標本No.4 トビズムカデ 4
鳶頭皮膚科医院の建物は古色蒼然とした木造で、今どき珍しく、2階は医師の住まいになっているようだ。ベランダに男物のシャツやパンツが干してあるのが見える。
患者は秀樹のほかに誰もおらず、すぐに呼ばれた。付き添いは要らないと秀樹が言ったので、妙子は待合室で待っていた。
「ムカデですか。痛みますかな?」
鳶頭医師は、80に手が届いていそうな、痩せて背の高い老人だった。禿げた頭は、酒焼けなのだろうか、異様なほど赤くテカテカとしていて、ひょろ長い白髪が
「痛むから来たんですよ。早く何とかして下さい」
「頭がクラクラするとか、吐き気とか、息苦しいとか、そういったものはありますかな?」
ひどくのんびりとした口調だ。
「いえ、今のところありません」
「これまで、ムカデに咬まれたことはありますかな?」
「子供のころ、山に行ってムカデに咬まれたことがあるような気もしますが、だいぶ昔のことなので、よく覚えてません」
「ほう、山というのは、どちらの山ですかな?」
「親の実家があった
「同じ種類のムカデでも、生息する場所によって、DNAが微妙に違っている場合があるんですわ。アナフイラキシイがあるといけませんからな。それで、咬んだムカデの種類は何ですかな?」
「そんなこと、知りませんよ。とにかく、とても大きな奴で、20cm以上はありました。それより、早く薬を塗って下さい」
「まあ、まあ、落ち付いて。それはたぶん、トビズムカデですな」
「トビズ? 先生の名字と同じじゃないですか!」
「おっしゃるとおりです。頭が鳶色をしているというので、トビズムカデと呼ばれとります。トビは鳥のトビ。トンビとも言いますな。鳶職のトビも同じです。ズは頭のズ。頭寒足熱のズと言えばお分かりですかな? 『皆の者、ズがたかーい!』なんて
ちなみに、
「先生、早く……」
「はい、よーく分かっとります。けれど、もうしばらくお付き合い下さい。咬んだ虫の知識も大切ですからな。それで……、どこまで話しましたかな? あ、そうだ。ムカデっちゅうものはですなぁ、そのー、もっぱら前に進むだけで、後ろに下がることはできないといわれとります。だから、昔の侍が頭に被っておった兜の
ここだけの話、実はですなぁ、私の祖先は
「せんせ……」
「あれれれれれれれれ!」
鳶頭医師が頓狂な声を発した。
「な、何ですか! ビックリするじゃないですか」
「ちょっと待って下さいよー。伊達成実の兜の前立は……、ムカデじゃなくて、毛虫だったかもしれませんな。毛虫もムカデ同様、前進あるのみなんですわ。これはとんだ間違いをしでかしまして、誠に
「先生! いい加減にして下さいよ、まったくー。何なんですか、いったい。ムカデに咬まれた患者の前で。よくもそんな下らないことが言えますね」
「ですから、ムカデと申し上げたのは間違いでして、正しくは毛虫だったですな」
「どっちでも同じですよ! 私は虫が大嫌いなんですから」
「ご興味ありませんか?」
「まったく、ありませんよ。くどい人だな」
「そうですか。ご興味ない……。こりゃまた、失礼いたしました。では、隣で看護師から薬を塗ってもらって下さい。処方箋を出しておきます。
でもまあ、ムカデも悪気があったわけではなくて、ビックリして咬んだんでしょうな。さっきのあなたみたいにね。田舎の方では、時々あることです。アナフイラキシイでもなければ、命にかかわることはありませんのでね。あまり気になさらんことですわ。わはははははははははは――。では、お大事に。
次の方、えー、
秀樹が退室しようと後ろを向いた時、鳶頭医師は
隣の処置室で、看護師が患部に薬を塗り、ガーゼを貼ってくれた。看護師は年配の女性だが、医師とは対照的に
<ちくしょー。医者がムカデなら、看護婦はダンゴムシかい。この医院も虫屋敷かよ。こんな藪医者、二度と来るもんか!>
薬局に立ち寄ってから、家に向かった。
「あれは、度し難い藪医者だ。お前、とんでもない医者に連れていってくれたな。あんなヤブの手にかかったら、下手すると殺されるぞ!」
車中、秀樹は鼻の穴を膨ませて息巻いている。
「私はただ、倉田皮膚科の次に近い皮膚科を検索して教えただけよ」
「あのクソジジイめ、何が侍の兜だ、伊達政宗だ。人が苦しんでるのに、下らないことをベラベラしゃべりおって」
「どうなの、まだ痛むの?」
「そんなにすぐに治るわけがないだろ。それにしても、腑に落ちないな。あれほど、殺虫剤や忌避剤を撒いたのに」
「効かなかったわね」
「まるで
「そんなことないわよ。あなたのこと、とても心配しているんだから」
「……」
秀樹は、素直に「ありがとう」とは言えなかった。妻へのそうした態度が、習い性となっていたのだ。
車中、むっつりと黙り込んでいた秀樹は、帰宅した途端、宣言した。
「プロの害虫駆除業者を呼んで、家の中も外も、徹底的に害虫駆除してもらう!」
秀樹はインターネットで駆除会社を検索し、比較検討した。そして、何社かに電話をして、何やら交渉していた。
「おい、妙子、来てくれ」
「駆除業者、決まったの?」
「ああ。『ムシムシ・バスターズ』に決めた。今はスズメバチの巣の駆除なんかで立て込んでいるらしく、家の下見に来るのは、来週の水曜日だ。もちろん、俺が立ち会う」
「あまり聞いたことのない業者ね。スダキンとか、大手の方が安心じゃないの?」
「うるさいな。よけいな口を挟むなよ。もう決めたんだ。来週の下見の結果にもよるが、家の中や外の害虫を1匹残らず駆除する『根こそぎ殲滅プラン』にしようと思ってる」
「へえ、なんだか値段が高そうね」
「お前は余計な心配をしなくていい。俺のすることに、いちいち口を挟むなって言ってるだろ。下見の時は、床下に入ったり、天井裏に上がったりして埃が立つから、食器などは収納しておいてほしいそうだ。頼むぞ」
「分かったわ」
翌日、秀樹が寝室で昼寝している間に、妙子は沙也加の携帯に電話して、ことの成り行きを知らせた。
「へー、あいつ、鳶頭先生に散々おちょくられたんだ。それ、見たかったなー」
「待合室で聞いてたけど、いやー面白かった。待合室に他の人がいたんで、笑いをこらえるのに苦労したよ」
「鳶頭先生、元気?」
「ええ、老いてますます元気。あら? 会いに行ってないの?」
「だいぶご無沙汰してるな。このところ、何かと忙しくてね」
「それはいけないわね。沙也加が行ってあげると、先生大喜びするよ」
「そうだね。何とか時間作って、行くようにする。先生、好物は何だっけ?」
「それも忘れちゃったの? ミミズでしょ」
「あ、そうだったね。生きのいいやつをどっさり、手土産に持っていくよ」
「それがいいね。ところで、害虫駆除業者の方は、どうする?」
「ある程度の犠牲はやむを得ない。でも、できるだけ虫たちを退避させてやろうと思う。特に、トビズムカデは。あそこまで大きく育てたし、何しろ、よくやってくれたからね。もしも人間の兵隊だったら、間違いなく勲章ものだよ」
「どうやって退避させるの?」
「来週の水曜までの間で、確実にあいつが家にいない日はない?」
「ちょっと待ってね……。えーと、土曜日は、会社時代の仲間とゴルフだわ。房総だから、ちょっと遠いわね。朝、6時くらいには家を出ると思う」
「その日は勤務だけど、誰かに代わってもらって、そちらに行くよ」
「相手は専門業者よ。大丈夫かしら」
「あとで調べてみるけど、ムシムシ・バスターズという業者、インチキ臭いなぁ。この業界には、居もしない害虫が巣食っているとか嘘を言って、法外な金額を吹っかける悪徳業者もあるらしいよ。まあ、正面から戦っても意味がないから、肩透かしでも食らわすよ」
沙也加は土曜の朝、秀樹が出掛けてしばらくしてから、家に来た。ほぼ一日かけて、虫たちを捕らえてケースに入れた。それらをクーラーボックスに収納して、持って帰った。やはり、すべての虫を捕獲することはできなかったが、トビズムカデは無事に保護することができた。
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