標本No2. オオスズメバチ 5

 その時、部屋のドアが開いて、夏子さんのお母さんが入ってきた。

「夏子、止めなさい!」

 しかし夏子さんは何の反応も示さず、無表情に立っている。お母さんは、夏子さんめがけてボールを投げた。バレーボールのボールくらいの大きさだ。ボールは夏子さんの額に命中し、跳ね返って床を転がった。

「きゃっ!」

 夏子さんは、我に返ったように本来の表情を取り戻し、額をさすった。

「昭夫君、はやく来て!」

 僕は、身を低くして腕で顔を覆いながら、スズメバチの囲みを突っ切って、お母さんのいるドアに飛び込んだ。お母さんはすぐにドアを閉めた。

「昭夫君、怪我はない?」 

「だ……、大丈夫……」

 僕は、しばらく思うように口が回らなかった。

「怖かったでしょ? ごめんね。でも、スズメバチはこの部屋には入れないから、安心してね」

 お母さんは僕の隣に来て、背中をさすってくれた。しばらくすると、僕は少し落ち着いてきた。

「怖かった! 僕、絶対ハチに殺されると思った。でも、夏子さんに何が起こったの?」

「……あれだけ怖い思いをさせたんだから、昭夫君には本当のことを話さなくちゃね。でも、どこから話せばいいのやら……。ちょっと待ってね」


 お母さんは、暖かい紅茶とマドレーヌを出してくれた。

「実は、夏子は私の実の娘ではなく、養子なの」

 そういえば、お母さんは、夏子さんの母親にしては年配に見えた。あの夏、おそらく60歳近かっただろう。

「今から10年くらい前の秋、土砂降りの雨が降り続き、強い風が吹き荒れた日があった。その日の夕方、40歳くらいの男の人が、この屋敷を訪ねてきたんだよ。幼い女の子を連れていて、二人ともずぶ濡れだった。傘は1本しか持っていなくて、それも強風で役に立たなかったらしいのね。男の人は、今夜だけでいいから泊めてほしいと言うんだよ。当時、私はこの屋敷に一人で住んでいた。だから、見も知らない男の人を泊めることには、ためらいを感じた。でも、女の子を見ると、寒さのためにあごをガクガクさせていて、唇が紫色になっているんだよ」

「その子が、夏子さんですか?」

「そうね。もし泊めるのを断ったら、女の子は病気になってしまうかもしれないと思ったので、二人を泊めることにした。この屋敷は部屋数が多いので、泊める部屋には困らなかったしね」

「このお屋敷は、広くて立派ですね。僕の家は団地なので狭いです。だから、虫や動物を思うように飼えません」

「そうなの。私の父は海軍の軍人で、最後は少将だった。少将というのは、軍隊の階級の中では、だいぶ偉いほうね。この屋敷は、父が建てたのよ。もともと海軍は英国流が好みでね。だから、この屋敷もできるだけ西洋風にしたかったらしいの」

「だから、地下室があるんですか?」

「それもあるけど、地下室は防空壕も兼ねていたのよ」

「ボウクウゴウ?」

「防空壕というのは、飛行機から爆弾を落とされた時に、避難する場所よ。日本の軍隊は、自分たちは絶対に負けないと思っていたけれど、実際にはこの辺りも爆撃を受けたの。昔この近くに中島なかじま飛行機という飛行機やエンジンを作る工場があってね。だいぶアメリカの爆撃機にやられた。幸い、この屋敷は戦災に遭わずに済んだけど」

「あ、中島飛行機のことは知ってます。学校の先生から教わりました」

「そう。私の夫も海軍の軍人だった。ところが、乗っていた軍艦が沈められて戦死したの。フィリピンの海だったとは聞いたけど、詳しいことは分からない。

それで、夏子の話の続きだけど、家に来た晩から高熱を出してね。お医者さんに往診してもらったら、肺炎になりかけていると言われた。それで、夏子と父親には、しばらく屋敷に滞在してもらうことにしたの。夏子の看病も、おもに私がしたわよ」

「夏子さんのお父さんは、どういう人だったんですか? 今もいるんですか?」

「家に来てから3年くらい後に、病気で亡くなったわ。陸軍にいたそうだけど、あまり詳しいことは話してくれなかった。川崎だか横浜だかにあった軍の研究所に勤めていたらしいわ。新しい兵器の開発をするような研究所だと言っていた。私には子供がなく、夏子も父親が亡くなって、身寄りが一人もいなくなったのよ。だから夏子を養子にしたの。私に懐いていたしね」

「地下室にオオスズメバチの巣がたくさんあるのは、なぜですか?」

「私は怖くて、地下室にはほとんど行ったことがないわ。もともと虫が苦手だし、夏子が地下室は危ないから行ってはいけないと言うしね。夏子は1週間くらいで元気になったけど、父親がしばらく滞在させてほしいというので、いてもらうことにしたの。私も、夏子が可愛くなったから。そうしたら父親が、滞在させてもらう代わりに、この屋敷の修繕をしてくれると言ったのよ。そのころ、雨漏りがしたりして修繕が必要だったけど、一日延ばしにしていたので助かったわ。父親は大工顔負けの技術を持っていて、屋根に登って雨漏りを直したり、外壁を塗り替えたりしてくれたの」

「地下室には、板や金網で仕切りが作られていますが、それも夏子さんのお父さんが作ったんですか?」

「たぶんそうだと思うわ。私は見たことないけど」

「あのー、まさかとは思うんですが、夏子さんはスズメバチを操れるんですか? 雑木林で工事の人がスズメバチに刺されて死んだのは、自分がスズメバチにやらせたと、夏子さんは言ったんです。それに、さっき僕がそんなことをしてはダメだと言ったら、天井の穴からスズメバチがたくさん出てきて、僕を襲おうとしたんです。夏子さんがスズメバチに命令したようでした」

「夏子が虫と心を通わせる不思議な能力を持っているのは確かよ。ムカデのような気味が悪くて危ない虫も、夏子の前では大人しいの」

「僕も見ました。夏子さんはムカデのトビちゃんを素手で摘まみ上げて、頭や肩の上に載せて嬉しそうにしていました」

「けれど、あの子は心根が優しく、とても人を殺すようなことをするとは思えないのよ。第一、夏子は昭夫君のことをとても気に入ってたわよ。だから、他の男の子たちには全員、昆虫採集を頼まなくなったのよ。その夏子が、昭夫君を傷付けるようなことをするかしら?」

「そうだったんですか」

「でも、そうねえ、1年くらい前からかしら。夏子が時々、人が変わったようになることがある。だから、私はとても心配しているの」

「どう変わるんですか?」

「顔つきがまるで虫のように無表情になるの。そうすると、スズメバチの群れが、夏子を取り囲むように飛び回る」

「それは、さっきのようにですか?」

 お母さんは、黙って頷いた。





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