標本No.4 トビズムカデ 1

「今度は何だ―? 長細い虫が2匹いるね。トビズムカデ? ムカデの一種か? それにしちゃぁ、やけにデカいな。いや、もっとデカかったのが、縮んじゃったような具合だ。また、気色悪い話なんだろうが、聴かないと先に進めないんだろ? 聴こうじゃないか」

「では、いきます」


  *


 春眠暁を覚えず、どころではなかった。カーテンの隙間から差し込む光の具合からみて、昼はとっくに過ぎているだろう。

 しかし、吐き気、頭痛、倦怠感はいまだ健在だ。秀樹ひできは目覚めたあとも、しばらくベッドから動けなかった。顔を巡らして部屋の掛け時計を見ると、午後1時20分だった。

 もちろん、となりのベッドに、妻・妙子たえこの姿はない。


昨夜ゆうべは、ちょっとまずかったな。しかし、サラリーマン生活最後の日だったんだから、仕方ないよな>

 秀樹は、大学卒業後入社した大手商社を、昨日をもって退職した。5年前に定年退職していたが、再雇用制度を利用して引き続き勤め、それも昨日終了したのだ。

 長年の労に報いるため、昨夜は家族が家でささやかなお祝いをしてくれる予定だった。そのために、独身だが独立して家を離れている一人娘の沙也加さやかも、珍しく家に来たはずだ。秀樹はうつらうつらしながら、昨夜のことを思い返していた。


 急に尿意が襲ってきた。すでに膀胱は限界状態で、慌ててトイレに駆け込んだ。

 排尿が、ひどく長く感じられた。

<近ごろどうも、小便の切れが悪くていかん。前立腺肥大かもな>

 トイレから出て、洗面室で水をガブ飲みした。鏡に映る自分の顔は、思っていた以上に老けている。

<俺もいつの間にか、ジジイになったもんだな。今朝はまた一段と冴えないツラだ>

 リビングルームからテレビの音が聞こえてくる。妙子はそこにいるのだろう。妙子と顔を合わせるのは少し気まずかったが、仕方がない。

「おはよう」

「おはようございます」

 妙子が、微笑しながら応える。

<あれ? 昨夜のことに、腹を立ててはいないのかな?>

「昨夜はワルかった。仲間に強引に誘われて、つい梯子はしご酒になった」

 職場の退職慰労会は、1週間くらい前に済んでいた。しかし昨夜は急遽、有志で送別会をやることになったのだ。1時間くらいしかいられないと言って応じたのだが、それがつい二次会、三次会となり、最後に馴染みのクラブに立ち寄った時には、午前0時を過ぎていた。ベロベロに酔っぱらった秀樹を、同じ方向に帰る同僚がタクシーに乗せて、家の前まで送ってくれたのだ。

 早く妙子に連絡すればよかったのだが、メールで知らせたのは午後10時過ぎだった。

「いいのよ。会社生活最後の日だったんだから」

<そうだよな。昨日は特別な日だったんだ>

「沙也加は?」

「あなたからメールが来るまで待っていたけど、あなたが遅くなると知って帰ったわよ」

「ちっ! たまには泊まっていきゃぁいいのに」

「来てくれただけでも、ありがたいと思わなくちゃ」


 秀樹と沙也加の関係は、ギクシャクしていた。2年前に家を出て以来、同じ県内に住んでいるのに、沙也加はとんと家に寄り付かない。

<なんであいつは、これほど俺を嫌うのか?>

 秀樹は首をひねるが、それなりの理由はあるのだ。彼は結婚後も、仕事とそれに付随する付き合いを最優先し、家庭のことは妙子に任せきりにした。育児も例外ではなかった。特に、子供が女児だと分かった途端、関心は次の子供に移った。しかし、子供は一人しかできなかった。

 沙也加の心が秀樹から離れるきっかけとなった出来事の一つが、大学進学問題だった。高校3年の時、沙也加は大学受験に失敗した。

 沙也加は一浪させてほしいと両親に強く訴えたが、秀樹は許さなかった。妙子は沙也加に加勢したけれど、秀樹は頑として首を縦に振らなかった。経済的な余裕がなかったわけではない。

――女に大学教育は必要ない。

 秀樹の、時代錯誤的だが揺るがない信念だった。

 彼の考えによれば、女性は専門学校か各種学校で実用的な技能を身に付け、早く社会に出るべきだ。そして、できるだけ早く良い伴侶を見つけて、家事や育児に専念すべきだというのだ。それが、日本が直面している少子高齢化という喫緊の課題に対する解決策にもなるのだという。

 沙也加は不本意ながら調理の専門学校に進んだが、興味が持てずに途中で退学した。その後フリーターとなり、いろいろな勤務先を転々とした。これが、秀樹には我慢ならなかった。早くどこかの会社の正社員になれと繰り返し説教したが、沙也加からは無視された。同じ屋根の下に住みながら、父子おやこはほとんど口を利かなかった。

 沙也加は2年ほど前に独力で、ある会社の正社員となった。それを機に親元を離れ、アパートで独り暮らしを始めた。実家には年に1~2回しか顔を出さない。しかも訪れるのは、決まって秀樹が不在な時だ。


「何か食べる? 昨夜用意してあったお寿司は、二人で食べたわよ。奮発して、特上寿司の特盛りだったんだけどね。二人じゃ食べきれないから、最後の方は、ネタだけ食べてシャリは捨てたわよ」

<これだから、女という奴はイヤラシイな。笑顔を見せながら、チクリチクリと嫌味を言う>

「いや、昨夜は俺も食べ過ぎた。まだ腹が空かない。その代わりトマトジュースを飲もう。〽お酒を飲んだ翌朝は、カモメ・トマトジュースー、か」

「あら、トマトジュース、ないわよ」

「え? ないのかよ。俺が酒を飲むときは買っておくように、言ってあるだろ? それも、塩分無添加じゃなくて、必ず塩分含有にしてくれって。メーカーはモンテデルのやつ」

「そうだったかしら? そういうことなら、昨夜そこのコンビニで買ってくればよかったのに。24時間、開いてるでしょ。ペットボトルの緑茶でいいなら、冷蔵庫にあるわよ」

「しょうがねえなぁ。まあ、お前の気が利かないのは、今に始まったことじゃないがね……」

 秀樹はブツブツ言いながら立ち上がり、ダイニングルームに向かった。

<妙子の奴、口答えしたな。これまで口答えなど、めったにしなかったのに>

 ダイニングに入った瞬間、秀樹は床の上を素早く動く黒い物体を見た。

「おい、ダイニングにゴキブリがいるぞ!」

 その声は、みっともないほど震えていた。

「妙子、早くダイニングに来てくれ!」


 秀樹は有能な商社マンであり、外では人当たりが良く、交際範囲も広かった。ゴルフ、麻雀は滅法上手く、酒は「ウワバミ」と呼ばれるほど強かった。

 そのためか、同期入社の中では最も昇進が速かった。社内の派閥争いのあおりを受けて役員には届かなかったとはいえ、本社の部長職まで勤めた。まさに、昭和サラリーマンの一典型であり、家庭では亭主関白そのものだった。

 そんな秀樹にも、弱点はあった。なぜか虫が苦手なのだ。それも、やや異常なほど。


「どうしたのよ」

 やっと妙子がダイニングに入ってきた。

「遅い! お前がすぐ来ないから、ゴキブリは冷蔵庫の下に逃げたじゃないか」

「え? 何言ってるのよ。あなたがすぐに叩き潰せばよかったんじゃない」

「それは……。お前も、俺が大の虫嫌いなのは知ってるだろ?」

「そんなこと、言われなくたって知ってるわよ。でもあなた、万物の霊長としてのプライドはないの? 小虫ごときにオタオタしちゃって。みっともないと思わない?」

「何だ、そのバンブツノレイチョウって?」

 妙子から予想外の反撃を受けて、秀樹は少したじろいだ。

<妙子のやつ、高卒で学もないくせに、小賢こざかしいことをほざきおって。俺が退職したとたん、俺を舐めるようなったのか? 一度ガツンと思い知らせにゃならんな>

「台所にゴキブリが出るのは、ちゃんと掃除していないからじゃないのか?」

「毎日掃除してます」

「そうかい。なら、俺がゴキブリ用の殺虫剤を買ってくるよ。この家から、ゴキブリを一掃してやる!」


 翌日から、秀樹にとって毎日が日曜日になった。しかし、会社の仲間とゴルフに行ったり、ゴルフ練習場に通ったりする以外、することがなかった。これまでの半生は、つま先から頭のてっぺんまで会社に浸りきっていたため、地域との繋がりも皆無だった。

 そんな秀樹にとってゴキブリ退治は、暇を潰すための格好のテーマとなった。近所のホームセンターに行って、いろいろな製薬会社が出しているゴキブリ駆除剤をじっくりと比較検討したのち、「殲滅せんめつ! ゴキブリ・ガンガン」という商品を買ってきた。

 これは、黒色プラスチック製の小型カプセル――ゴキブリが出入りする細い隙間がある――の中に、ゴキブリをおびき寄せる成分と殺虫成分を混ぜ合わせた餌が仕込んである。殺虫成分は緩効性で、餌を食べたゴキブリは、その場ではなく巣に戻って死ぬ。すると、仲間のゴキブリがその死骸を食べて死ぬ。こうして、家に巣食うゴキブリを根絶やしにできると謳っている。

 秀樹は、1箱20カプセル入りの「殲滅! ゴキブリ・ガンガン」を15箱も買ってきて、家の中のあちこち――冷蔵庫や電子レンジの下はいうまでもなく、システムキッチンの各扉の中、壁際には1メートル間隔で、さらには、他の部屋すべて――に設置した。その数は、商品の取扱説明書にある設置密度の5倍を超えていた。


「殲滅! ゴキブリ・ガンガン」の効果が出たのか、翌日から1週間くらいは、ゴキブリを見ることはなかった。

 ある日、ダイニングルームで妙子と昼食をとっていた。秀樹がふとテーブルの上を見ると、端に沿って動く黒い物体がある。

「おい、そこ! ゴキブリじゃないか?」

「え? ゴキブリ?」

「お前の前にある花柄の皿の下に隠れた!」

 そう叫びながら、秀樹は立ち上った。

「本当? どれ……」

 妙子は花柄の皿を手で持ち上げた。しかし、そこにゴキブリの姿はなかった。

「いないわよ。あなたの見間違いじゃないの?」

「いや、どこか別の場所に隠れたんだ。俺、食事はもういいや」

 そのままリビングルームに行こうとした秀樹は、首筋に何かが触れるのを感じた。思わず首筋を手で払うと、黒々としたゴキブリがポトリと床に落ち、猛スピードで走り去った。

「げっ! やっぱりいたんじゃないか!」

 秀樹の顔が、ムンク作『叫び』の人物になった。

「私には見えなかったわよ」

 妙子は落ち着き払っている。

「嘘だろ? 真っ黒でテカテカして、すごくデカい奴だった。あれが見えないはずはないぞ」

「殺虫剤をあれだけバラ撒いたんだから、いるわけないでしょ」

「……」

 そう言われると、秀樹は自分が目撃したことにいささか自信がなくなってきた。しかし、首筋をゴキブリがった感触は、まだ記憶に生々しい。

 その後も、ゴキブリは時々現れた。ただ、出現は今のところダイニングに限られていた。秀樹はダイニングで食事することができなくなった。だから、ダイニングから食事をリビングに運んで、一人で食べるようになった。妙子は、それに付き合ってはくれなかった。







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