標本No.4 トビズムカデ 3

 沙也加は、クーラーボックスの中から透明なプラスチック・ケースを取り出し、テーブルの上に置いた。

「あら、ムカデ! トビズムカデね? 可愛い子じゃない。頬ずりしたくなっちゃう」

「そうでしょ。たくさん食べさせて、大きく育ててあるんだ。ちょっと肥り過ぎかもしれないけど」

 プラスチック・ケースの中には、体長15cmくらいのムカデが1匹、じっとしている。

「で、この子に何をしてもらうの? あいつにみ付いてもらう?」

 妙子の顔が緩んでいる。

「この子は恥ずかしがり屋さんで、暗くて狭い所が好きなの。田舎の方では、知らない間に、靴の中に入り込んでいることもあるそうだよ」

「あ、分かった! あいつの靴の中で、隠れん坊ね?」

 沙也加は、目で笑いながら黙って頷いた。

「今度は、痛い思いをするだろうね。楽しみー」

「ムカデに咬まれると、赤く腫れて痛い。でも、それだけじゃない。もしも以前ムカデに咬まれたことがあったら、アナフィラキシー・ショックを起こす可能性もある」

「よくスズメバチなんかで聞く、アレね。へー、それって、死んじゃうの?」

「運がね。あれ? コオロギ、もうなくなっちゃったね」

「美味しいから、つい手が伸びて口に運んじゃうよ。コオロギが呼び水になって、かえって口寂しいな」

「じゃあ、コオロギほど美味しくないけど、ゴキブリでもいい?」

「ええ、ゴキチャンで十分だよ。お願いね」

 沙也加は、クーラーボックスに入れて持参した生きたクロゴキブリ20匹ほどを、フライパンで炒った。

「はい、出来たよ」

 二人は、炒りゴキブリを摘まみながら、秀樹の「罪状」について語り合った。

 秀樹が沙也加の大学再受験を許さず、親子の溝が深まったことは前に言ったが、二人が挙げた罪状はそれに止まらなかった。最低限の生活費は毎月妙子に渡したものの、家計は自分が一手に管理し、収支額や貯蓄額は教えなかった。

 妙子や沙也加が少し値の張るものを欲しがっても、あれこれ難癖をつけて買い渋った。そのくせ、自分は高級な外車を乗り回し、ゴルフ場の会員権を買い、ゴルフやマージャンに明け暮れていた。

 秀樹は頭が良かったから、自分を正当化する理屈付けや弁術に長けていた。口論しても、妙子や沙也加には、とても太刀打ちできなかった。そればかりか、妙子や沙也加が着るものや、箸の上げ下ろしまにで、細かく注文を付けた。

「今から考えると、あいつ、典型的なモラハラ男だよね。頭から、母さんのことを馬鹿にしてたじゃない」

「そうね。私の言うことをまともに聞いたことなんて、まるで記憶にないわね」

「母さんや私が、少しでも自分の意に沿わないことを言ったりしたりすると、怒鳴りつけたわよね。今でこそ、言葉の暴力もDV(ドメスティック・バイオレンス)に含まれるけど、当時は違ってた。あいつも、そこは心得ていて、傷痕とか証拠が残るような暴力は極力控えていたわね。時々は、叩かれたけど」

「そうね。あいつがいると二人とも、いつもビクビクしてたわね」

「まるで、ジュラ紀だっけ? 恐竜全盛時代に、陰でこそこそ生きていた哺乳類の先祖みたいだったな。あいつは、この家を支配する暴君竜・ティラノサウルスだった」

「上手いこと言うね」

「それだけじゃないよ。よく出張する大阪に、女がいたんでしょ?」

「ええ。キャバクラのホステスとねんごろになっていたらしいわ。ふとしたことから、女の名刺を見たことがある。その女、何回か家に電話してきたわよ。あいつに取り次ぐと、すぐに切って、外に出かけた。きっと、外で掛け直してたのね」

「まあ、いろいろあったけど、私がいちばん許せないのは、大学に行かせてもらえなかったことじゃない。それよりも、あの時あいつが、『お前が俺に似ていれば、ストレートで名のある難関大学に入っていたはずだ。しかし、母さんに似ちゃったんだから、いくら浪人しても無駄だ』と言ったことよ。そして、あいつを説得しようとした母さんの頬を、平手でぶったよね。あの時、いつか絶対に母さんのかたきを討つと、心に誓ったの。あの時を思い出すと、今でも怒りで体が震えてくるよ」

「そうね。あの時は口の中が切れて、血が出たわ。私も、この男は絶対に許せないと思った。でも、大学に行かせられなくて、本当にごめんね。あの時、私がもっと頑張っていれば……」

「それは違うよ!」

 沙也加の声はビックリするほど大きく、ムカデもピクリと動いたようだ。

「母さんは何も悪くない。だめだよ、自分を責めちゃ。でも、どうして母さんは、あんなろくでもない男と結婚したの?」

「前にも言ったかもしれないけど、母さんは同じ会社に勤めていたの。そのころは、4年制大学卒の女子は採用していなかった。母さんは高卒で入社して、受付嬢をしていたの」

「母さん、美人だからね」

「いえいえ。そうしたら、あいつが私を見染めて、結婚を申し込んできた。社内の女子社員からは、玉の輿こしに乗ったと羨ましがられたなぁ。それが、とんでもないモラハラ男だったとは。人は結婚してみないと、分からないものね」

「結婚なんて、したいとは思わないなー」

「それは早とちりだよ。あいつのような男ばかりじゃない。いい人を見つけてね。それで、ムカデの次はどうするの?」

「ふふふ。敵の脆弱ぜいじゃくな部分に戦力を集中して、徹底的に叩くのが、兵法の常道よ」

「まるで戦争ね」

「あ、そうだよ。これは一種の戦争。母さんは司令官で、私は参謀だね。兵隊は、色々な種類の虫たち。そして、倒すべき敵は、長年私たちを侮辱し苦しめてきた暴君・秀樹だよ。ムカデ作戦で、あいつにどれくらいダメージを与えられるかにもよるけど、二の矢・三の矢も準備してる。それに、あいつが撒いた殺虫剤や忌避剤に打ち勝つには、補充投入する虫を思い切って増やす必要がある。だから、急ピッチで育ててるよ」

 沙也加は、アパートの自室で、ゴキブリやゲジなど様々な種類の虫を飼育し、繁殖させていた。そして時々この家に来ては、それらの虫たちを放っている。また、時には今日のように、さっと調理して二人で食べることもあった。

「あいつが殺虫剤を大量に撒いたから、犠牲になる虫も増えてるよ。でも、それに負けないくらい、どんどん放ってやるんだ」


 沙也加は、ペットショップに勤めている。比較的大きな会社で、イヌやネコだけでなく、フェレットやウサギなどの哺乳類や、鳥類・爬虫類・両生類・昆虫など、取扱い商品は多岐にわたる。それらを輸入するとともに、飼育・繁殖も手掛けている。

 沙也加はある店舗で、節足動物コーナーを任されており、取り扱いには馴れている。店の商品を自分の「作戦」に流用することも、「摘まみ食い」することもない。しかし、仕事を通じて得た飼育や繁殖に関する知識・技能が、大いに役立っている。というより、そうした知識・技能を身に付けるために、今の会社に入ったのだ。


「それで、この先どこまでやる? 最終的に、あいつをどう料理するかねぇ、沙也加」

「極限まであいつを追い詰めて、再起不能にさせたいな」

「あくまで精神的な範囲かね」

「もしも死なせたりしたら、警察沙汰になるかもしれないよ。そうなったら厄介でしょ? 母さんはどう思うの?」

「できることなら、あいつには、この世から消えてほしいな。永久にね。そうなったら、母さん心底喜ぶよ」

「分かった。あいつには消えてもらおう。そこを決断するのは司令官である母さんだよ。私はそれに従う」

「やるからには徹底的にやろうよ。でなきゃ、気が収まらない。それに、息の根を完全に止めない限り、あいつが逆襲してこないとも限らないしね」

「ラジャー! それじゃぁ、ムカデ作戦の手順について打ち合わせよう――」

 二人の打ち合わせは、まるで旅行の計画を練るかのように楽しそうに続いた。


 ムカデ作戦は、まんまと成功した。

 朝、偽装出勤をしようと靴を履いた秀樹は、右足の先に激痛を覚えた。

「イテテテテ!」

 すぐに靴を脱いで中を覗くと、巨大なムカデがいて、こちらを睨んでいた。

「うわぁー!」

 思わず靴を三和土たたきに投げつけた。ムカデは靴から這い出ると、素早い身のこなしを見せて床と壁の隙間に消えていった。

 秀樹は足を引きずりながらリビングに行き、右足の靴下を脱いで足先を見た。小指の根元がとにかく痛い。その辺りが、赤くなってきている。

<ちくしょー、なんてこった。あれだけ「来ちゃダメ! ムカデチャン」を家の周りに撒いたのに、なんでムカデが入ってくるんだよ。イテテテテ>

 異変を感じた妙子が、リビングに来た。

「あなた、どうしたの?」

「どうしたも、こうしたもないよ。玄関でムカデに咬まれた。すごく痛い。皮膚科に行くから、車の運転を頼む」

「え! ムカデ? どれ、見せて」

 妙子は、テーブルの上に伸ばしている秀樹の右足の先に、顔を近付けた。

「ここね。まだあまり腫れていないわね」

「おい! 人が苦しんでるのに、呑気なこと言うなよ。ほら、市役所の並び、何ていったかな……、倉田くらた皮膚科か? そこが一番近いよな。行くぞ!」

「ちょっと待って」

 妙子はスマホを操作した。

「何だよ。痛いんだから、早くしてくれよ」

「倉田皮膚科、きょうは休診日よ」

「え? ちくしょう。なら、大至急、別の皮膚科を探してくれ」

 妙子は急いで、スマホで検索した。

「そうね、次に近い皮膚科は……。鳶頭とびず皮膚科医院ね」

「トビズ? そんな皮膚科、あったっけ? 聞いたことねぇな」

「車で30分くらいの場所よ。9時に開くそうだから、準備してすぐに出掛けましょう」

「ムカデの奴め。あとで必ず殺してやる」





 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る