標本No.8 アミメアリ 2

 佳純は、ダイニングテーブルで遅い朝食を取りながら、アリについて考えた。

<アリの引っ越しは、終わったらしい。殺虫剤が効いたのかな?>

 大雑把にみて、10万匹くらいのアミメアリの大群が床下にいるはずだ。いくら全部の通気口に殺虫剤を撒いたとしても、床下に完全に封じ込めることは不可能だろう。なぜなら、この家は古い木造の建物で、あちこち隙間だらけだからだ。それに、時間が経てば、殺虫剤の効力も低下する。ずっと撒き続けるわけにもいかないだろう。

<そうか。全部の通気口に殺虫剤を撒いたのは、マズかったな。外との出入り口を残してやらないと、出入り口を求めて床上に上がってくるかもしれない。それはイヤだな>

 アリが床上まで上がって来ないのであれば、床下をアリの住処すみかとして提供した方が、むしろメリットがあるかもしれない。ネット情報だと、アミメアリは他のアリと違って巣穴を作らず、時々移動するらしい。

<この家にいる間に、を食べてくれないかな。そうすれば、ジュンチャンは、アリとして生きていける。アリになったら、暗い床下から出て、どこへでも好きな所へ行けるんじゃないかなぁ>

 菓子パンとミルクティーの朝食を済ませた佳純は、水を入れたポリバケツを持って、家の裏手にある通気口の前に行った。そして、通気口に水をかけて、殺虫剤を洗い流した。1か所だけ、外との通り道を開けてやったのだ。

 その後、6畳の和室に置いてある小型の仏壇を開けた。中には両親の位牌とともに、小さな風車かざぐるまが3本立ててあった。羽の部分が赤いものが2本、青いものが1本だった。佳純は正座して、しばらく手を合わせた。


 その夜、佳純は怖い夢を見た。

 乳飲み子が3人、並んで寝ている。3人とも裸で、手足をバタつかせながら、ケラケラと嬉しそうに笑っている。佳純がそのうちの一人を抱こうとすると、3人とも火が付いたように泣きだした。あやすと、顔を真っ赤にして、ますます泣き募る。

 佳純が困っていると、3人はいっせいに足先から黒く変色し始めた。変色はたちまち足の根元に進み、胴体、手、首、頭と、全身に広がっていった。よく見ると、黒いものは無数のアリだった。やがて、乳飲み子の形が崩れていき、アリは四散した。あとには、何も残っていなかった。


 それから2日後の月曜日の朝、佳純がダイニングテーブルで菓子パンとミルクティーの朝食をとっていた時だ。

 テーブルの端をごく小さな物体が移動している。佳純が顔を近付けると、それは1匹のアリだった。

<アミメアリだ!>

 すぐにティッシュペーパーで摑み、潰してクズ入れに捨てた。

<床下から上がってきたの? この家、隙間だらけだからなー>

 佳純は、他にもアリがいないか、家の中を見て回った。といっても小さな家で、台所兼食堂の他は、6畳間と4畳半、風呂場とトイレくらいしかない。

 しかし、アリは見つからなかった。出勤のために家を出る時刻が迫っていたので、佳純は慌てて家を出た。

 勤務中も、アリのことが頭から離れなかった。

<あのアリは、たまたま外から迷い込んだもので、床下にいる群れとは関係ないのかもしれない>

 佳純は、そう思いたかった。


 その日は、2時間ほど残業したので、帰宅は午後8時ごろになった。

 飛び石の脇をスマホで照らして見たが、アリの行列はなかった。

 6畳間で普段着に着替えて、台所に行った。冷蔵庫から有り合わせの食材を取り出して、食べ始めた。

 冷蔵庫を開けた時には気付かなかったが、テーブルの席に座ってふと見ると、冷蔵庫の隣の床に見慣れない模様のようなものがある。ちょうど、冷蔵庫の影になっていて、それが何なのかはよく分からない。

ひもか何か落ちてるのかな?>

 そのそばにしゃがんで、目を凝らした。何か、文字のようにも見える。部屋あった懐中電灯を持ってきて、照らしてみた。


 マ


 一筆ひとふで書きのようにして、カタカナの「マ」と書いてあるように見える。さらに顔を近付けて見ると、何と、その文字はアリが集まって作られている!

<そんな! あり得ない>

 佳純は、寒気を覚えた。

<殺虫剤だ>

 先日購入したもう一つのアリ用殺虫剤は、4畳半の押し入れに置いてある。佳純は急いで取りに行った。

 殺虫剤のスプレー缶を持って冷蔵庫の脇に戻って見ると、文字はほとんど消えている。文字を作っていたアリたちは、床と壁の隙間に入っていく。しかし、20匹くらいがまだ床をうろついている。

 佳純が殺虫剤をスプレーすると、たちまち効き目が現れた。アリたちは悶えるような動作をしていたが、やがて死んだ。

<「マ」のように見えたけど、単なる偶然だろう。アリが、人文字みたいなことをするはずがないよ>

 佳純は自分にそう言い聞かせたが、床下のアリが床上に上がってきていることは、ほぼ確実だと思った。そう思うと、いつものように6畳間に布団を敷いて寝るのは、何となく薄気味が悪い。自分が寝ている間にアリが上がってきて、体にたかるかもしれない。

 しかし、アリは夜も活動するものなのだろうか? よく見かけるのは日中だ。だから、夜は巣でじっとしているのかもしれない。佳純はすぐにネットで調べた。

<何だって? 昆虫は、基本的に睡眠を必要としない。ごく短時間の休憩をこま切れに取るだけ。アリの群は交代で休憩するから、24時間活動していることになる!>

 いろいろ考えた末、夜寝る前に、布団の周りに殺虫剤をスプレーして、一種の防壁を作ることにした。

<へへへ。漫画やアニメに出て来る結界けっかいみたいだ。まあ、万が一アリがそこを突破してきても、ハチやムカデみたいに刺したり咬んだりするわけじゃなし。あまり心配しないでいいかな>


 その晩は、嫌な夢を見ることなく、ぐっすりと眠れた。

 ところが、朝目覚めて上半身を起こし、ふと6畳間の隅を見ると、昨日と同じような模様がある。すぐに、枕元に置いてあったスプレー缶を持って、その傍に駆け寄った。


 マ


 昨日と同じだ。すぐに殺虫剤を吹きかけて、アリを殺した。

 朝食をとりながらも、佳純は心ここにあらずだった。

<「マ」が2回も。これは偶然じゃないかもしれない>

 すぐに頭に浮かぶ言葉があった。「ママ」だ。

 佳純は、一瞬身震いした。部屋のクーラーが効きすぎているためだけではなかった。

 実は、佳純には誰にも言えない秘密があった。

 6畳間の床下に、新生児の遺体が3体、埋めてあるのだ。

 両親が相次いで亡くなった時、相続した財産は、この古い家を除いてほとんどなかった。佳純は契約社員で、給料は決して高くはない。だから、たまにはちょっと贅沢がしたかった。

 両親の死から1年ほど後、小遣い稼ぎという軽い気持ちから、出会い系サイトを通じて、いわゆる「パパ活」をした。

 最初の相手は悪質な人ではなく、むしろ気前が良くて佳純のことを色々褒めてくれた。会っている間だけであっても、自己肯定感が上がった。そのため佳純は、パパ活に味を占めてしまった。ただし、一人の人に深入りしないよう、相手は適当に替えるようにした。

 避妊には気を付けていたつもりだったが、ある相手が、直前に避妊具を外してしまった。佳純は、望まない妊娠をした。

 どうしてよいか分からないまま、時間が過ぎていった。佳純の体質や体形のためか、妊娠の後半になっても腹の膨らみはほとんど目立たず、妊娠は誰にも気付かれなかった。

 家にいた時、突然陣痛が始まり、風呂場で女児を出産した。死産だった。遺体をピンクのタオルで包み、佳純は2日ほど寝ていた。

 しかし、いつまでもそのままにしておくわけにはいかない。遺体の扱いに窮した佳純は、6畳間の畳を1枚外し、さらに床板を外した。その下は地面だった。

 戸建て住宅の基礎は、湿気などが上がってくるのを防ぐため、全面をコンクリート敷きにするのが一般的だ。しかし、佳純の家は古いためか、地面がむき出しになっていた。

 地面に降りた佳純は、家にあった園芸用スコップで地面に穴を掘った。

<ごめんね……>

 心で詫びながら、遺体を地中に埋めた。

 数日後、昔の駄菓子屋を再現したレトロな玩具店で、赤色の小さな風車を買った。そして、家の仏壇の中に立てて、手を合わせた。


 3年ほど後、同じようなことが起きた。今度も女児の死産だった。佳純は前と同じようにした。赤い風車が、1本増えた。

 そして、3人目を産み落としたのが、つい2週間ほど前だった。

 今度は、前の2回と違う点があった。一つは、男児だったこと。もう一つは、未熟児ながら生きて生まれたことだ。

 生まれてすぐに、小さく弱々しい産声うぶごえを上げた。気が動転した佳純は、

「ごめんね、ごめんね」

と小声で繰り返しながら、てのひらで子どもの口を押さえ付けた。間もなく、子どもは息をしなくなった。

 遺体はタオルでくるみ、前の2回と同じように床下に埋めた。ただ、新生児をあやめたショックは大きく、穴を掘る手にも力が入らなかった。そのためか、埋め方がごく浅くなってしまった。

 佳純は、青色の風車を買ってきて、仏壇に供えた。自分の名前から一字を取って、「ジュンチャン」と名付けた。

<「ママ」の文字は、ジュンチャンの叫びなんだろうか? それを、ジュンチャンに代わって、アリが伝えようとしているの?>

 



 

 

 

 

 


 



 

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