標本No.8 アミメアリ 3

 朝、ゴミ出しをして帰る途中、門の前で柿崎夫人と出会ってしまった。

<この人、私が外に出るのを見計らって出てくるの?>

 煩わしいが、敵に回してはいけないと思い、適当に相手をするのが常だった。

「ねぇ、佳純ちゃん。昨日きのうかな? 変なもの見たわよ」

 佳純は一瞬ギクリとした。

「何を見たんですか?」

「うちの庭にもね、アリが行列を作ってたのよ。とっても小さなアリ」

 佳純は内心、ホッとした。よく考えれば、柿崎夫人が「アリ文字」を目撃するはずはない。

「そうですか」

「別にアリがいても不思議じゃないけど、ここからが変なの」

「何です?」

「そのアリの行列は、お宅とウチの間にある生垣いけがきの下を通って、お宅の庭に入っていくのよ。気味が悪いから、そのままにしちゃったけど」

「そうなんですか。別に構いません。アリにとっては、宅地の境なんて関係ないでしょうから」

「でも、それだけじゃないのよ」

 柿崎夫人は、嬉しそうな顔をしながら、声を潜めて話し続ける。

「お宅の向こう隣の安田やすださんね。あそこの奥さんから聞いたのよ」

「はぁ」

「安田さんも、ご自宅の庭でアリの行列を見たって言ってたわよ。その行列もやっぱり、佳純ちゃんちの庭に入っていったって」

「はあ。そうですか」

「ちょっと変でしょ? なぜ、アリがお宅に集まっていくのかしら。お宅には何か、アリを引き寄せるようなものがあるのかしらね」

「それは、ないですよ」

「そう? 近ごろはあまり臭わなくなってきたけど、あの異臭と何か関係があるかもしれないわよ」

「あ、済みません。仕事がありますので」

「ごめんね。引き留めちゃって」

「いえ」

<まったく困ったオバサンだ。きっと、アリのことを近所に言い触らすんだろうな>


 家に戻った佳純は、身支度しながらアリのことを考えた。

<他の家の敷地内にいたアリもここに集まったとなると、床下にいるアリの数は、いったいどれくらいになるんだろう。30万か? いや、100万匹を超える群れもあると、ネットに出てたな>

 害虫駆除の専門会社に駆除を依頼すればいいのかもしれないが、どだい、それはできない相談だ。そんなことをすれば、床下にいるジュンチャンたちが見つかってしまう。だから、家のあちこちに不具合が出てきても、リフォームをしないでいるくらいなのだ。


 対処方法を考えあぐねているうちに、日を追って室内に出没するアリの数が増えていった。見つけるたびに、ティッシュで摘まんで殺したり、殺虫剤を噴霧したりしたが、これらは対症療法に過ぎなかった。

 また、ゴキブリ駆除剤にあるような、据え置き型のアリ駆除剤も試してみた。取扱説明書には、巣にいるアリまで根絶やしにできるとあった。しかし、部屋に出没するアリは、一向に減らなかった。

 もっとも、佳純の方も慣れてきて、アリが現れてもあまり驚かなくなった。

 ある晩など、シャワーを浴びようと風呂場の戸を開けると、洗い場の床や壁を、全部で100匹くらいのアリが、うろつきまわっていた。

 佳純は、一番勢いを強くしたシャワーを吹きかけ、アリを洗い流した。アリはどんどん排水口に吸い込まれていった。佳純は、シャワーを浴びながら考えた。

<今のまま、床上に上がってきたアリをその都度駆除しながら、アリの群れがウチの床下からどこか他の場所へ引っ越しするのを待つ「消極策」か? それとも、床下に殺虫剤を大量に撒くといった「積極策」によって、アリを根絶するか?>

 できれば、積極策に打って出て、早く平穏な日々を取り戻したいと思った。しかし、床下には、ジュンチャンがいる。それに、床下にどれくらいの数のアリが集結していて、どんな様子でいるのか、まったく想像がつかない。床板を開けるのが怖い。

<とても、そんな勇気はないな。部屋に上がってきたアリをその都度駆除しながら、いなくなるのを待つしかないか>


 ジュンチャンが亡くなってからちょうど1か月経った日、佳純は休暇を取った。

 可愛い子猫が描かれている小袋で個包装された、ミルク味のキャンディを3つ仏壇に供えて、手を合わせた。仏壇にも、アリが10匹以上入り込んでいるが、もう大して気にならなくなった。

 壁だとか天井だとか、いたる所をアリが歩いている。1匹だけの場合もあれば、群れをなしている時もある。しかし、いちいち殺虫剤を噴霧するのも、面倒くさくなった。

 さすがに、食べようとしたパンやオカズにたかっている時は、手で払いのけたり、息を吹きかけて飛ばしたりした。


 夕方、買い物から帰ると、門の所で運悪く柿崎夫人につかまった。

「佳純ちゃん、元気?」

「はい」

「近ごろは、異臭がしなくなったわね」

「そうですか」

「アリ、大丈夫? 手に負えないなら、専門業者に調査や駆除を依頼した方がいいわよ。スダキンなら、見積り無料だってさ」

「はい、考えてみます」

「佳純ちゃん、本当に大丈夫? 何だか元気がないわ」

「いえ、大丈夫です。夕飯の支度がありますので、失礼します」


 夜、いつものように布団の周りに殺虫剤を撒き、「結界」を補強してから寝た。

 異変は真夜中に起きた。息苦しさで目が覚めると、鼻の中に何かがたくさん詰まっていて、それが喉の方まで回っているような気がした。

 枕もとに置いていた照明のリモコンを手探りで摑むと、点灯スイッチを押した。

 明るくなった室内は、元の6畳間ではなかった。床はもちろん、壁や天井もアリでびっしり覆い尽くされている。しかもアリたちは、押し合いへし合いしながら、盛んに動き回っている。

 「結界」は、何の役にも立たなかった。アリたちは、殺虫剤が撒かれている「危険地帯」など構わずに押し進み、仲間のしかばねを乗り越えて、あっという間に結界内に侵入したのだ。

 佳純の体に取り付いたアリたちは、鼻や耳の穴から、体の内部に入り込んでいた。喉が苦しくて思わずき込むと、無数のアリが飛沫となって、口から吐きだされた。

 枕元に置いたはずのスプレー式殺虫剤を手探りしたが、手が触れたはずみで部屋の隅に転がっていってしまった。

 顔に取り付いたアリを手で払いのけたが、潰れたアリから体液が出てきて、頬や額を刺激した。開けていた両眼にもアリの群が入り込んだので、目が開けられなくなった。

 佳純は、布団をめくって起き上がろうと、何度か試みた。しかし、津波のように押し寄せる黒いアリの群れに抑え込まれ、身動きできないまま仰臥させられてしまった。

 

 しばらくして、上の方からミシミシという音が聞こえ、天井が徐々に下に向かって膨らみ始めた。おそらく、アリの重みによるものだろう。

 天井は、全体が一枚の板で出来ているのではなく、細いはりがあって、そこにそれぞれの天井板が置かれている。しかし、重さに耐えかねた天井板が大きく下に湾曲し、梁との間に隙間が生じた。すると、そこから膨大な量のアリが、佳純の上に降り注いだ。建物の建設現場で、ミキサー車からドロドロしたコンクリートを基礎に流し込むような具合だ。ただし、流れ落ちるものは、白いコンクリートではなく、焦げ茶色の粉末だった。

 佳純の体は、アリの山の中に没して、完全に見えなくなった。体表のあらゆる穴から、大量のアリが、体内深く侵入していった。

<ジュンチャン。お姉チャン2人も。ごめんね。もアリさんになるから、許してね。天国で一緒に遊ぼ>

 佳純は息が吸えない苦しさで身悶えしたが、間もなく虚無の世界に旅立っていった。


  *


「……」

「どうなさいました?」

「何とも哀れな話だね。佳純って子が、可愛そうだよ」

「そうですか? 可哀そうなのは、赤ちゃんでしょ?」

「そりゃぁ、そうだけど。俺、もう疲れた。限界だ」

「残りの標本は、あと一つです。頑張って!」

「頑張るって、何のために頑張ってるんだか、分からなくなってきた」

「もうすぐ、バーです。スペシャル・サービスが待ってますよ」

「スペシャル? どうも胡散うさん臭いんだよね」

「姉と二人で、精一杯おもてなしさせていただきますから」

「オ・モ・テ・ナ・シってやつか?」

「それ、だいぶ古すぎますよ。では、こちらです。トイレ、大丈夫ですか?」

「ああ」



 


 

 


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