標本No.7 ナメクジ 3

「お前、見たところ、まだ若そうだな。仕事とはいえ、俺みたいなのと談判するのは、さぞ気苦労が多いだろうなぁ」

 永田の声が、急に優し気に聞こえた。

<お! 極意が効いてきたか>

「いえ。そんなことはございません」

「俺にもな、お前くらいの歳の息子がいるんだ。女房と別れた時、女房が連れて行っちまったんで、ずっと会っちゃいねぇがね」

「そうなんですか……」

「俺もな、何もお前を困らせようっていうんじゃないんだぜ。ただ、ナメクジを食わされて受けた心の傷がいかに大きいか、知ってもらいたいだけなんだよ」

「それはもう、よーく分かっております」

「そうか。それじゃ、せっかくだから、そのお見舞金とやらを、もらっておこうか」

「そうですか! お礼の言葉もございません。つきましては、こちらの書類にご署名いただけますでしょうか?」

「何だ、そりゃ」

「本件について、お客様がご納得され、今後新たなご請求は一切なさらないという趣旨のことが書いてございます」

「ああ、いいよ。さ、見舞金をもらおうか」

 三太郎は、カバンから茶封筒を取り出し、正座のまま恭しくお辞儀しながら永田に渡した。茶封筒には何も書かれていない。証拠を残さないためだ。

<これで、難事案1件解決だ!>

「ありがとうございます。では、こちらの書類に――」

「ちょっと待った。サインする前にな、ひとつお前にしてもらわなきゃならんことがある」

「何でございますか?」

「いや、簡単なことさ。お前さっき、ナメクジを食わされた俺の気持ちが、よーく分ると言ったな?」

「はい、申しました。それが何か?」

「すると、何か? お前、ナメクジを食ったこと、あるんか?」

「はい? いえ、食べたことはございません」

「なら、どうして、俺の心の傷が分かるんだ?」

「それは……。大変お辛かっただろうなぁ、と考えました次第で」

「つまり、単なる想像だな?」

「ええ、まあ。想像とおっしゃるなら、そのとおりでございます」

「そんなんじゃ、よーく分かったなんていえないぜ。単なる口先の誤魔化しだ」

「いえいえ、決して誤魔化しなどではございません。心の底の底から申し上げております」

「ほう。そこまで言うなら、その証拠を見せてもらおうか」

「と、おっしゃいますと? 私に何をしろとおっしゃるんですか?」

 三太郎の脳裏に、嫌な予感が浮かんだ。

「俺の心の傷がな、痛いほど分るようにだ。今度はお前がナメクジを食うんだよ」

「そ、そんな。それは無理ですよ。いくら何でも、ナメクジを食べるなんて」

「やはりな。俺の気持ちが分かるなんて、口先だけだったな。なら、帰ってもらおうか。俺は、お前から10万円で手を打ってくれと頼まれたことを、本社に連絡しておいてやるよ。こんなカネ、はしたガネだが、規則とやらにはないんだろ?」

「はぁ、いえ……」

「こっちは、すっかりお見通しなんだよ。俺は、そんなに無理なことは言っていないつもりだがな。一口、食べるだけでいいんだ。そうすりゃ、お前も大手を振って会社に帰れるってもんだ。なあ、舌の先さんよ」

<この男、まともじゃない。センター長の言うとおりだった。隙を見て逃げよう>

「でも、今みたいな寒い季節に、ナメクジなんかいませんよ」

「と、思うだろ? お前、まだまだナメクジ研究が足らんな。研究所とやらに行って、勉強し直さんといかんぞ」

 永田は友人と話すかのように楽し気にしゃべりながら、押し入れのふすまを開け始めた。建具が古いためか、あるいは建物全体が歪んでいるためか、スッとは開かず、ガタピシしている。

<今だ!>

 三太郎は突然立ち上がって、出入り口に向かって急いだ。ドアを開けようとノブを回すが、カギが掛かっているのか開かない。すぐに永田がやって来た。

「往生際の悪い野郎だな」

 永田は素早く三太郎が着ているスーツの内ポケットを探り、運転免許書や健康保険証が入った定期入れを取り上げた。

「ちょっと、何するんですか! 返して下さいよ」

「ああ。俺の言うことを聞いて、ナメクジを食ったら、すぐに返してやる。言っとくが、お前一人で食えなんて冷たいことは言わねぇよ。俺も食うから心配すんな」

 三太郎は、6畳間の中央に引き戻されてしまった。永田は腕っ節が強く、三太郎が抵抗しても無駄のようだ。

「これを見ろ」

 永田は、押し入れの中を指差した。

 かび臭く古ぼけた押し入れの下段に、大型の水槽が2個並んでいる。

「よーく見ろよ」

「あ!」

 両方の水槽の内側に、無数のナメクジがビッシリと張り付いている。底に敷かれたキャベツの葉にも、真っ黒になるほど群がっている。三太郎は、背筋を冷や汗が伝わっていくのを感じた。

「どうだ。すごいだろ?」

 子供が自分のおもちゃを自慢するような口調だ。

「は、はい」

「水槽の下を見ろよ。シリコンラバー・ヒーターが敷いてある。だから、真冬でも奴らは元気だ。もっとも、乾燥しないよう、こまめに霧を吹かないといけねぇんだ」

<なんてこった。やはり、サラダに入っていたというナメクジは、永田が飼育したものだったんだな?>

「俺はこのアパートに20年くらい住んでる。まったく陽が差さないし、いつもジメジメしてる。ナメクジという奴はな、暗くてジメジメした場所が大好きなんだ。俺も初めは気味が悪いと思った。だがな、長年一緒に住んでいると、愛着がわくな。俺自身が、ナメクジみてぇなもんだからなぁ」

「……」

「俺は日雇いだろ。風雨がひどい日には、仕事がねぇんだ。そうすると、ナメクジが出てきてくれるんだなー。だから、ヤツラは俺のダチみたいなもんよ」

「友達なら、なせ食べるんですか?」

「そこよ。ある日、あんまりもんで、背に腹は代えられず、食ってみたんだ。火であぶってな。すると、これが結構いけるじゃねぇか。それから、時々食うようになったというわけだ。だが、ただ食うだけじゃないぞ。ここで餌をやり、子供を殖やしてやってるんだぜ。食うのはほんの一部だ」

「まるで、家畜だ」

「そうよ。お前も、ちっとは分かってきたようだな」

「じゃあ、火を通したのを、一口だけ食べますよ。食べればいいんでしょ?」

「これだから、ナメクジの素人は困るな。俺はな、色々な調理の仕方で食べてみた。一番旨いのは、どんな食い方だと思う?」

「そんなこと、知りませんよ」

「だから、さっきから、お前は研究が足らんと言ってるんだ。教えてやるよ。一番旨いのはな、踊り食いだ」

「踊り食いって、まさか生きたまま?」

「そのとおり。ただし、ちょっとだけ醤油を付けるがな」

「うわっ。考えただけで、吐きそうだ」

「いや。慣れれば、たいの刺身より旨いぞ。じゃあ、食うとするか」


<覚悟を決めざるを得ないな。これも、俺がこれまで積み上げてきた業績を守るためだ。そのためには、ナメクジの1匹や2匹、屁でもない!>

「ほらよ。ワンカップだ。今日はお前を慰労してやる。大盤振る舞いだから、大いに飲め。特に大きくて旨そうな奴を見繕ってやるからな。でもまあ、今日は初回だから、5匹くらいにしといてやるよ」

 永田は水槽の蓋を開けると、割り箸を使って中のナメクジを、発泡スチロール製の白いおわんに移した。まず左にある水槽から5匹をお椀に移し、次に右にある水槽から10匹を別のお椀に移した。

「さ。お前はこっちを食え。今日は5匹で勘弁しといてやる。醤油、ここに置くぞ。醤油をかけ過ぎるとな、せっかくのナメクジの旨味が消し飛ぶから、少な目にしとけよ」

 瓶の表面が手垢で曇ってベタベタした醤油差しを、真ん中に置いた。

 三太郎に渡したナメクジは、左にある水槽から移したものだ。永田のは、右の水槽だ。

「ナメクジはな、酒の肴にピッタリだ。なんでみんな食わないのか、実に不思議だよ。食わず嫌いというやつだな」

 永田は、醤油を数滴たらした椀から、割り箸でナメクジを1匹摘まみだすと、口に放り込んだ。旨そうに咀嚼しながら、ワンカップの瓶から酒を一口含んだ。

「あー、うめえ。お前、何ポカンと見てやがるんだよ。早く食え。できるだけ肥ってデカい奴を選んでやったんだぞ。お代わり自由だ。遠慮すんな」

 三太郎は、椀の底で蠢いているナメクジに、醤油を数滴たらした。醤油に含まれる塩分のためか、ナメクジたちは身を縮め始めた。三太郎は、中では一番小さそうなのを箸で摘まんで、口に放り込んだ。そして、嚙まずに酒と一緒に飲み下した。

「お前、丸飲みしたな? それじゃぁ、ナメクジの味が分からんじゃないか。もったいないことをする奴だ。せっかくデカいのを選んでやったのに」


 三太郎は、立て続けに残り4匹を酒で飲み下した。一刻も早く、この悪夢から逃れたかった。

「お代わりは? 遠慮すんなよ」

「結構です。もう十分いただきました。では、失礼します」

 永田は意外にすんなりと三太郎を放免してくれた。名前を殴り書きした念書や、三太郎の所持品も返してくれた。

 駅のトイレで、飲み込んだナメクジを吐き戻そうとも思った。しかし、酒の酔いで気が大きくなったのか、もうどうでもよくなって、そのまま帰社した。

 

 

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