標本No.4 トビズムカデ 2

 秀樹に追い打ちをかけるようなことが起きた。ある朝、秀樹が玄関の外にある郵便受けから朝刊を取ってきて、リビングのソファで寛ぎながら読んでいた。あるページを開いた途端、妙なものが目に入った。

 長さ3cmくらい。ヌラヌラした褐色の体。先端から二本のつのを出して、ゆっくりと紙面を動いている。

「妙子! 来てくれ。新聞にナメクジがいる!」

「えー? ゴキブリの次はナメクジ? 勘弁してよ」

 ダイニングで朝食の支度をしている妙子は、呆れたように言い放った。

「くそ!」

 秀樹はナメクジを包むように新聞紙を丸めてクシャクシャにし、ゴミ箱に叩き込んだ。

「まったく。ナメクジくらいでカッカしないでよ。ゆうべ雨が降ったでしょ。郵便受けの中が湿っていたのよ。それでナメクジが入り込んだんでしょ。ナメクジは新聞紙のような紙が好物なのよ」

「お前、いやにナメクジに詳しいな。だったら、郵便受けにナメクジが侵入しないようにしろよ」

「あなたがやるべきよ。私はナメクジなんかヘッチャラだもん」

<また、口答えしやがって>


 秀樹は、ホームセンターの開店時刻をジリジリしながら待った。開店と同時に、「ナメクジ・イヤガール」というナメクジ忌避剤を大量に買い込んだ。

 帰宅すると、顆粒状粉末の「ナメクジ・イヤガール」を、郵便受けの中に大量に撒いた。規定量の5倍は超えていた。

 しばらくの間、ナメクジは新聞紙にたからなくなった。しかし、その忌避剤は吸湿性があるらしく、郵便受けの中で固まってしまった。それに伴って効き目も弱くなったようで、ときどき新聞紙にたかるようになった。

 秀樹は仕方なく、新聞を読む時には、まずリビングのテーブルの上に置き、ページを1枚ずつめくって、ナメクジがいないか確認した。いた場合は、ゴキブリ用瞬間冷凍式殺虫剤「瞬間冷凍ゴキゴロシ!」を噴射した。コチンコチンに凍ったナメクジを、ピンセットを使ってビニール袋に入れ、さらに袋を2~3枚重ねて、ごみ箱に捨てた。


 ある日、リビングにいた秀樹が、素っ頓狂な声をあげた。

「おい! 毛の塊が走ってるぞ。妙子、来てくれ!」

「ちょっと待ってて」

 妙子はダイニングで夕食の支度をしているのか、のんびりしたものである。

「早く! 逃げてしまうぞ」

「今度は何よ。毛の塊ですって?」

 妙子は、またかという表情だ。

「そこのアームチェアの下に入った」

 すると、体長4cmくらいの、細い毛のような足がたくさん生えた黒っぽい虫が、アームチェアの下から駆け出してきて、あっという間に廊下の方に走り去った。無数とも見える細くて長い足を、こんがらがらせることもなく、器用に動かしている。

「なんだ、ゲジじゃない」

「ゲジだって? 毛の塊じゃないのか」

「そうよ。ゲジゲジとも呼ぶわね。見た目はちょっと気味が悪いけど、何もしないわよ。そればかりか、あなたがひどく怖がっているゴキブリを襲って食べてくれるそうよ」

「何もしないだって? いったいいつから、ここは虫屋敷になったんだ?」

「あなたが、郊外で自然が豊かな場所がいいといって、ここに家を建てたんじゃない。ほら、小さいけど鎮守の森も近くにあるでしょ。虫が出て当たり前なのよ。あなたは土日も含めて、勤めや付き合いゴルフで家にいることが少なかったから、気が付かなかっただけよ」

「そうか? 俺が会社を辞めた日から、やけに虫が出るようになった気がするんだが」

「あなたの気のせいよ」


 そう言われても、ゲジは薄気味悪さという点では、ゴキブリを上回った。秀樹はさっそくホームセンターに行き、ゲジ忌避剤「ゲジゲジお断り!」をたくさん買って、家の周りに撒いた。

 さらに、こうなったら先手必勝だとばかり、いろいろな殺虫剤や不快害虫忌避剤を買い込んできた。

 それらは、

クモ忌避剤 「クモ・ニゲール」、

コバエ忌避剤 「どんと来るなコバエ」、

コバエ捕殺剤 「コバエちゃんへの甘~い誘惑」、

アリ用殺虫剤 「必殺! アリ殺し」、

ボウフラ(蚊の幼虫)用殺虫剤 「ボウフラすぐ死ぬ」、

ダニ捕りシート 「ダニの終着駅」、

ダニ忌避剤 「無ダニ空間」、

ハチ用殺虫剤 「ハチ撃墜王」、

ムカデ忌避剤 「来ちゃダメ! ムカデチャン」、

ダンゴムシ殺虫剤 「全滅ダンゴムシ兄弟」、

カメムシ用殺虫剤「カメカメ殺し」

などだった。

 テーブルの上に並べると、まるで製薬会社の展示コーナーだ。

「なによ、これ! ちょっと買い過ぎじゃない?」

 妙子は呆れたように言うが、怒っているわけではなさそうだ。

「この家の中や外にいる嫌な虫を、徹底的に排除してやるんだ」

「こんなにたくさんの薬を使って、人体や環境に悪影響はないかしら」

「心配するな。ほぼ一日ホームセンターにいて、各会社の製品を念入りに比較したんだ。人体や環境への影響も確認済みだ。まあ、こういう比較検討は俺の得意とするところだな。おかげで、殺虫剤や忌避剤に関して相当詳しくなったよ」

「大変だったわね。これで効果が出るといいけど」

「効果がなかったら、メーカーに苦情を突き付けてやるさ」


 翌日はまる一日かけて、買ってきた殺虫剤や忌避剤を家の内外に撒いたり設置したりした。

 だが、そんな秀樹の努力をあざ笑うかのように、虫の出没は止まらなかった。ゴキブリとゲジは、相変わらず室内を疾走した。ゴキブリは、ダイニング以外にも出没するようになった。ナメクジは、新聞に取り付くだけでなく、ノソリノソリと集団で玄関ポーチに上がってくるようになった。

 しかし、秀樹を失望させたのは、それだけではない。今まで見かけなかった新手あらての虫まで、出現し始めたのだ。しかも、先手を打って忌避剤や殺虫剤を撒いた虫も含まれていた。

 どこから湧いてくるのか、コバエが我が物顔で室内を飛び回った。彼らは酒の匂いに引き寄せられるらしい。酒好きな秀樹が晩酌をしていると、いつの間にかコバエがお猪口ちょこの縁に留まっている。小さいながら、黄色い体に赤い目を持った薄気味悪い奴だ。反射的に手で払うと、お猪口まで吹っ飛ばしてしまった。

 秀樹が寝ようとして寝具に入ると、布団の顔の近くで小虫が動いている。思わず払いのけて、各部屋に常備している「瞬間冷凍ゴキゴロシ!」を噴射して殺した。それはカメムシで、秀樹の手にはカメムシが放った悪臭が残った。

 室内のあちらこちらで、ハエトリグモがうろつく姿がたびたび見られるようになった。ハエトリグモは網を張らない徘徊性のクモだ。動作がひょうきんに見えることから、クモ・マニアには人気があるそうだ。ハエトリグモが多く見られるということは、餌になる虫も豊富だということらしい。

 家の外壁には、コガネグモやジョロウグモの巣が目立つようになった。2階の軒天井のきてんじょうではアシナガバチが巣作りに精を出している。ダンゴムシも、リビング前のテラスをゾロゾロと集団で散歩している。

 サザンカの生垣いけがきでは、一列横隊になったチャドクガの幼虫たちが、旺盛な食欲を示していた。幼虫の毛(毒針毛どくしんもう)には毒があり、触ると皮膚がかぶれる。たとえ殺虫剤を使って殺しても、死骸に残った毒針毛が被害を及ぼすという厄介者だ。

 またある時、秀樹が庭に行こうとすると、生垣の上に緑色のカマキリがいた。両方の鎌を胸の前で合わせて、じっと秀樹を見つめている。まだはねが生えそろわない幼虫だったが、そんなことは秀樹には分からなかった。

 慌てて脇を通り過ぎようとしたら、クモの巣があったらしく、頭からクモの網を被ってしまった。すぐに、家に引き返した。それ以来、庭に行けなくなった。


「いったい何なんだ、これは……」

 普段はいつも強気の秀樹だが、今回はさすがに応えたらしい。

「夏が近づいて、虫の活動も活発になってきたのよ」

「なんだよ、他人事ひとごとみたいに。そもそも、お前の掃除の仕方が不十分だから、薄気味悪い虫が出てくるんじゃないのか?」

「掃除ならちゃんとやってるわよ。文句があるなら、あなたが自分で掃除しなさいよ。勤めていた時は仕事仕事で、家事は一切しなかったわよね。でも、退職して暇になったんだから、少しは家事を分担したらどうなの? ここは宿屋じゃないのよ」

 結婚してからこれまで、妙子がここまで口答えしたことはなかった。昔したように、妙子の頬にビンタを食らわせてやりたい衝動が湧き上がってきたが、何とかこらえた。昔と違って、今の妙子がそのまま黙っているとは思えない。退職をきっかけにして、夫婦間の力関係が変化してきたことを認めざるを得なかった。

 翌日から秀樹は、勤めていたころのように、朝家を出て会社の近くまで行き、付近の喫茶店で過ごすようになった。家にいてもすることがないし、なにより、不気味な虫たちが跋扈ばっこする「虫屋敷」にいること自体が、耐え難い苦痛だった。

 秀樹の主な日課は、平日は「偽装出勤」、ゴルフ練習場通い、会社OB会が開催する行事への参加、同会地域支部主催の麻雀会など。土曜・日曜は、会社の同期生や元部下とのゴルフだった。しかし、日課を終えて帰宅する足取りは、とてつもなく重かった。


 ある日曜日、玄関ドアのカギを開けて、沙也加が入ってきた。肩から、クーラーボックスを下げている。

「お帰り」

「ただいま。コオロギ買ってきたよー。今、調理するから」

「いつもありがとうね」

「気にしないで。あいつ、いないよね」

「うん。今日はOB会のゴルフコンペ。会場が遠いから、夜にならないと帰ってこない」

「相変わらずだね。それで、どう?」

 買ってきたコオロギ数10匹をフライパンで炒めながら、沙也加が尋ねた。

「そうとう効いているようだよ。だいぶ参ってる」

「へへへ。そりゃ、いいねぇ」

「そうだね。あいつの無様ぶざまな慌てぶりを見ていると、胸がスッキリするよ」

「いいなー。私も見たいよ。はい、できた」

 沙也加は、「炒りコオロギ」を盛った皿を、ダイニングテーブルの上に置いた。

「ありがとうね。今日のは身が大きくて、美味しそうだね」

「そうでしょ。ちょっと高かったけど」

 妙子は1匹を手で摘まんで、口に運んだ。

「美味しい! やっぱり、ゴキブリよりは断然コオロギだね」

 二人は、炒りコオロギに手を伸ばしながら、話を続けた。

「それで、次はどうするの?」

「ふふふ。攻撃のレベルを一段も二段も引き上げて、徹底的にあいつを追い詰めるよ」

「楽しみね! で、具体的にどうやる?」

「それは、この中……」

 沙也加は、持参したクーラーボックスを指差した。沙也加の口から、コオロギの足が1本はみ出していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る