標本No.3 ニホンカイレットウジョウチュウ 2

 グニャグニャした白っぽい断片に包まれた小さなたまごが、水の中に落ちた。

 初めはおびただしい数の他の卵と一緒だったが、やがて断片は水に溶け、卵はバラバラになって散っていった。


 水がよどんだところに流れてきた卵が孵化ふかして、とても小さな丸い形の幼虫が出てきた。幼虫は剣微塵子けんみじんこという微小な動物に食われたが、その腹の中で生きていた。そればかりか、幼虫はひるのような形に変態した。

 しばらくして、剣微塵子は小型の魚に食われ、さらに小型の魚はますという大型の魚に食われた。しかし、幼虫は鱒の筋肉の中で生き続けた。そればかりか、またもや変態し、長さ2cmくらいの、芋虫を平たくしたような形になった。


 川辺の村に住む百姓・茂兵衛もへえの女房・おまつが、川魚かわざかなすなどって暮らしている男から、鱒を買って帰ってきた。

 鱒は今朝けさ獲ったばかりで生きがいい。お松は鱒を刺身にして、夕餉ゆうげの膳にのぼせた。刺身なんて、年に一度か二度くらいしかありつけないご馳走だ。意地汚い茂兵衛は、お松の三倍くらい刺身を食った。刺身の中に潜んでいた幼虫も、一緒に茂兵衛の腹の中に入っていった。

 幼虫は、茂兵衛の歯に嚙み千切られたりり潰されたりすることもなく、いたって元気だった。


 常安の意識が戻った。しかし、何も見えず、何も聞こえなかった。

<俺はどこにいるのだろう。法事で説教をしていて、突然意識がなくなったところまでは思い出せるのだが……。体を動かしたいが、手も足もないようだ>

 それもそのはずだ。今の常安はいわゆる真田虫さなだむし絛虫じょうちゅう)の一種、「日本海裂頭れっとう絛虫じょうちゅう」だった。ちょうど、幼虫から成虫に変態したところで、長さは数センチに過ぎない。

<自分は、生きてはいるようだ。しかし、五感がまったく働かないのは、どうしたことなのか?>

 常安がいるのは、茂兵衛の小腸の中だったが、常安は知る由もない。

<俺は一度死んで、転生したのかもしれない。朝から頭が痛かったから、脳卒中にやられたか。転生した先は、どうも人間界ではないらしいな。俺の修行が足りなかったというのか? だが、俺は先祖代々の寺を継ぐため、子供の時から日夜勤行ごんぎょうに励み、諸々の修行を重ねてきたではないか>

 常安は、腑に落ちなかった。が、……。

<いや、待てよ。確か、俺の法話を聞きもしないでスマホをいじる由香の態度に腹を立ててしまったな。その上、由香の転生先は畜生道に決まっているなどと、不遜なことを考えた。これは、貪瞋痴どんじんちの瞋(怒り)そのものではないか。俺としたことが!>

 常安は、怒ったことをひどく後悔した。しかし、もう後の祭りだ。

<それにしても、ここはどこなんだ? 俺はどうなったんだろう?>

 今は、光も、音も、匂いも、味も、感触も、何もない世界にいる。言いしれない恐怖が、繰り返し常安に襲いかかってくる。

 また、自分をこのような状態に陥れた張本人がどこかに存在していて、その者が、いつ自分を殺したり傷付けたりするか分からないという考えも、恐怖を倍加させた。

 今のような状態は一体いつまで続くのか。この先、果てしなく続くのではないか。まったく先が読めないことも、絶望感を掻き立てた。


 いったい、どれくらいの時間が経ったのだろう。やがて、常安の心に少しずつ変化が生まれた。

 現状を冷静に観察すると、五感が働かず、自分が置かれた状況がまったく把握できないことによる恐怖を除けば、今のところ耐え難い肉体的苦痛や不快感はない。

 手足や口がないから、自分で食べ物を探して食べることはできない。しかし、不思議なことに、いっこうに飢える気配がない。

 常安は知る由もなかったが、絛虫の体表は動物の腸の内壁ないへきと似た構造をしていて、体表から直接栄養を吸収することができる。頭にある吸盤で宿主しゅくしゅの腸壁にへばりつく。そして自分の体表から、本来宿主が吸収するはずの栄養を、それもごく一部を、くすねていればよいのだ。

 以前の常安は性欲が強く、妻帯していたものの、妻だけでは飽き足らなかった。しかし職業柄、浮気だとか、いかがわしい場所への出入だとかははばかられた。そのため、妻に隠れてアダルト・ビデオを観たり、法事などで美人参列者に好色な眼差しを送ったりするくらいが関の山だった。古希こきを過ぎたというのに、ときどき襲ってくる、激しいのどかわきも似た性欲を持て余していた。

 ところが、絛虫となってから、性欲は嘘のように消えた。絛虫は雌雄同体、つまり1匹の体の中に、オスメス両方の生殖器が備わっていて、自家受精が可能なのだ。

<こりゃぁ、意外に安楽な境遇だぞ。畜生道も悪くないかもしれん。不思議なのは、前世ぜんせの記憶や人間的な思考力が今もあることだ。転生すれば、前世の記憶はなくなるはずだが……。神様だか仏様だかの手違いなんだろう>


 「悟り」を得た常安の体は急速に成長し、長くなっていった。

 3か月も経たないうちに、体長は3mほどになった。体はめんのように平たくて長く、いくつもの四角い断片を連ねたような造りだった。哺乳類のような骨も、昆虫のような硬い体表も持たなかったから、ゴムテープのようにグニャグニャしていた。

 やがて、体の後ろの方の断片が成熟し、時々体から脱落していくようになった。中には卵がたくさん入っていた。


 数年が経過した。常安は相変わらず、茂兵衛の小腸に寄生していた。すこやかに成長し、今や長さ10mはあろうかという、堂々たる絛虫だ。

 外界にいれば受けざるを得ない暑さ寒さや、さまざまな危険から、完全に遮断されていた。栄養は取り放題だ。

 常安は、絛虫としての生を謳歌した。以前は日課だった読経も、今はまったく行っていない。もっとも、発声器官がないから、読経をしたくてもできないのだが。


 茂兵衛は近ごろ、奇妙なことに悩まされていた。時々、尻の穴から乳白色のグニャグニャした断片が出てくるのだ。しかし、腹が痛いわけでも、下痢をするわけでもないので、そのまま放置していた。

 ある日も、例の断片が出てきた。

 続けてもっと長い物が出てくるような気がした。実際、その頭が出かかったが、スーと尻穴に戻っていった。さすがの茂兵衛も、薄気味悪くなってきた。


 翌日、また断片が出てくる予感に襲われた。茂兵衛は、何としても断片の続きを引っ張り出したくなった。

「なあ、お松」

「あ?」

「近ごろ、尻の穴から変なものが出てきやがるんだ。今も、出てきそうだ。お前、俺の尻から変なものが出てきたら、引っ張り出してくれねぇか?」

「えー? 薄気味悪いね。引っ張り出すなんて、あたしにゃできないよ」

「何だと! お前、俺がおっんでもいいのか?」

 しばらく押し問答した挙句、お松はしぶしぶ承諾した。

 土間にむしろを敷いて、その上に、尻を出した茂兵衛がしゃがみ込んだ。

「よーく見ていて、長い物が出てきたら、手で摑んで引きずり出すんだぞ」

「分かってるよ。早くおやりよ」

 お松は顔を茂兵衛の尻に近付け、茂兵衛は息んだ。

 ブリブリ――

「馬鹿! 屁なんかひってどうするんだよ。うわっ! すごい臭いだ。腹の中が腐ってるんじゃないのかい?」

「ハハハハハ。出物でもの腫物はれもの何とやら、というだろ。出るものは仕方ねえよ。お、今度は出るぞ!」

 ポトリ

 断片1個が落ちた後、断片が繋がった帯状のものが、尻から垂れてきた。

 お松は、その先端を恐る恐る摑んで引っ張った。

 しかし、2~3個の断片をお松の手に残して、残りは尻穴の中にスルリと戻ってしまった。

「ちっ! しくじりやがって。何してんだよ」

「何言ってやがるんだ。摑んで引っ張っただけでも、ありがたいと思いな! この、罰当たりが」


 困った茂兵衛は、断片を持参して、お寺の和尚に相談した。和尚は村一番の物知りだった。

「ふーむ。これは真田虫じゃな。形が帯留おびどめに使う真田紐に似ていることから、真田虫というのじゃ」

「悪い虫でごぜぇますか?」

「まあ、お前が食べたものを少し横取りするが、大した悪さはしないじゃろう。じゃがな、あまり大きく育つと、腹痛はらいた腹下はらくだしを起こすこともあるらしい」

「大きくなるって、どれくらい大きくなりますか?」

「そうじゃな……。長いものでは、三じょう(約9m)を超えると聞いておる」

「げっ! そんな長い虫が、俺の腹に収まっとるですか。和尚様、どうかお助け下せぇ!」

「よかろう。今度出そうになったら、はしを一ぜん持って、すぐに来なさい」

「箸でごぜぇますか? 分かりやした」


 数日後、出てきそうな予感がしたので、茂兵衛は箸を持って、寺に駆けつけた。お松も付いて行った。

「出てきそうか」

 和尚は、土間に蓆を敷いた。

「箸をこちらへ……。茂兵衛は、蓆の上で土下座どげざするようして、尻を突き出しなさい。腹に力を入れて、虫をひりだすのじゃ」

 茂兵衛の尻から長い物が出てくると、和尚はそれを二本たばねた箸にからめて、ゆっくりと巻き取っていった。

「ここで慌てるとな、虫が切れてしまうからのぅ。ゆっくりゆっくり巻き取るのがコツなのじゃ。息を吐くとき腹に力を入れるようにしなさい」

 巻き取っても巻き取っても、虫は続く。

「虫が細くなってきたのぅ。そろそろ終わりかもしれぬなぁ」

 和尚が言うとおり、限りなく続くと思われた真田虫も、ついに終わった。真田虫を巻き取り終えると、和尚はそれを蓆の上に置いた。グニャグニャした、不気味な虫だった。

「こ、これはいったい、何だね! こんな長くて薄気味悪いものが、お前さんの腹に巣食っていたとは。どおりで、いつもガツガツしてたわけだ」

「馬鹿こくでねえ! 和尚様、こんな薄気味悪い奴、すぐに燃やしてしまいます」

「いや待ちなさい。姿は奇怪きっかいではあるが、真田虫も生き物であることに変わりはない。まして、お前に大きなわざわいをなしたわけでもない。この真田虫、ひょっとすると前世は人間だったやもしれぬ。しかし、はかばかしい功徳くどくを積まずして死したのであろう。畜生道に転生し、真田虫となったのかもしれん。哀れであるから、ごく簡単に供養してやろう。その後、小坊主こぼうずに燃やさせるとしよう」


 常安には、耳も目も鼻もなかったから、人体の外に引きずり出されたことは知り得なかった。しかし、先ほどから体に変調をきたしており、余命が幾ばくもないことを悟った。

<実に安楽な、「常安」にふさわしい境遇だったが、どうやらそれも終わりらしい。次はどの世界に転生するのだろう。この畜生道で功徳を積んだわけではないから、人間界に戻るのは無理だろう。仏様ほとけさま、願わくは、再び畜生道に転生させたまえ……>


「――呼盧呼盧摩囉呼盧呼盧醯利くーりょ-くーりょーもーらーくーりょーくーりょーきーりー  娑囉娑囉しゃーろーしゃーろー  悉利悉利しーりーしーりー  蘇嚧蘇嚧すーりょーすーりょー  菩提夜菩提夜ふじやーふじやー――」

 

 遠のいていく意識の中で、久々に陀羅尼だらに(お経の中で梵語のまま唱える長い句)を唱える常安であった。


  *


「何で、こうも気色の悪いものばかり標本にするかねー。君たち、本当にいい趣味してるよ。ただ、酒も回ってきたし、ちょっとは慣れてきたかなぁ」

「お褒めの言葉、痛み入ります」

「褒めちゃいないよ。けど、サナダムシになるのもいいかもしれんな」

「物語をお聴きになって、そう思います?」

「ああ。ただし、条件がある」

「何ですか?」

「へへ。条件というのはだ……、若葉さんのお腹に住むってことだよ。若葉さんのお腹の中なら、サナダムシだろうが、カイチュウだろうが、構わない。そうだ、ギョウチュウがいいかな。時々、若葉さんのお尻の穴に出ていって、卵を産むかなぁ。かゆいからって、自分でお尻の穴を引っ搔いちゃだめだよ。俺が潰れちゃうからね」

 酒の勢いもあり、紀彦のいささか下品な本性が現れてきた。

「ほんとに私のお腹の中でいいんですか? 入ってみます?」

「もちろん。冗談じゃないよ、本気だよ」

「はい分かりました。でも、標本を全部観てからでないと、ダメですよ」

「やはり、そうだよな。次、行こう」

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