標本No.7 ナメクジ 1
「おや? No.7の標本ケースは、えらく小さいな。なになに? ナメクジ?」
長さ10cmにも満たない標本ケースに、長さ3cmくらいの黒くて細長い物体が入っている。すっかり干からびて、縮んでしまったらしい。
「ナメクジって、カタツムリから殻を取ったような奴だろ? 刺したり咬んだりはしないけど、ヌラヌラして気味の悪い虫だよな。さっきのモラハラ夫も、ずいぶん怖がってたな」
「はい。見た目が嫌われているばかりか、栽培中の野菜や園芸用草花を食い荒らします」
「何の変哲もないナメクジが、なんで展示されてるのかねぇ? 今までのは、この世のものとも思われない、
「そのあたりは、説明をお聴きになれば分かります。では始めます」
「ちょい、待った! また下痢だよ。やっぱりあの精力剤、体に合わなかったらしい」
「どうぞいらしてください。ここでお待ちしております」
紀彦の帰りを待って、説明が始まった。
*
ファミリーレストランを全国展開しているこの会社は、全国をいくつかのブロックに分け、各ブロックの事業本部が傘下の店舗を統括している。
外食産業にとって、顧客からの苦情・クレームは、いわば宿命ともいえるものだ。毎日、全国どこかの店舗で、クレームが発生している。
そうしたクレームは、基本的に各店舗で対応・解決する。しかし中には解決できないまま、店舗では手に負えなくなる場合も少なくない。そうなると、店舗から事業本部のカスタマーセンターに応援要請がなされる。つまり、三太郎らの出番だ。
三太郎は、いわゆる「たたき上げ」社員の
高校卒業と同時に入社し、店舗のフロアスタッフからキャリアをスタートさせた。厨房の経験も積み、やがて店長として店の運営を任された。
店の運営といっても、店舗で出す料理・飲料のメニューやレシピは全国一律。また、店舗業務は細大漏らさずマニュアル化されている。広告や販売促進イベントの企画・実施は、本社や各事業本部が受け持つ。店舗スタッフの採用活動も、事業本部の役割だ。だから、店長として、店独自の工夫を凝らす余地は非常に限られている。
ところが三太郎は、優秀な店長として事業本部にまでその名前が知られるようになった。それは、彼が店長を務める店舗では、一度もクレーム処理応援を事業本部に依頼したことがなかったからだ。すべて、店舗段階で解決したのだ。
もちろん、顧客が納得しない段階で強引に幕引きするわけにはいかない。そんなことをすれば、クレームは本社に直接行ってしまう。それならまだいい方で、悪くするとSNSなどで拡散され、大問題に発展しかねない。しかし三太郎は、ちゃんと顧客を納得させたうえで解決しているのだ。
「あいつは運がいいだけだ。異動希望や能力開発に関する自己申告で、クレームが少ない店舗ばかり書いてるんじゃないか?」
そう噂する社員もいた。
しかし、彼が店長を務めた店舗が、みなクレームが少ない土地柄の場所に立地していたというわけではない。彼は都心の小規模店舗から始まり、最後に勤めた郊外の大規模店舗まで、5店舗の店長を務めたが、いずれの店舗でも「クレーム処理応援要請ゼロ」を達成した。それまで要請があった店舗でも、三太郎が店長になると、途端に応援要請がなくなったのだ。
三太郎は、「クレーム処理応援要請ゼロ」に関する社内表彰を、5回も受賞した。これは、勤続年数に比して断トツに多かった。
こうした三太郎の業績に目を付けた事業本部は、三太郎を事業本部のカスタマーセンターに異動させた。入社7年目だった。
これは、彼のような高卒社員としては、異例の抜擢だった。
なぜなら、10数年間、店舗でキャリアを積んだ者の中から、優秀者を事業本部に異動させるのが一般的だったからだ。
カスタマーセンターには、約40人ほどのクレーム対応要員がいた。三太郎を除く全員が40~50歳代で、20歳代は彼ひとりだった。
こじれたクレームへの対応には、知識と経験、そして巧みな話術や、時には毅然たる態度を示す臨機応変な判断力が求められる。
最近、いわゆるモンスター・クレーマー、モンスター・コンシューマー、カスタマー・ハラスメント(カスハラ)といった問題が、社会の耳目を集めている。理不尽な要求をしてくる客に対して、安易な妥協は禁物だ。場合によっては、法的な対応も考慮しなければならない。そのために、事業本部は顧問弁護士を抱えている。
とはいえ、クレームを大ごとに発展させることなく、ボヤのうちに消し止めるのも、カスタマーセンター・メンバーの腕の見せ所だった。
このように難しい業務だから、20代の若手社員には荷が重いとされている。
さて、カスタマーセンターは定期的に、事業本部傘下の店舗から店長やスタッフを集めて、クレーム対応に関する研修会を開催していた。
三太郎は、研修講師を命じられることも少なくなかった。
それは、店長を集めて開催したクレーム対応研修の最終日だった。講師となった三太郎は、最後に質疑の時間を設けた。すぐに、ある女性店長が挙手した。
「志田崎さんは、店長を務めた5店舗すべてで、『クレーム処理応援要請ゼロ』を達成されたとお聞きしています。また、カスタマーセンターのクレーム対応班で唯一、20歳代だそうですね。志田崎さんの講義をお聴きして、クレーム対応に関する自分の認識が、まだまだ不十分だったと痛感しました」
三太郎は、満足そうに頷いた。
「けれど同時に、志田崎さんが若くして輝かしい業績を上げられているのはなぜか、という疑問が湧いてきました。もしかして、志田崎さんが独自に編み出された、クレーム処理の極意のようなものがあるのではないかと、勝手に想像してしまいます。これは志田崎さんの営業秘密かもしれませんね。ですが、差し支えない範囲で結構ですので、その極意を教えていただけないでしょうか」
受講者から、賛同の拍手が起こった。
「ありがとうございます。でも、ガッカリさせて申し訳ありませんが、極意などというものはありません」
三太郎は、両手を広げて拍手を制しながら、答えた。
「とにかく、誠心誠意、粘り強くお客様にご説明を尽くして、ご納得いただく。私が実践しているのは、これだけです」
すると、別の受講者の手が挙がった。
「あのぅ。こんなことを言うとご気分を悪くさせないかと心配なんですが……」
「構いません。何でもおっしゃって下さい」
「社内には、志田崎さんを『泣き落としの志田崎』と呼ぶ人もいると聞いています。どうしてもご納得いただけないお客様の前で、泣いてしまわれることもあるんですか?」
「はははは。そんなあだ名、初めて聞きました。泣き落としなんか、してませんよ。ただですね……」
「ただ……」
質問者を含む受講生全員の視線が、志田崎に集まった。
「お客様に対して一心にご説明している時、これほど言葉を尽くしているのに、なぜお分かりいただけないのだろう。それは自分が未熟でお客様に十分伝わっていないからだと、自分が情けなくなってくることがあります。そうすると、自然に涙が湧いてきて、恥ずかしながら、お客様の前で号泣してしまったことが何度かありました」
「なるほど。そんな志田崎さんをご覧になって、お客様はどう反応しましたか?」
「そこまで言うならと、ご理解いただきました」
それを聞いた受講者から、さっきより数段大きな拍手が起き、しばらく鳴り止まなかった。
実は志田崎には、「泣き落とし」などではない「極意」があった。しかし、その極意については、口が裂けてもしゃべるわけにはいかなかった。
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