標本No.7 ナメクジ 4

「え! もう解決したのか。さすがは志田崎君だ。一回の訪問で解決するとは、素晴らしい!」

 帰社した三太郎は、遠山との交渉結果を、センター長の永田に報告した。遠山から受け取った念書も見せた。

「ありがとうございます」

 永田の声を聞きつけて、近くの社員が集まってきた。

「一発で解決しちゃったの! やっぱり志田崎は凄いや」

「お、志田崎。ちょっと酒臭いね」

 社員のひとりが、酒の匂いを嗅ぎつけた。

「はい。遠山さんから勧められまして。ワンカップ1本、飲まされました」

「それは大変だったね。ご苦労様でした。相手のふところに飛び込むのも、時には必要なことだ。誘われて酒を飲むこともあるだろう。それにしても、君はよほど遠山という人に気に入られたんだね。これも、志田崎君の誠実な人柄のなせる業だろう」

 永田が賞賛してくれるので、三太郎はつい目を潤ませてしまった。

<これで、遠山から出された無理難題を、耐え忍んだ甲斐があったというものだ>


 しばらく、平穏な日が過ぎていった。

 「遠山事案」解決から10日ほど経ったある日、会社にいた三太郎に外線電話が掛ってきた。遠山からだった。訪問した時に渡した名刺を見て掛けてきたのだろう。

「おう。元気か?」

「は、はい。先日は、大変お世話になりました」

<あいつが一体、俺に何の用だ?>

 三太郎は、茂みに隠れてネコをやり過ごそうとするネズミの心境だった。

「お前、今夜、暇か? 俺んところに来て、また一杯やらねぇか?」

「あいにく、今夜は予定がありまして」

「そうか。いつなら空いてる?」

「すみません。年末を控えて、何かと忙しいもので……」

「チッ。冷てぇじゃねえか。俺はな、お前とまた酒が飲みたいんだよ。ちっとは付き合ったらどうだ。言いたかないが、お前、俺に借りがある身だということを、忘れちゃいねぇだろうな」

「借りですか? 何のことでしょう」

「おい、何言ってやがる。お見舞金とやらを忘れちゃいまいな? まあ、お前が忘れても、俺は忘れないが」

<遠山め。俺を脅す気だな>

 遠山の家に行けばどうなるかは、火を見るよりも明らかだ。またナメクジを食わされるのに決まっている。

「いえ、何のことか皆目分かりません。何かのお間違いではございませんか?」

「ほー。そう来たか。なら、仕方がないな。だがな、これで俺から逃げられると思ったら、大間違いだぜ」

「と、おっしゃいますと?」

「あ、いいこと教えてやるよ。お前が食ったナメクジがいた左側の水槽な。あそこには、部屋の中や外で捕まえたばかりの、いわば新参者のナメクジが入ってる。俺が食ったのは右側の水槽のだったが、あっちは、俺が長い間、育てたり殖やしたりしたものばかりだ」

「それが何か?」

「あとでお前が吠え面をかくってことだよ。じゃ、せいぜい達者でな」

 電話は切れた。


 三太郎は、遠山から電話があったことをセンター長に報告した。

「志田崎君は、よほど遠山さんに気に入られたらしいね。しかし、解決済みの事案だ。無理に遠山さんに付き合わなくていいんじゃないか?」

 真相を知らないセンター長は、あまり深く考えていないようだった。


 三太郎の身に異変が起きたのは、その翌日だった。

 明け方、激しい頭痛で目が覚めた。熱を測ったら、39度近くある。買ってあった新型コロナウィルス検査キットで調べたが、陰性だった。

 会社を休み、近くのクリニックを受診した。インフルエンザの検査を受けたが、これも陰性だった。とりあえず、解熱鎮痛剤が処方された。

 三太郎は独身で、ワンルームマンションにひとり住まいをしている。容体は一向に改善せず、むしろ悪化していった。


 発熱してから3日後、頭痛はこれまで経験したことがないほど酷くなり、視力も低下してきたように感じた。

<頭が割れるようだ。これは、只事ただごとじゃなさそうだ>

 生命の危機まで感じた三太郎は、意識がボンヤリする中、やっとの思いでスマホから119番に電話した。

 救急搬送された中規模病院で色々な検査が行われたが、頭痛や発熱の原因は分からなかった。そこで、5日目に、ある大学の付属病院に転院した。

 大学病院で、やっと診断が下された。病名は「好酸球性こうさんきゅうせい髄膜脳炎ずいまくのうえん」で、直接的な原因は「広東かんとん住血線虫じゅうけつせんちゅう症」だった。

 この病気は、広東住血線虫の幼虫(体長0.45mmくらい)の寄生によって引き起こされる。初めは肺動脈内に寄生するが、それが頭部に移動し、クモ膜下腔などに寄生すると、上記の髄膜脳炎を発症させる。

 まれに失明に至ることがあり、後遺症として知的障害が残ることもあるとされる。

 

 この広東住血線虫は、ナメクジに寄生することがある。だから、ナメクジが食害した野菜をよく洗わずに生で食べることは避けるべきだといわれている。普通はあり得ないことだが、ナメクジを生で食べたりすれば、線虫に寄生される恐れはさらに高まるだろう。

 遠山は、「養殖」していた右の水槽にいたナメクジではなく、「獲れたて」が入れてある左の水槽にいたナメクジを、三太郎に生で食べさせた。最初から、広東住血線虫感染の可能性を知っていたに違いない。いや、むしろ、それを狙ったのかもしれない。


 三太郎の大学病院入院は、約半月に及んだ。

 幸いなことに、線虫は完全に駆除され、頭痛や発熱は収まった。だが、後遺症として、軽度な知的障害が残った。主な症状は、記憶力と思考力の低下だった。

 現在は会社を一時休職し、病院に定期通院してリハビリを受けている。


 ある日、三太郎が部屋で寛いでいると、玄関のチャイムが鳴った。

「どなた様ですか?」

 ダイニングルームにあるテレビ・ドアフォンを見ながら尋ねた。

「遠山です。友人の遠山ですよ」

<遠山? 友達に、いたかな? どこかで聞いたことがある名前なんだが、思い出せない>

「今日は、お見舞いに来ました。お加減が良くないなら、無理しないで下さい。お邪魔せずに帰りますから」

「いえ、せっかく寒い中を来て下さったんですから、どうぞお入り下さい」

 三太郎は、ドアを開けた。

 背が高くガッチリとした体格の男が立っていた。ベージュのトレンチコートを着て、ちゃんとネクタイを締めている。

「お会いするのは、2か月ぶりくらいですかね、志田崎さん。だいぶ顔色がいいようですね。体調はいかがですか?」

 ダイニングテーブルに案内された遠山がコートを脱ぐと、下はダークグレーのスーツだった。

「わざわざお見舞いに来て下さって、本当にありがとうございます。お陰様で、体調はすっかり良くなりました。ただ……」

「ただ?」

「実は、病気の後遺症で、記憶力が弱くなってしまったんです。遠山さんには、何となくお会いしたことがあるような気はするんですが、ハッキリとは思い出せません。こんなことをお尋ねするのは、大変失礼なんですが、遠山さんと私は、どのようなご関係でしょうか?」

「失礼だなんて、そんなことはありませんよ。何といいましょうかね。しいていえば、私はあなたの友人、というところでしょうか。2か月ほど前、あなたが私の家にいらして、一緒に酒を飲みました。あの時は、実に愉快だったな」

「そうですか。これは大変失礼しました」

「いえ。気にしないで下さい。それで、今日はお見舞いということで、あなたの大好物を持参しましたよ」

「私の大好物? 何でしょうか?」

「これです」

 遠山は持っていたビジネス・バッグから、茶色のランチョンマットに包まれた弁当箱を取り出した。

「私は、こう見えても調理が好きでしてね。志田崎さんの一日も早い回復を祈りながら、心を込めて作りました」

「それは、何とお礼を申し上げればいいやら。いただくのが楽しみです。今日の昼食は、ちょっと少なめだったんです。ですから、ちょうどお腹が空いてきたところです」

「おお。それは、よかった。では、はい、どーぞ」

 遠山は、弁当箱の蓋を開けた。ご飯に何か炊き込まれている。

「これは……、炊き込みご飯ですね。炊き込まれているのは何です? マツタケですか?」

「マツタケより美味しいものですよ。加熱してあるから、線虫の心配は要りません。どうぞ、召し上がって下さい」

「センチュウ……? では、遠慮なくいただきます」

 三太郎は、茶色の断片が混ざったご飯を箸ですくい、口に運んだ。

「……。美味しいです。あれ? この味、どこかで食べたような気がします」

「そりゃあ、そうですよ。私の部屋で、一緒に酒を飲みながら、食べたじゃないですか。もっとも、その時は生でしたがね。それに志田崎さんは、噛まずに丸呑みしてましたよ。だから、今日はしっかり噛んで、よーく味わって下さいね」

「そうでしたか。それで、これは何です?」

「まだ思い出せませんか? あなたの大好物、ナメクジですよー」

 ナメクジという言葉を聞いた瞬間、三太郎の脳裏に、あの時の記憶が鮮やかに蘇った。


  *


「やっと終わった? いやはや、なんとも胸糞むなくそ悪い話だ。なんで、こんな変な話を、見学者に聞かせるんだ? 俺もナメクジは大の苦手だ」

「そう言っていただけると、とても嬉しいです。初めにも申し上げたとおり、特別展示室は美しくて珍しい虫を集めています。でも、見る方によっては、グロテスクで不気味と感じる場合もあるんです。そういえば、見学途中で吐いた方がおられたと申し上げましたが、ちょうどこの展示を見学してる時でしたね」

「その人の気分、よく分かるよ」

「昼食にシイタケの炊き込みご飯を食べたばかりだとかで。噴水みたいに盛大にゲロを撒き散らしました」

「止めろ! それ以上言わなくていい。君は可愛い顔して、平気でそういうことを言うね」

「はい」

「どうも、ここの展示には、虫を食う話がよく出るね。もっとも、一番最初は、クモ女が人間を食う話だったけどな」

「この世界は弱肉強食ですから、何でもあり得ます。ふつう、虫が草を食べますが、その逆もあります」

「女将が好きな、食虫植物だろ?」

「はい。でも、食虫植物が食べるのは、虫だけではありません。獣を食べるのもいるんです」

「ほんとかよ。信じられねぇな」

「それだけじゃありません。地球上には、人を食べる植物もいるかもしれませんよ」

「人を? あるわけないだろ。君、俺を怖がらせようとしてるんだろ? でもなぁ、そんな安っぽいSFみたいな子供騙しには乗らないよ。あの、ちょっとトイレに行ってくる。戻ったら次に進もう」

 

 


 

 

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