標本No.2 オオスズメバチ 3
その夏、僕の両親は僕や妹を連れて、
しかし僕は、夏子さんの家で飼われている虫の世話を理由に、家に残ると言い張った。初めは認めなかった両親は、僕の頑固さに根負けして認めてくれた。それで僕の母は、夏子さんのお母さんのところへ挨拶に行った。するとお母さんは、家族旅行の間、僕を畦地さんの家に泊めてもよいと言ってくれた。
母からそれを聞いた僕は、表向きは平静を装っていたものの、内心では狂喜乱舞した。なにしろ、3日間ずっと夏子さんと一緒に過ごせるのだから。
いよいよその日が来た。もちろん、夏子さんも僕もまだ幼く、何か変わったことが起こるはずもなかった。
三食はお母さんが作ってくれて、一緒に食べた。午後3時には、おやつと冷たい麦茶を出してくれた。その麦茶は砂糖で甘みが付けてあって、子供の僕にはとても美味しく感じられた。夜は1階の六畳間に僕一人で寝た。
畦地宅に滞在中、夏子さんのお父さんの姿を見ることは一度もなかった。また、夏子さんやお母さんから、お父さんに関する話が出ることもなかった。
日中は、これまでと同様、夏子さんの部屋に籠って、虫の世話に専念したり、時々外に昆虫採集に出かけたりした。ここの虫たちはどれも、夏子さんに懐いているようだった。僕への反応とは明らかに違っていた。
2日目の午後、僕は夏子さんに命じられて、少し離れた公園までツマグロオオヨコバイという虫を捕まえに行った。農作物の汁を吸うこともあるので、害虫とされている虫だ。公園の植栽にたくさんいたので、命じられた30匹は予想したよりずっと早く捕まえることができた。
すぐに夏子さんの部屋に戻ったが、夏子さんの姿はなかった。
夏子さんの部屋でブラブラしていると、いつもお母さんが出入りするドアとは別の、やや小型のドアがあることに気が付いた。ノブを回して押してみると、
そこに部屋はなく、下に降りる階段があった。下を覗いてみると、
「夏子さん? 昭夫です。いますか?」
階段を降りたところで僕が声を発した途端、辺りは虫の羽音に包まれた。それも、1匹や2匹ではない。おびただしい数の虫が、いっせいに羽ばたき始めたのだ。羽音は、腹に響くような重低音だ。
さらに、カチカチという音も聞こえ始めた。僕は、スズメバチが発する警告音ではないかと思った。うっかりスズメバチの巣に近付いたりすると、スズメバチは飛び回りながら、左右の大顎を嚙み合わせて、カチカチという警告音を発するのだ。
僕は怖くなって、その場に立ちすくんでしまった。虫はやはりスズメバチで、金網の向こうで盛んに飛び回っている。中には僕に向かってまっしぐらに飛んできて、金網に体当たりするものもいる。地下室全体が、ハチの巣をつついたように騒然としている。
「昭夫君?」
夏子さんの声がしたが、姿は見えない。
地下室の照明は、ワット数が低そうな裸電球が2~3個、天井に直付けされているだけだったので、目が慣れないうちは、辺りがよく見えなかった。
「昭夫君なのね。動かないで」
金網の向こうで、夏子さんが立ち上がるのが見えた。
「静かに……、静かに……」
夏子さんが穏やかな声を発すると、次第にスズメバチの羽音が小さくなり、しばらくすると、まったく聞こえなくなった。あの警告音も止んだ。
「驚かしてごめんね、昭夫君。地下室のドア、鍵を閉め忘れてた」
夏子さんは、金網の一部に作られたドアを開けて、こちら側に出てきた。
驚いたことに、あれほど興奮して飛び回っていたスズメバチに、刺された様子はまったく見られない。
「驚いたでしょ。まだ言ってなかったけど、ここにはオオスズメバチの巣が四つあるの」
「オオスズメバチ? それって、この団員証のハチだよね。日本で一番強いスズメバチなんでしょ。どうして夏子さんは刺されないの?」
「うーん、説明するのは難しいね。僕がスズメバチのことが好きで、スズメバチも僕のことが好きだから……かなぁ」
僕は内心、本当にそんなことがあるのか疑問に思ったけれど、口には出さなかった。
「地下室の中を見てみる? 金網の外からなら、大丈夫だから」
地下室の半分くらいのスペースが、床から天井まで木の柱や板、金網で仕切られている。さらに、スズメバチがいる方は、
巣は、水平の板状のもの――
「ここのスズメバチは、外に出られないの?」
「いいえ。天井の真ん中の壁寄りに、四角い穴があるでしょ。あれは通気孔。屋根から突き出している
「ふーん」
僕は、金網越しに4つの巣を見て回った。そして、一番奥にある巣の規模が、他の三つに比べ頭抜けて大きいことに気が付いた。他の数倍はある。天井から重なって下がっている巣の全長は、天井から床までの長さの半分を超している。
「奥の巣だけ、ずいぶん大きいね」
「気が付いた? あそこには、ほかの三つの巣にいる女王バチのお母さんがいるの」
「へぇー」
僕は、その巨大な巣の前に立って観察した。巣の内部や表面を、忙しそうに動き回っている働きバチの数は、尋常な数ではない。あの蜂たちにいっせいに攻撃されたら、人間だってただでは済まない。そう考えると、単なる虫とは思えない
その時は僕に知識がなかったので不思議に思わなかったが、女王バチとその母バチがいっしょにいるというのは奇妙だ。なぜなら、女王バチは秋、新女王バチとなるハチの卵を生んでしばらくすると、死んでしまうからだ。
新女王バチは成長すると結婚飛行に飛び立ち、他の巣から飛んできたオスバチと交尾する。オスバチはすぐ死に、新女王バチは単独で越冬する。翌年の春、自分1匹だけで巣作りを始め、働きバチを生み育てる。働きバチは全部メスだから、みな女王の娘だ。
と、その時、眼前の大きな巣の中から、働きバチの3倍くらいはありそうな、巨大なハチが現れた。しばらく巣の表面を歩き回ったのち、巣盤の間から頭を出すようにして、動きを止めた。頭を僕の方に向けているので、まるで僕をじっと観察しているようだった。しかし、その無表情な顔からは、何を考えているのか読み取ることはできない。
「あの、飛びぬけて大きなハチが、夏子さんが言ったお母さんバチなの?」
僕は、自分の声が少し震えているのを感じた。
「うん、そうだよ。とっても優しいお母さんなんだ。名前はね、トリュウというの」
その声から恐怖は微塵も感じられず、むしろ、その巨大バチに親しみを感じているような響きすらあった。
僕がもらった昆虫探偵団の団員証は、きっとトリュウを
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます