標本No.8 アミメアリ 1

 二人は、標本No.8の前に来た。今度のケースは、これまでのものと、形や材質が違う。無色透明な厚手のガラスでできた、円筒形のびんだ。直径10cm、高さ25cmくらいだろう。底面は台座のように少し広がっていて、上部には丸いツマミの付いたガラス製の蓋が被さっている。

 中に、げ茶色をした粉のようなものが入っていて、その深さは、瓶の高さの半分くらいに達している。

「何だ、こりゃ。アミメアリ、だって?」

 紀彦は、標本名の表示板を一瞥いちべつした後、瓶に顔を近付けた。

「小さいアリだなー。ずいぶん、たくさんいる」

「そこいらで普通に見かける、小型のアリです」

「また誰かが、これを食わされるのか? ご飯にかけるフリカケだとか言われてさ」

「残念でした、外れです。説明をお聴き下さい。あ、でも、佃煮にすると美味しいそうですよね」


  *


 大野おおの佳純かすみは、自宅前の路地で、隣に住む柿崎かきざき家の奥さんと立ち話していた。朝、ゴミ出しのために門を出たところで、ゴミ・ステーションから戻る途中の柿崎夫人と出会ったのだ。

昨夜ゆうべは、雨がだいぶ強く降ってたみたいね。だから、朝っぱらからひどく蒸し暑いのね。ホントに嫌になっちゃうわ」

「そうですね。今日も猛暑日になるみたいです」

「ねえ、佳純ちゃん。最近、時々変な臭いがしない? どこから臭ってくるんだか分からないんだけど。何かが腐ったような臭い。風向きによるのかしら」

「そうですか? 私は感じませんけど。何でしょうね?」

「ネコが捕まえて隠したネズミか何かが、死んで腐ってるのかもしれないわ。とにかく、この暑さだから。それじゃぁねー」

 

 歩いて1分もかからない所にあるゴミ・ステーションに可燃ゴミを捨てると、佳純は自宅に戻っていった。

 路地から門を入って、玄関に向かう飛び石の上を歩いていた時だ。ふと横の地面に視線を落とすと、何か動くものがある。

<何かな?>

 佳純はしゃがんで、顔を近付けた。

 それは、アリの行列だった。行列の幅は1~2cmくらい。門の外から家の敷地の奥の方に向かって、帯状になって歩いている。ごくありふれた小さなアリで、体に光沢がある。

 佳純は、行列が向かっていく先を辿っていった。自宅の敷地はたいして広くはない。すぐに建物の横に出た。

 行列は、建物のコンクリート製の基礎、地面から5cmくらい上の部分に造られた、長方形の床下通気口に入っていく。通気口には格子がまっているが、格子の幅からみて、アリに対しては何の意味も持たない。

 佳純はしばらく通気口の前にしゃがんで、アリの行列を観察した。アリの中には、何か咥えて運んでいるものもいる。おそらく、卵やさなぎ、幼虫だろう。行列は途切れることなく続く。

 そのうちに、周りでが飛ぶ音が聞こえてきた。佳純は立ち上がって、その場を離れた。家には入らず、今度はアリの行列を遡っていった。

 行列は、門を出るとすぐに右に曲がり、塀伝いに延びている。柿崎宅とは反対側の家2軒の前を通り、ちょっとした林になっている空き地の中に続いていた。林はあまり整備されておらず、道もないので、追跡はそこで諦めた。

<アリの奴。何で、よりによってウチに移動してくるんだ?>

 佳純は、腹立たしさを感じた。もっとも、佳純は特段アリが嫌いとか、苦手とかいうことはなかった。

<おっと、もうこんな時刻か>

 出勤の身支度をするため、佳純は急いで家に戻った。

 佳純は30代半ば。設計事務所で事務の仕事をしている。

 10年ほど前に両親が相次いで亡くなった。二人とも、病死だった。それ以来、この家に一人で住んでいる。

 家は平屋の一軒家だが、築約50年とだいぶ年季が入っている。あちこちガタが来ているのだが、修繕はしていない。もっとも、貯金はそこそこあるので、修繕資金に困っているわけではない。


 佳純は終業時刻と同時に退社した。自宅近くのスーパーで食材などを買ってから、帰宅した。午後6時前なので、辺りはまだ明るい。

 門を入って、飛び石の上でいったん立ち止まった。しゃがんで辺りを見回した。

<え! アリの行列、まだ続いてる!>

 朝、アリの行列を見たのは、午前7時頃だった。その時から今まで、行列はずっと途切れずに続いていたのだろうか?

 いったい、どれくらいの数のアリが、通気口から床下に入っているのだろう。家に戻った佳純は、ごく大雑把な計算をしてみた。

 行列がいつ始まったかは分からない。しかし、昨夜は夜遅くに雨が降っていた。それも、一時はだいぶ激しかったようだ。まさか、あのような小さな体で、雨の中を行進するとは思えない。

 仮に、今朝5時にアリの行列が始まったとする。今も続いているが、いちおう午後7時までとする。あと必要なのは、単位時間当たり、何匹のアリが通気口をくぐっていくかだ。アリの行列は、途切れることなく続いていた。これも大雑把に仮定して、1秒当たり2匹が入るとしよう。計算すると……


 2匹 ✖ 60秒 ✖ 60分 ✖ 14時間(19時ー5時)= 100,800匹 


<10万匹! もの凄い数だ。それに、アリの行列はまだ続いている。いったい、全部でどれくらいのアリが床下に入り込むんだろう>

 佳純は、空恐ろしくなってきた。

<アリの奴め、余計なことしてくれるな。よーし、アリ用の殺虫剤か忌避剤を撒いて、床下への移動を阻止してやる。確か、駅前のスーパーで殺虫剤を売ってたな。いや、その前に、アリの種類を調べよう。種類に合った殺虫剤を選ばないと、効果が十分発揮できないかもしれないからな>

 佳純は、スマホでアリに関する情報を集めた。種類は、すぐに分った。「アミメアリ」に違いない。

 アミメアリは、普段よく見かけるアリの中では一番小さく、体長は2~3mmくらい。肉眼だと、体が光沢を帯びているように見える。しかし、光沢があるのは腹だけで、拡大して見ると頭や胸には網目に似たしわがある。そのため、アミメアリと名付けられたという。

<それでー? 他のアリのような女王アリはおらず、複数の働きアリが産卵する。だから、繁殖力が極めて旺盛で、数10万匹の集団になることもある、だって!>

 佳純は、愕然とする思いだった。

<これは、まごまごしちゃいられない。殺虫剤、買ってこよ>

 門を出る前に、スマホの灯りで、昼間行列があった辺りを照らしてみた。

<おいおい。行列はまだ続いているよ。むしろ、行列の幅が、昼間より広くなったような気がする>

 駅前のスーパーに飛び込み、2種類のアリ用殺虫剤を買った。ただちに帰宅し、二つのうち一つの殺虫剤と、懐中電灯を手にして、また外に出た。

 まず、今もアリが列をなして入り続けている床下通気口に向けて、殺虫剤を噴射した。この殺虫剤は消火器を小さくしたようなタイプで、泡状の殺虫成分が割合広い範囲に撒布さっぷされる。

 懐中電灯を向けて見てみると、アリたちはパニックに見舞われたかのように、右往うおう左往さおうしている。体を小刻みに振るわせたり、のた打ち回っているようにみえる個体もある。

<へへへ。いい気味だ。勝手に人の家に侵入すると、こういう目に遭うんだよ。分かったかい? アリ君たち>

 同じような床下通気口が、他に5か所ある。佳純は、全部の通気口に殺虫剤を撒いた。

 さらに、アリが入っていた通気口から門のところまで、アリの通り道と思われるルート上にも、殺虫剤を念入りに撒いた。スプレー缶は空になった。


 翌日は土曜なので、勤務は休みだった。

 昨夜はアリのことが気になり、なかなか寝付けなかった。そのためか、今朝起きたら9時を過ぎていた。

 すぐに玄関を出て、アリの行列があるか確認した。幸い、行列は見当たらなかった。

 門の辺りを点検していたら、自宅から出てきた柿崎夫人に捕まってしまった。

「ねえ。昨夜、お宅の周りを懐中電灯で照らしてたでしょ? 何かあったの?」

<この人、見てたんだ。まあ、いつものことだけど>

 柿崎宅の2階からは、佳純の家や前庭が丸見えなのだ。

「いえ。大したことじゃありません。近ごろ家の周りにアリが出没するもんで、殺虫剤を撒いたんです」

「アリ? アリは日本全国、どこにでもいるわね。まったくいなくするのは、ちょっと難しいんじゃない?」

<ふぅ。いつものお節介が出たね>

「そうかもしれませんね。ただの気休めですよ」

「あ! もしかして、そのアリ、時々臭ってくる腐敗臭と関係あるのかしら」

「いやー、それはないと思いますよ。それに、私はその異臭、嗅いだことないです」

 これは嘘だった。異臭の存在は知っていた。しかも、その発生源は、他ならぬ佳純の自宅であることも。

 


 

 


 

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