標本No.7 ナメクジ 2

 志田崎したさき三太郎さんたろうの「極意」とは何か?

 それは、どうやっても納得しないクレーマーに、「お見舞金」と称して現金を渡すことだった。そのカネの出どころは、他でもない、三太郎のポケットマネーだ。

 もちろん、このような公私混同は、決して会社が認めるところではない。もしもこのことが会社にバレたら懲戒処分は免れず、さすがに解雇されることはないだろうが、輝かしい彼の経歴に傷が付くことは間違いない。

 そんな危ない橋を渡ってでも、三太郎は自分の優れた業績を維持し、さらに向上させたい。せっかく、「たたき上げ」として異数の出世を遂げつつあるのだ。今さら並みの社員に戻ることなど、三太郎のプライドが許さなかった。

 確かに、ふところ具合を考えると痛かった。多い月には、給料の半分以上が「お見舞金」に化けた。

 それに、「極意」の秘匿には、細心の注意を払わねばならなかった。

 クレーム処理のために顧客の自宅などに出向く際には、ごく簡易な事案を除き、二人一組で出向くのが原則だ。一方が相手に対応し、もう片方が記録を取る。また、クレーマーの中には、激高して暴力を振るう者もいた。その場合、一人では対処しがたいケースも出てくる。

 しかし、三太郎は常に単独で行動した。事業本部に異動した当初は、カスタマーセンター長から、そのことを注意された。しかし三太郎が、難しそうな事案を短期間で解決することが続いたため、センター長は三太郎の単独行動を黙認するようになった。


 テレビなどで木枯らし1号の発表が聞かれた11月のある日、都心の店舗からクレーム処理応援要請が来て、三太郎が担当することになった。

 事案は、店舗で出したグリーン・サラダの中に、異物が混入していたというものだ。異物は1辺が5mm程度の薄茶色をした直方体で、肉片のようだった。

 当該店舗でそのサラダを食べていた顧客がいったん口に入れたが、食感や味に違和感を感じ、吐き出してフロア・スタッフにクレームを申し立てたのだ。

 顧客の要求は、異物の正体の究明、本社の然るべき地位にある者の対面による謝罪、そして慰謝料100万円だった。


 店舗で発生するクレームの中では、料理への異物混入が飛び抜けて多い。

 この会社では、料理は各事業本部が統括するフードセンターで集中的に調理して、各店舗に供給する。各店舗では、1~2人の厨房スタッフが短時間のうちに加熱や盛り付けを行い、顧客に提供する。このような集中調理は、食材の集中仕入れと相まって、料理の原価低減に大いに寄与している。

 各フードセンターには、「HACCP(ハサップ)」と呼ばれる衛生管理システムが導入されており、異物混入のリスクはほとんどゼロに抑えられている。

 しかし、盲点もあった。

 サラダは新鮮さが命だ。サラダに使用する野菜については、フードセンターを経由しない。毎日早朝、レタスやキャベツなどの新鮮な野菜が、契約農家から各店舗に直接届けられる。各店舗では、異物などの有無を確認したうえで洗浄し、裁断・盛り付けを行う。

 ここに、野菜に付着していた昆虫などが料理に混入するリスクが潜んでいた。洗浄するといっても、あまり念入りに行うと、味や食感が落ちてしまう。さらに現在は、無農薬栽培による野菜であることが大きなアピールポイントだ。すると、野菜にたかる昆虫などを皆無にすることが難しくなる、というジレンマが常に存在した。

 

 本事案発生後すぐに、事案の報告とともに異物分析の要請が、当該店舗から事業本部になされた。異物分析は、本社組織の一つである「食品総合研究所」が行った。結果は、ナメクジの破片であった。ナメクジは、野菜や園芸用草花を食害する害虫だ。

 ただちに、当該店舗の店長らが、菓子折りを持ってその客の家に出向き、謝罪と分析結果の報告を行った。異物がナメクジの断片と聞いて、客の形相が変わった。目をカッと見開いたその顔は、羅刹らせつ(人を食うといわれる鬼)そのものだった。

「おい! よくも、あの気味の悪いナメクジを食わせやがったな。慰謝料は500万円に値上げだ。どうせお前らじゃ判断できねぇんだろ? とっとと帰って、社長に相談しろぃ!」

 事案が三太郎に回ってきた時、このような状況だった。

 三太郎は、すぐにその客の家に出向くことにした。事前にセンター長の了解を得る必要がある。センター長は永田ながたという人だった。

「この客、相当たちが悪そうだ。一筋縄ではいかないだろう。今回は、副担当と二人で出向いた方がいいんじゃないか?」

 事案には原則として、主担当と副担当が割り当てられるのだ。

「ありがとうございます。でも、私一人で大丈夫です」

「そうか? 君のことだから、勝算があるんだろう。ただ、この事案にはせない点もあるね。だいぶ寒くなってきているのに、果たしてナメクジが野菜に付くものだろうか。もちろん、温室栽培だから、虫がいてもおかしくはないが、ナメクジのライフサイクルを考え合わせると、ちょっと辻褄が合わないんじゃないか? 食品研も疑問を呈しているぞ」

「センター長は、この客が、故意にナメクジを混入させたとお考えですか?」

「断定はできなが、その可能性は小さくないだろう。その点も考慮に入れれば、客が要求している法外な慰謝料は、当然論外だ」

「相手に誠心誠意、説明したいと思います」

「それで納得する相手なら、世話はないさ。どうしても相手が500万円の慰謝料請求を取り下げないのなら、法的な場に出ることもやむを得ないだろう。一度、沢渡さわたり先生(弁護士)に相談しておいた方がいい」

「分かりました。とにかく一度、その客に会ってきます」

「くれぐれも気を付けろよ」


 翌日、三太郎はその客に電話したうえで、家を訪問した。

 客の名は遠山とおやまといい、自宅は東京の下町にあった。その辺りは戦災を免れたのか、古くて小規模な木造住宅が多い。遠山の自宅も、その一つだった。すぐに中に通された。

 三太郎は、部屋の中を見回した。畳は茶色く変色し、あちこちが擦り切れて毛羽立っている。部屋には、何やらえたような不潔臭が充満していて、三太郎は思わず手で鼻と口を押さえたくなった。流し台の上は、食べ終わったままの食器やカップ麺の容器が並んでいる。不潔臭には、そういったものから発する色々な臭いが混ざり合っているのだろう。

 遠山は50がらみの腹の突き出した男で、頭は禿上げり、無精髭が目に付く。日に焼けているのか、顔は渋紙色だ。身長は180cmはあるだろう。しかも、怒り型で腕も太そうだ。小柄で細身の三太郎は、男から発せられる威圧感を意識せずにはいられなかった。

「おい。俺の顔に何か付いてるか? さっきからジロジロ見てるな」

 雑巾ぞうきんのような臭いがする紺色のジャージの上下を着た遠山は、畳の上にどっかと胡坐あぐらをかいている。

「いえ、そんなことはございません」

「お前みたいな若造をよこすとは、俺も舐められたもんだ」

「ご挨拶が遅れて失礼しました。私は関東事業本部の志田崎と申します。よろしくお願いいたします。このたびは、大変なご迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。心からお詫び申し上げます。これ、詰まらないものですが、お納め下さい」

 三太郎は、名刺と菓子折りを差し出した。

「ふーん」

 遠山は、名刺も菓子折りもほとんど見ることなく、脇に置いた。

「それでー。500万円はいつよこすんだ?」

「その点につきましては、現在社内で検討中でございます。ただ、500万円の慰謝料と申しますのは、なかなかに難しいかと存じます」

「何だと! 俺はナメクジを食わされたんだぞ! 落とし前を付けるのは、当然だろーが。この野郎」

「はい。ただ、異物混入事案に関しましては、当社内の基準がございます。これは、社会通念を踏まえ、かつお客様間の公平を期すために制定された基準でございます。それによりますと――」

「おい! ごちゃごちゃと、うるせぇぞ。基準なんて俺には関係ねぇんだよ。出すのか出さないのか、どっちなんだ? 今ここで、はっきり答えてみろや」

「はい。大変恐縮でございますが、500万円はお出しできません」

「へー、そうかい。なら、どう落とし前を付けるんだい」

「誠に些少ではございますが、当社グループのレストラン共通お食事券、5,000円分を贈呈させていただきます」

「馬鹿野郎! 些少すぎて、お話しにならねぇよ。お前みたいな雑魚ざこじゃぜんぜん駄目だ。もっと偉いヤツが来るように伝えろぃ」

「誰が参りましても、同じでございます。ところで、例の異物につきましては、当社の食品総合研究所という研究機関で分析しました」

「だから何だ?」

「研究所が申しますには、11月にナメクジが野菜を食害することはほとんどあり得ないそうです」

「何だとー。貴様、俺が故意にナメクジを入れたとでもいうのか!」

 三太郎には、遠山の怒った顔が、熟柿じゅくしで上げたものに見えてきた。

「いえ、決してそういうことではございません」

「ならば、慰謝料をよこせよ」

 しばらく、押し問答が続いた。


 三太郎は、そろそろ極意を「発動」する頃合いだと思った。

「遠山様。折り入ってご相談なのですが」

「社長と、もう一度相談してくるか?」

「いえ、そうではございません。当社における基準は、先ほど申し上げた通りでございます。これは動かせません」

「基準なんて糞くらえだと言ってるだろ? お前、相当頭がワリィな」

「遠山様がナメクジを口にされた心理的ダメージは、この志田崎、よーく分かります」

「で、払うんだな?」

「実は私の一存で使える予算が、10万円ほどございます。その10万円を、お見舞金として贈呈させていただきたいと存じます。ご無理なこととは重々承知しておりますが、何とかそれでご納得いただけませんか?」

「10万円だ? お話しにならんな」

「なにとぞ、なにとぞ、よろしくお願いいたします。このとおりでございます。遠山様にご納得いただけないうちは、私、会社に帰れないのでございます――」

 三太郎は哀願しながら、その場で土下座した。その姿を見た遠山の顔に、残忍そうな薄笑いが浮かんだ。しかし、三太郎はそのことに気が付かなかった。



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