公園』という公園に、カブトムシやクワガタムシがたくさん住んでいる秘密の森があって、ミヤマクワガタなんかもいるらしいぜ」
「その公園、どこにあるんだ? 行くとしたら、どうやって行くんだろう?」
「
「うん。行こう!」
翌日から夏休みだ。僕たちは、行く日や集合時刻・場所などを決めて別れた。
そのころ僕が住んでいた東京都
それでも、カブトムシやクワガタムシがいる林は、僕らと同じような「昆虫少年」が集まるから、そうたくさんは捕れなかった。まして、ミヤマクワガタとなると、滅多にお目にかかれず、僕はまだ捕まえたことがなかった。現在のようにカブトムシやクワガタムシが、外国種を含めてペットショップで売られているなどということは、当時ほとんどなかったと思う。
約束の日は、幸い晴天だった。
僕たちは、捕虫網などの虫採り道具、母親に作ってもらった握り飯や水筒を携えて、勇んで出発した。昔の水路の跡が遊歩道になっていて、おおむねその道を歩いた。勇人君が、国土地理院発行の「二万五千分の一地図」を持っていたので、迷わず公園にたどり着くことができた。すぐに「秘密の森」を探し始めた。
ところが、クヌギやシイといった、甲虫が集まりそうな樹木の林はあったけれど、どこも先着した少年たちが、根元をほじくったり、足で幹を蹴って
「
「いや、いいんだ。ミヤマクワガタは捕れなかったけど、ノコギリクワガタのオスとメス、カナブンが捕れたから……。昼飯を食べて帰ろう」
僕たちは、公園のベンチで遅い昼食をとってから、来た道を戻り始めた。暑い中で虫捕りに熱中した疲れもあって、来た時に比べて僕たちの歩みは遅く、お互いあまり話もしなかった。
おそらく、武蔵野市に入っていたと思う。
遊歩道の左側に、かなり広いクリ林が広がっていた。その林には2~3人の少年がいて、捕虫網の
僕は興味が湧いたので、勇人君に声をかけた。
「あれ、何しているんだろう? ちょっと見てみないか?」
勇人君は気乗りしないようだったが、付いてきてくれた。
「ねえ、君たち何を探してるの?」
少年の一人に尋ねた。
「オトシブミだよ」
「オトシブミ? 変わった虫を探してるんだね。僕たちは、クヌギの森公園で、ノコギリクワガタを捕ったよ」
「そう。でも、オトシブミを見つければ、好きなクワガタがもらえるんだ。ミヤマだってもらえる」
「え! ミヤマをもらえるの。どこに行けばもらえるの?」
「この林の外れに大きな家がある。そこに住んでいる
「ねえ、僕たちをその家に連れていってよ」
横にいる勇人君は、なんだか不安そうな顔をしている。
「いいよ。でも、畦地さんはすぐにくれるわけじゃない。テストに合格しないと」
「テスト? どういうテストなの?」
「畦地さんが命令した虫を、命令された数だけ捕まえて、畦地さんに渡すんだ」
「へー。例えば、どんな虫?」
「僕の場合、最初はテントウムシダマシ20匹だった。でも、集められなかった。そうしたら、ダンゴムシ20匹にしてくれて、何とか集められた」
「テントウムシダマシ? 知らないなー。どんな虫なの?」
「草食性のテントウムシのことだよ。ニジュウヤホシテントウとか、オオニジュウヤホシテントウなんかだね。肉食性のテントウムシと違って、ジャガイモやトマトの葉を食べる害虫なんだ」
「面白そうだね。お願いだから連れていってよ。勇人も行くよね」
「俺は行かない。お母さんから、知らない人の家に行ってはいけないと言われているから」
僕が勝手に話を進めたものだから、勇人君は面白くないらしい。
「気を付けろよ……」
先に帰ってしまった。
クリ林の中の道を
少年は、玄関からは入らず、建物の裏手に回った。勝手口のような入口から中に入ると、土間になっていた。
「ここで待ってて」
少年は、靴を脱いで板の間に上がると、ドアの一つを開けて中に入っていった。しばらくすると、ドアが開いて少年が顔を出した。
「入って」
僕は、少しドキドキしながら部屋に入った。入れ替わりに、少年は外に出ていった。今となってはどれくらいの広さか正確には分からないが、僕にはずいぶん広い部屋に感じられた。壁や窓に沿って、たくさんの虫籠、昆虫飼育箱、水槽などがズラリと並んでいた。
それらを背にして、革張りの立派な肘掛椅子が一脚あって、そこに髪の長い女の人が座っていた。女の人は中学生くらいの年恰好で、白と紺のセーラー服を着ている。肘掛椅子は外国製なのかとても大きく、その人の足が床に届かないくらいだ。
<畦地さんて、女の人だったんだ>
僕は、虫好きの人だというから男だろうと、勝手に決め付けていたのだ。
「話は聞いたよ。『昆虫探偵団』に入りたいんだって?」
「コンチュウタンテイダン?……はい、そうです」
「君はどこの小学校? 家はどこ?」
「武蔵野市立
「そう。僕は市立
女なのに自分のことを「僕」と呼ぶなんて、畦地さんは少し変わっていると思った。今でこそ、自分を僕と呼ぶ女性もいるが、当時はそうではなかった。
「ところで、君はどういう虫が好きなの?」
「一番好きなのは、クワガタです。きょうクヌギの森公園に行って、ミヤマクワガタを探しましたが、見つかりませんでした。友達が、秘密の森があると言ってたんですが……」
「ははぁ、あそこにそんな森はないよ。でも、ミヤマクワガタなら、この家にいる。君は探偵団に入って、ミヤマクワガタがもらいたいんだよね?」
「はい、そうです。でも、テストがあるそうですね」
「そうだよ。君は、毛虫は好き?」
畦地さんは、肩にかかった長くて癖のない黒髪を、手でかき上げて背中の方に寄せながら、僕に尋ねた。
「えーと、あまり好きじゃありません」
「それはなぜ?」
畦地さんの大きな瞳から発せられる強い視線が、なぜか眩しく感じられて、僕はドギマギしてしまった。畦地さんはまだ中学生だったが、小学生の僕からは、ずいぶん大人びて見えた。
「それは……、毛むくじゃらで気味が悪いからです。中には、触ると手がかぶれてしまう種類もあります」
「そう。まあ、それが普通だね。君、テストを受ける?」
「はい、ぜひお願いします」
「昆虫探偵団に入ると、僕が言う虫を捕ってこなくちゃいけない。捕ってきたら、カブトムシやクワガタムシと交換してあげる。僕が言う虫の中には、気味の悪いのもいるかもしれないけど、君は大丈夫かな?」
「大丈夫です。虫捕りには自信があります」
「そう。では、テストの問題を言うよ。ヒラタチャタテを10匹。生きていても死んでいても構わない。期限はなし。10匹捕まえたら、ここに持ってきて」
「ヒラタチャタテ? それは、どういう虫ですか?」
「このポケット昆虫図鑑を貸してあげるから、自分で調べて。それから、捕まえる道具も貸してあげる……。はい、これ。
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