標本No.3 ニホンカイレットウジョウチュウ 2
グニャグニャした白っぽい断片に包まれた小さな
初めはおびただしい数の他の卵と一緒だったが、やがて断片は水に溶け、卵はバラバラになって散っていった。
水が
しばらくして、剣微塵子は小型の魚に食われ、さらに小型の魚は
川辺の村に住む百姓・
鱒は
幼虫は、茂兵衛の歯に嚙み千切られたり
常安の意識が戻った。しかし、何も見えず、何も聞こえなかった。
<俺はどこにいるのだろう。法事で説教をしていて、突然意識がなくなったところまでは思い出せるのだが……。体を動かしたいが、手も足もないようだ>
それもそのはずだ。今の常安はいわゆる
<自分は、生きてはいるようだ。しかし、五感がまったく働かないのは、どうしたことなのか?>
常安がいるのは、茂兵衛の小腸の中だったが、常安は知る由もない。
<俺は一度死んで、転生したのかもしれない。朝から頭が痛かったから、脳卒中にやられたか。転生した先は、どうも人間界ではないらしいな。俺の修行が足りなかったというのか? だが、俺は先祖代々の寺を継ぐため、子供の時から日夜
常安は、腑に落ちなかった。が、……。
<いや、待てよ。確か、俺の法話を聞きもしないでスマホをいじる由香の態度に腹を立ててしまったな。その上、由香の転生先は畜生道に決まっているなどと、不遜なことを考えた。これは、
常安は、怒ったことをひどく後悔した。しかし、もう後の祭りだ。
<それにしても、ここはどこなんだ? 俺はどうなったんだろう?>
今は、光も、音も、匂いも、味も、感触も、何もない世界にいる。言いしれない恐怖が、繰り返し常安に襲いかかってくる。
また、自分をこのような状態に陥れた張本人がどこかに存在していて、その者が、いつ自分を殺したり傷付けたりするか分からないという考えも、恐怖を倍加させた。
今のような状態は一体いつまで続くのか。この先、果てしなく続くのではないか。まったく先が読めないことも、絶望感を掻き立てた。
いったい、どれくらいの時間が経ったのだろう。やがて、常安の心に少しずつ変化が生まれた。
現状を冷静に観察すると、五感が働かず、自分が置かれた状況がまったく把握できないことによる恐怖を除けば、今のところ耐え難い肉体的苦痛や不快感はない。
手足や口がないから、自分で食べ物を探して食べることはできない。しかし、不思議なことに、いっこうに飢える気配がない。
常安は知る由もなかったが、絛虫の体表は動物の腸の
以前の常安は性欲が強く、妻帯していたものの、妻だけでは飽き足らなかった。しかし職業柄、浮気だとか、いかがわしい場所への出入だとかは
ところが、絛虫となってから、性欲は嘘のように消えた。絛虫は雌雄同体、つまり1匹の体の中に、オスメス両方の生殖器が備わっていて、自家受精が可能なのだ。
<こりゃぁ、意外に安楽な境遇だぞ。畜生道も悪くないかもしれん。不思議なのは、
「悟り」を得た常安の体は急速に成長し、長くなっていった。
3か月も経たないうちに、体長は3mほどになった。体はきし
やがて、体の後ろの方の断片が成熟し、時々体から脱落していくようになった。中には卵がたくさん入っていた。
数年が経過した。常安は相変わらず、茂兵衛の小腸に寄生していた。
外界にいれば受けざるを得ない暑さ寒さや、さまざまな危険から、完全に遮断されていた。栄養は取り放題だ。
常安は、絛虫としての生を謳歌した。以前は日課だった読経も、今はまったく行っていない。もっとも、発声器官がないから、読経をしたくてもできないのだが。
茂兵衛は近ごろ、奇妙なことに悩まされていた。時々、尻の穴から乳白色のグニャグニャした断片が出てくるのだ。しかし、腹が痛いわけでも、下痢をするわけでもないので、そのまま放置していた。
ある日も、例の断片が出てきた。
続けてもっと長い物が出てくるような気がした。実際、その頭が出かかったが、スーと尻穴に戻っていった。さすがの茂兵衛も、薄気味悪くなってきた。
翌日、また断片が出てくる予感に襲われた。茂兵衛は、何としても断片の続きを引っ張り出したくなった。
「なあ、お松」
「あ?」
「近ごろ、尻の穴から変なものが出てきやがるんだ。今も、出てきそうだ。お前、俺の尻から変なものが出てきたら、引っ張り出してくれねぇか?」
「えー? 薄気味悪いね。引っ張り出すなんて、あたしにゃできないよ」
「何だと! お前、俺がおっ
しばらく押し問答した挙句、お松はしぶしぶ承諾した。
土間に
「よーく見ていて、長い物が出てきたら、手で摑んで引きずり出すんだぞ」
「分かってるよ。早くおやりよ」
お松は顔を茂兵衛の尻に近付け、茂兵衛は息んだ。
ブリブリ――
「馬鹿! 屁なんかひってどうするんだよ。うわっ! すごい臭いだ。腹の中が腐ってるんじゃないのかい?」
「ハハハハハ。
ポトリ
断片1個が落ちた後、断片が繋がった帯状のものが、尻から垂れてきた。
お松は、その先端を恐る恐る摑んで引っ張った。
しかし、2~3個の断片をお松の手に残して、残りは尻穴の中にスルリと戻ってしまった。
「ちっ! しくじりやがって。何してんだよ」
「何言ってやがるんだ。摑んで引っ張っただけでも、ありがたいと思いな! この、罰当たりが」
困った茂兵衛は、断片を持参して、お寺の和尚に相談した。和尚は村一番の物知りだった。
「ふーむ。これは真田虫じゃな。形が
「悪い虫でごぜぇますか?」
「まあ、お前が食べたものを少し横取りするが、大した悪さはしないじゃろう。じゃがな、あまり大きく育つと、
「大きくなるって、どれくらい大きくなりますか?」
「そうじゃな……。長いものでは、三
「げっ! そんな長い虫が、俺の腹に収まっとるですか。和尚様、どうかお助け下せぇ!」
「よかろう。今度出そうになったら、
「箸でごぜぇますか? 分かりやした」
数日後、出てきそうな予感がしたので、茂兵衛は箸を持って、寺に駆けつけた。お松も付いて行った。
「出てきそうか」
和尚は、土間に蓆を敷いた。
「箸をこちらへ……。茂兵衛は、蓆の上で
茂兵衛の尻から長い物が出てくると、和尚はそれを二本
「ここで慌てるとな、虫が切れてしまうからのぅ。ゆっくりゆっくり巻き取るのがコツなのじゃ。息を吐くとき腹に力を入れるようにしなさい」
巻き取っても巻き取っても、虫は続く。
「虫が細くなってきたのぅ。そろそろ終わりかもしれぬなぁ」
和尚が言うとおり、限りなく続くと思われた真田虫も、ついに終わった。真田虫を巻き取り終えると、和尚はそれを蓆の上に置いた。グニャグニャした、不気味な虫だった。
「こ、これはいったい、何だね! こんな長くて薄気味悪いものが、お前さんの腹に巣食っていたとは。どおりで、いつもガツガツしてたわけだ」
「馬鹿こくでねえ! 和尚様、こんな薄気味悪い奴、すぐに燃やしてしまいます」
「いや待ちなさい。姿は
常安には、耳も目も鼻もなかったから、人体の外に引きずり出されたことは知り得なかった。しかし、先ほどから体に変調をきたしており、余命が幾ばくもないことを悟った。
<実に安楽な、「常安」にふさわしい境遇だったが、どうやらそれも終わりらしい。次はどの世界に転生するのだろう。この畜生道で功徳を積んだわけではないから、人間界に戻るのは無理だろう。
「――
遠のいていく意識の中で、久々に
*
「何で、こうも気色の悪いものばかり標本にするかねー。君たち、本当にいい趣味してるよ。ただ、酒も回ってきたし、ちょっとは慣れてきたかなぁ」
「お褒めの言葉、痛み入ります」
「褒めちゃいないよ。けど、サナダムシになるのもいいかもしれんな」
「物語をお聴きになって、そう思います?」
「ああ。ただし、条件がある」
「何ですか?」
「へへ。条件というのはだ……、若葉さんのお腹に住むってことだよ。若葉さんのお腹の中なら、サナダムシだろうが、カイチュウだろうが、構わない。そうだ、ギョウチュウがいいかな。時々、若葉さんのお尻の穴に出ていって、卵を産むかなぁ。
酒の勢いもあり、紀彦のいささか下品な本性が現れてきた。
「ほんとに私のお腹の中でいいんですか? 入ってみます?」
「もちろん。冗談じゃないよ、本気だよ」
「はい分かりました。でも、標本を全部観てからでないと、ダメですよ」
「やはり、そうだよな。次、行こう」
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