標本No.2 オオスズメバチ 2
僕は帰宅するとすぐに、貸してもらった図鑑を開いて、ヒラタチャタテについて調べた。それは、古本のページなどを徘徊している、体長1mmくらいの昆虫だ。何となく人間の周りにいる虫だが、日頃気に留めることはほとんどない。なぜ「テスト」の問題にこんな虫を選んだのか、不思議だった。けれど、とにかく10匹集めようと思った。ミヤマクワガタが欲しいこともあったが、それにも増して、もういちど畦地さんに会いたかった。
貸してくれた吸虫管というのは、指やピンセットでは摘めないくらい小さな虫を捕えるための道具だ。試験管のようなガラス瓶に、ビニル管が二本差してある。一方の管を口に咥え、他の管の端を虫に近付ける。管を吸うと、虫がガラス瓶に吸い込まれる仕組みだ。
時たま何気なく見かけるヒラタチャタテだが、いざ見つけようとすると、なかなか見つからない。僕は母に事情を話し、見かけたら教えてくれるように頼んだ。
「いいよ。見かけたら、すぐ知らせる」
母は、快諾してくれた。
父には、何となく頼みづらかった。父は、技術者として企業に勤めていたが、毎日帰宅が遅かった。それに、あまりしゃべらない人だった。僕は物心ついた時から、何となく近づきがたい雰囲気を感じて、敬遠していた。
翌日、勇人君の家に行って、勇人君にもヒラタチャタテの採集を頼んだ。勇人君は、引き受けてくれた。
結局、10匹集めるのに1週間かかってしまった。ヒラタチャタテは、小虫のくせにピョンピョン跳ねるので、意外に捕まえるのが難しかった。
「捕れたんだね? どれ、見せて」
畦地さんは瓶の蓋を開けて、中の虫を数えた。
「ちゃんと10匹いるね。大変だったでしょ?」
「はい、いざ探そうとすると、なかなか見つからなくて」
「そうでしょ。僕たちは無関心だけど、人間の周りには、小さな生き物がたくさん暮らしているんだよ。僕たちだって、そうした生き物のひとつなんだ」
「うん……」
「さあ、これで昭夫君も昆虫探偵団の団員だね。おめでとう!」
畦地さんは、椅子から立ち上がり、近くの戸棚から何か取り出してきた。
「これは、探偵団員の証明だよ。団員として活動する時は、これを首に掛けてね」
手作りのペンダントのようなものを、僕の首に掛けてくれた。ペンダントの紐は緑色の毛糸で、先には小さな木片が付いている。木片を手に取ってみると、ハチの形をしていて、ハチらしく黄色と黒の彩色が施されていた。
「これは、ハチ?」
「うん。オオスズメバチ。僕が一番好きな虫だよ」
「刺されたら痛いんでしょ?」
「日本で、いや世界の中でも一番強いスズメバチだからね。
「なぜ畦地さんは、そんな怖い虫が好きなんですか?」
畦地さんが答える前に、部屋にもう一つあるドアをノックする音が聞こえた。畦地さんが返事をすると、中年の女性が入ってきた。
「これ、夏子。また、小学生の子を連れてきたんだね」
「ええ、母さん。昭夫君といって、欅小の子だよ」
「昭夫君、こんにちは。ねえ夏子、クッキーと紅茶を持ってきたから、一緒に食べなさい」
<畦地さんは、夏子という名前なんだ>
畦地さんの名前を知って、僕はなんだか嬉しくなった。
「男の子たちに虫捕りをさせるのはいいけれど、くれぐれも危ないことはさせないようにね」
「分かってる」
お母さんは、部屋から出て行った。
「どうぞ」
夏子さんは、僕にクッキーと紅茶を勧めてくれた。
「ねえ。今から千年近く昔に、『虫大好き姫』と呼ばれたお姫様がいたんだけど、昭夫君は知ってる?」
「いえ、知りません」
「そうだよね。僕も、現代語訳しか読んだことがない。その姫は虫が大好きで、近所の男の子に命じて、いろいろな虫を集めてたの。特に、毛虫が大好きだったみたい。姫は、ものごとを外見で判断してはいけないと言っていたそうだよ。醜い毛虫も、やがてチョウやガになるって」
「はぁ……」
「当時、女の人は眉を剃り落として、眉墨で眉を書いたり、歯を黒く染めたりするのが普通だったんだって。でも姫は、うわべを取り繕うのは良くないと言って、両方ともやらなかったそうだよ。僕はこの姫が大好きで、憧れているんだ。あ、昭夫君には少し難しかったかな?」
「いえ、何となく分かる。あのぅ、この部屋で飼っている虫を見てもいい?」
「もちろん。自由に見て」
僕は、部屋のテーブルや棚の上に所狭しと並んでいる飼育箱や水槽を、丹念に見て回った。たくさんの虫が飼われていて、中には僕が知らない虫もいた。
やがて、僕はあることに気が付いた。ここに飼われているのは、およそ人気のない、どちらかというと嫌われている虫ばかりなのだ。毛虫、ムカデ、ゲジ、ヤスデ、カマドウマ、ハサミムシ、カマキリ、ナメクジ……、なんと、ゴキブリまでいる。
「この、すごく大きい牙をもったクモは、何ですか?」
「ワスレナグモだよ。牙が大きいのがメス。可愛いでしょ?」
「背中に赤い所がある小型の甲虫は?」
「シデムシの一種で、ヤマトモンシデムシというの。動物の死体に集まってきて、森や林を掃除してくれる偉い虫だよ」
「あ! これ知ってる。危ないから触っちゃいけないと、先生から言われた」
「アオバアリガタハネカクシだね。でも、その虫が悪いわけじゃないよ。潰したりする人間の方が悪いんだよ」
「あ! カブトムシだ。こっちはクワガタだね。ミヤマもいる!」
生きているミヤマクワガタのオスを間近に見るのは初めてだった。僕は興奮した。
「昭夫君は、本当にクワガタが好きなんだね。それじゃあ、さっそく頼もうかな。何の虫にするか、ちょっと考えさせてね」
夏子さんは、肘掛椅子の
「決めたよ。クサギカメムシ10匹ね。カブトでもクワガタでも、欲しい虫と交換してあげる。どう、やってみる?」
「うん」
「クサギカメムシがどういう姿で、どこにいるかは、机の上にある昆虫図鑑に出てる。下手に触ると臭い液を出すから、気を付けてね。入れ物は、この前預かった江戸むらさきの瓶でいいから」
夏子さんは、江戸むらさきの瓶を返してくれた。
「分かった。これに入っていたヒラタチャタテはどうしたの?」
「この部屋に、逃がしたよ。その辺で遊んでいるんじゃない。ヒラタチャタテは、みんな女の子なんだよ」
こうして、夏子さんと僕の、奇妙な取引関係が始まった。
僕は、夏休みの宿題もそっちのけで、虫の採集に没頭した。学校の宿題より、夏子さんの宿題の方が楽しくて、ずっと大切だった。指定された虫を早く集めて持っていけば、それだけ早くカブトやクワガタが手に入るし、次の宿題も出してくれる。でも、本当のことを言えば、カブトやクワガタをもらうことより、夏子さんと会って、虫について話したり、夏子さんの部屋で飼われている虫を一緒に観察したりする方が、ずっと楽しかった。
そうするうちに、僕は不思議なことに気が付いた。ここで飼われている虫たちは、夏子さんが近付いたり、触ったりすると、途端に大人しくなるのだった。
例えば、ある水槽には、長さが15cm近くあるムカデが1匹飼われていた。派手な赤色の頭と触角。黒くてぬらぬらした胴体。21対の足の先は、鋭い爪になっている。ムカデが好きという人は、あまり聞いたことがない。
ところが、夏子さんはそのムカデをそっと摘まみ上げると、掌に載せて楽しそうに眺めていた。
「トビズムカデだから、名前は『トビちゃん』。去年子供を9匹も育てたお母さんだよ。黒い目が可愛いよね。お尻から突き出した2本の尻尾のようなものは
「ムカデって、毒を持っていて咬むんでしょ。大丈夫なの?」
「僕には咬みつかない。でも、昭夫君には咬みつくかもしれないから、素手で触っちゃだめだよ」
夏子さんは、トビちゃんを自分の頭や肩に載せたりして、しばらく遊んでいた。僕は、夏子さんはすごいと思う反面、少し気味悪く感じた。
数日後、近ごろ探偵団の他の少年を見かけなくなったので、夏子さんに尋ねた。
「他の団員を見かけないけど、どうしたの?」
「みんな辞めたよ」
「え! どうして?」
「探す虫が変な虫ばかりだから嫌になったり、ミヤマクワガタを手に入れて探偵団にいる必要がなくなったり……。親から止められたという子もいたな」
「そうすると、団員は僕一人?」
「そう。昭夫君は一生懸命やってくれるから、君一人で十分だよ。それに、昭夫君は素直で可愛いしね。僕は昭夫君が好きだよ」
僕は、ライバルがいなくなったような気がして嬉しかった。それに、「好き」という言葉を聞いて、縁日で食べる綿飴の甘い味が、体中に広がっていくような気持ちがした。もちろん、夏子さんはごく軽い気持ちで言ったのだろうが。
翌日から僕は、部屋にいるたくさんの虫たちの世話を、手伝わせてもらえるようになった。夏子さんは、それぞれの虫の性格や世話のコツを、丁寧に教えてくれた。僕は毎日のように夏子さんの家に通って、虫の世話をした。
当時、クーラーはまだ普及しておらず、部屋には扇風機1台しかなかった。だから、窓を開けても部屋の中はとても暑かった。夏子さんと僕は、汗だくになりながら虫の世話をした。
夏子さんに指示されてする屋外の昆虫採集も大変だった。ある時は、炎天下の原っぱで這うようにして虫を探した。みるみるうちに辺りが暗くなって雷が鳴り、突然大粒の雨が降りだして全身ずぶ濡れになったこともある。またある時は、林の中で虫探しに夢中になって、体の至る所を
しかし、そうしたことは、まったく苦にならなかった。虫が好きということもあったが、なにより、夏子さんに喜んでもらえるのが嬉しかった。それに、濡れた体をタオルで拭いてくれたり、藪蚊に刺された所に「キンカン」(虫刺され用の塗り薬)を塗ってくれたりと、優しくしてくれた。そのような時、夏子さんの顔や体が僕のすぐそばに近付いたり、夏子さんの手が僕に触れたりすることがあった。すると、いつもはまるで意識しない自分の鼓動が、はっきりと感じられた。
一度だけだったが、夏子さんが
今から思えば、僕が夏子さんに抱いたのは、年上の女性に対する幼くて淡い恋心だったのかもしれない。むろんその時は、異様な出来事が待ち構えていようとは、予想できるはずもなかった。
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