標本No.2 オオスズメバチ 4

 当時の日本は、高度経済成長の真っただ中だった。東京オリンピックの準備が急ピッチで進められ、物質的な面は日を追って豊かになっていた。けれど、公害や環境破壊など、影の面も次第にあらわになってきた。

 僕が住んでいた武蔵野市でも、あちこちの林、原っぱ、畑が、すごい速さで住宅や商業施設に変わっていった。

 前にも言ったように、夏子さんの家の隣にはクリ林が広がっていた。遊歩道を挟んでこのクリ林の向かい側に、かなり広い雑木林があった。この雑木林を宅地造成し、そこに某大手企業の社宅を建設するという噂が、しばらく前から周辺住民に広がっていた。

 ある日、雑木林の前に、「〇〇〇〇株式会社 社宅予定地」と書かれた看板が立てられた。社宅建設が現実のものであることが、明らかになったのだ。

 ところが、その林で測量を行っていた測量技師2人のうち1人が、スズメバチに刺されるという事故が起きた。技師は、社宅建設を請け負った大手建設会社から派遣されてきていた。意識不明となり、ただちに救急搬送されたが死亡した。死因はショック死で、体の数か所を刺されたことが原因とされた。同僚の話によると、そのスズメバチは大型で、オオスズメバチのようだった。

 建設会社は、作業員の安全のため、敷地内のスズメバチを一掃することにした。冬場になれば、少数の越冬女王バチを残して、スズメバチは姿を消すはずだ。しかし、建設会社はそれを待つことなく、ただちに実行に移した。工期上の制約があったのか、建設を急いでいたようだ。

 防護服に身を固めた害虫駆除会社の社員が、木のうろや藪の下の地中に作られたスズメバチの巣を、しらみつぶしに探した。巣が見つかると、大量の殺虫剤を使ってハチを駆除するとともに、巣を根こそぎ破壊・回収した。特に女王バチは、捕り損ねると別の場所で再び巣を作る可能性があるから、確実に捕獲・駆除した。社宅予定地内のスズメバチは一掃され、測量が再開された。


 ところが、第二の犠牲者が出た。しかも今度は一度に3人だった。測量技師が2人、そして、万一に備えて現場で待機していた駆除会社社員1人で、いずれも救急搬送されたが死亡が確認された。

 測量技師は2人とも、全身の数10か所を刺されていた。しかし、今回はそれだけではなかった。体の表面から、皮膚や肉が食い千切られていた。

 特に被害が集中していたのは、耳朶、まぶた、鼻、唇、頬など頭部だった。食い千切られた部分には直径5~10mm程度の穴が開き、そこから相当出血していた。両眼は瞼の下の角膜や水晶体が食い破られ、眼球を満たしている硝子体しょうしたいが外に流れ出していた。犠牲者の顔面はあたかも生皮を剝がされたような状態で、顔から個人を特定することができないほどだったそうだ。

 しかし、さらに凄惨だったのは、駆除会社社員だった。着ていた防護服は、ほとんど役に立たなかったようだ。あちこちが食い破られ、無数のスズメバチがそこから服の中に侵入した。測量技師と同様、毒針で刺したり肉片を食い千切ったりした。さらに、後で行われた解剖によって分かったことだが、耳、鼻、口といった穴から体内に侵入し、内耳ないじ副鼻腔ふくびくう、舌、咽頭いんとうなどを食い荒らした。そればかりか、眼窩がんかの奥の骨や副鼻腔を突き破って頭蓋骨内に侵入し、豆腐のように柔らかいといわれる脳を徹底的に破壊した。また、気管と気管支を通って肺に侵入し、組織に甚大な損傷を与えていた。

 スズメバチの攻撃は短時間のうちに行われた。終わるとすぐに、殺虫剤で死んだ個体を残して、1匹残らず飛び去った。いや、1匹だけは違った。駆け付けた救急隊員が駆除会社社員を担架に乗せて救急車に運んでいる途中だった。閉じていた被害者の口の辺りが膨らんだり少し動いたりした。

「どうしました⁉」

 被害者が何かを訴えようとしているのだと思った隊員は、被害者の口元に耳を近付けた。ところが、口をじ開けるようにして出てきたのは1匹のスズメバチで、あっという間に飛び去った。その体は鮮血にまみれ、口に肉片を咥えていた。

 たまたま雑木林の近くの遊歩道を歩いていた人の目撃談によると、スズメバチの群は、社宅予定地から遊歩道を挟んで広がるクリ林の方から飛来したという。不用意にスズメバチの巣に近付いた時に攻撃してくるハチの数を大幅に超える、ものすごい大群だったそうだ。

 駆除会社社員は、殺虫剤が入った噴霧器を背負っていた。彼は襲来したスズメバチに殺虫剤で応戦した。しかし、スズメバチは殺虫剤にまったく怯むことなく、攻撃を続けた。彼の周りには、スズメバチの死骸が何百個も落ちていたそうだ。

 スズメバチによる被害にしては、今回は極めて異常な様相を呈していた。マスコミに取り上げられ、警察が動いた。市役所の所管課と合同で、クリ林の中にオオスズメバチの巣がないか捜索した。しかし、巣は発見できなかった。


 1週間ほど後、父が僕に、新聞に掲載された続報について教えてくれた。

 警察の発表によれば、事件現場に残されていたスズメバチの死骸を専門機関で鑑定したところ、オオスズメバチに似ているものの、オオスズメバチとはいくつかの点で異なることが分かったというのだ。

「一般的なオオスズメバチに比べて、体長が1.5倍くらい大きいそうだ。毒針の形状や毒の成分にも相違点があるらしい。いずれも、これまで確認されたことのない特徴で、従来種に比べてはるかに攻撃性と毒の威力が大きいそうだ。専門機関は、オオスズメバチの新たな亜種ではないかと推測しているが、どこでどのようにして生まれたのか、全く分からないらしい」

 それに加えて、父は奇妙な噂話を聞いたそうだ。

「スズメバチ事件では2回とも、雑木林に隣接するクリ林に、髪の長い少女がいるのが目撃されたそうだ。それ、昭夫が大好きな夏子さんかな?」

「え? 大好きだなんて、そんなんじゃないよ!」

 僕はむきになって父に反論したが、嫌な予感がした。夏子さんの家の地下に、オオスズメバチの巨大な「基地」があることを知っていたからだ。そのことは、両親には言っていなかった。


 畦地宅での虫の飼育にかまけ、夏休みの宿題をほったらかしにしていたツケが回ってきて、ここ数日、夏子さんの家には行っていなかった。宿題はまだ済んでいなかったが、僕は畦地宅を訪ねた。夏子さんは自室にいた。

「夏子さん、社宅予定地の雑木林で、スズメバチに刺されて人が死んだことは知ってる?」

「もちろん知ってるよ。何人もやられたらしい。気の毒だね」

 僕は、勇気を奮い起こして尋ねた。

「まさか、地下室のスズメバチがやったんじゃないよね?」

「違うよ。うちのスズメバチが人を襲うはずないよ。スズメバチが人を攻撃するのは、人が巣に近付き過ぎたような時だからね。うちの巣によその人が近付けないことは、昭夫君も知ってるでしょ」

「そうだよね。それと、あの……、2回とも現場近くに、髪の長い女の子がいたらしいけど……」

「え? それが僕だっていうの? 冗談でしょ?」

 夏子さんは、屈託のない笑いを浮かべた。

「雑木林は駆除会社がスズメバチの巣を根こそぎ潰したし、クリ林にもスズメバチの巣はなかったらしいよ。そうすると、事件のオオスズメバチはどこから飛んで来たんだろう? 2回目の時は、ものすごい数だったらしい」

「うちのスズメバチじゃないとすると、どこのだろうね。不思議だな」

 夏子さんがとぼけているとは、僕には思えなかった。

「僕、父さんにこの家の地下室のことを話そうと思う。父さんは警察に言うかもしれないけど、犯人がここのスズメバチじゃないのなら、警察が調べても大丈夫でしょ?」

「うん、もち……ろん……」

 その時だ。肘掛椅子に座っていた夏子さんが、ガクリと首を前に曲げてうつむいたのは。

「夏子さん! どうしたの? 大丈夫?」

 夏子さんは無言で俯いたままだ。僕が席を立ってお母さんを呼びに行こうとした瞬間、夏子さんは顔を上げた。その顔は無表情で、夏子さんらしい快活さは失せていた。僕の脳裏に、スズメバチの無表情な頭部が浮かんだ。

「あ、あのね、じ、実は……昭夫君が推理した、とおりだ」

 夏子さんの声は、いつもの声と明らかに違う。どこか、くぐもったような、おかしな声だ。

「え! ほんと?」

「ほ、ほんとだ。昭夫君は、ぼ、僕たちの味方、だから、教える……。あ、あの雑木林は、いろいろな虫、けものが住んで、いる大切な場所。そこを、壊そうとする、悪い人には、お仕置き、する」

<いったい夏子さんは、何を言っているのだろう?>

「でも、この家からあの雑木林までは離れているでしょ。間にクリ林もあるし。ここのスズメバチが、雑木林まで行くかな? それに、スズメバチには、どの人が工事会社の人か分かるはずがない」

「簡単。僕、雑木林の近くまで、一緒に行った。お仕置きする人、教えた」

<やはり、目撃された少女は夏子さんだったのか?>

「嘘でしょ? スズメバチに、人間の言葉が分かるわけないもん」

「地下室で、見たよね。僕が命令した。ハチたち、大人しくなった。最初の人、ちょっと痛い目に遭わせるだけ。殺すつもり、なかった。死んだの、むかし、スズメバチに刺されたこと、あったから、じゃないかな」

 僕は、「殺すつもり」という言葉に、ドキリとした。

「二番目は、違う。奴ら、雑木林のスズメバチ、皆殺しにした。だから、奴らを、皆殺しにするため、地下室から、たくさん連れて、いった。工事、止めないと、これからも殺す」

 その言葉を聞いて、僕はとっさに叫んだ。

「人を殺すなんて、そんなことしちゃダメだよ!」

「ん? 何言ってるの?」

「いくら雑木林を切り倒すのが良くないからって、人を殺しちゃダメだ!」

 自分でも驚くくらい、きっぱりとした口調だった。僕が大好きな夏子さんが、このような恐ろしい事件に関わることなど、絶対にあってはならないと思ったからだ。

「そりゃあ、林がなくなっていくのは僕も悲しい。でも……、だからといって人を傷つけたり殺したりしていいはずがない。夏子さんだって、そう思うでしょ?」

「……昭夫君、僕たちの見方、だと、思ってたのに……」

 夏子さんの声は、低く沈んでいた。

「僕たちって、だれ?」

「地下室の、トリュウたちオオスズメバチと、僕」

「そりゃぁ僕だって、オオスズメバチや虫は大好きだよ。この部屋にいる虫の世話も楽しい。でも、人を殺すことには、絶対に賛成できないよ」

「そう……、残念、だな」

「僕は父さんから、雑木林をなくさないよう、社宅を作っている会社に頼んでもらうよ。だから、もうスズメバチに人殺しをさせるのは止めてよ!」

「それは、できない。いくら、頼んでも、無駄。今さら、社宅の建設、止めない。そのうち、この家も、探される。巣が見つかったら、皆殺しにされる。そうなっても、昭夫君、構わないの?」

「それは……」

 どこからともなく、虫の羽音が聞こえてきた。

 突然、天井の一画に開けられた通気孔のような四角い穴から、次々とスズメバチが飛び出してきた。地下室にいるオオスズメバチに違いない。初めて地下室に降りた時に見聞きした、怒りに満ちた荒々しい飛翔であり、重低音の羽音だった。どうやら通気孔は、地下室と繋がっているらしい。

 オオスズメバチの群はたちまち厚みを増し、僕の周りを狂ったように旋回した。羽音だけでなく、例のカチカチという警告音も激しくなった。

 スズメバチの群越しに時々見える夏子さんは、無表情に突っ立っている。

<夏子さんの命令一つで、スズメバチはいっせいに僕に襲いかかるんだろう>

 服が見えなくなるくらいびっしりと体にたかったスズメバチの群が、うごめきながら毒針を繰り返し打ち込んできて、苦痛のあまり床を転げまわる自分の姿が、目の前にちらついた。

 僕は体中の力が抜けて、床にしゃがみ込んでしまった。恐怖で体がガタガタ震えるのが分かった。

<夏子さんは……、夏子さんはいったい、どうしちゃったんだ?>

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