標本No.3 ニホンカイレットウジョウチュウ 1

「またまた、おかしな奴が出てきたね」

 標本No.3の前で、紀彦がため息をついた。

 標本ケースは縦2m、横1mくらいあり、そこに、白っぽくて平たい、帯状の物体が、つづら折り(くねくねと何回も折れ曲がった道)のように展開されている。

「ニホンカイレッ……。カタカナじゃ、どこで区切るんだか分からないね。何なんだ、こいつは」

「サナダムシと呼ばれる寄生虫の一種です。ニホンカイは、海の日本海です。レットウは、物が裂けるという意味のレツに頭のトウ。ジョウチュウのジョウはちょっと難しい字なのですが、簡略化して条件の条を当てることもあります。チュウは虫。ジョウチュウは、サナダムシという意味です」

「君、けっこう物知りなんだね。すごいな」


  *


――ポォク、ポォク、ポォク、ポォク、ポォク、ポォク――


「――照見しょうけん五蘊ごううん皆空かいくうどー一切いっさいくーやくしゃー利子りーしーしき不異ふーいーくう――」


<どうも、きょうは調子が出んなぁ。けさ始まった頭痛も、まだ続いている>

 木魚もくぎょを叩きながら読経どきょうしているのは、望念寺もうねんじ住職の常安じょうあんである。当年72歳。首や腹の回りにたっぷりと脂肪を蓄えている。


 いつもであれば、読経の声は本堂内に朗々と響き、木魚もそれに呼応こおうするかのように、力強く拍子を刻む。しかし、今日はなぜか力がみなぎってこない。

 今、常安が執り行っているのは、檀家だんか・山本氏の亡父七回忌しちかいき法要である。本堂に、山本夫妻や親族、20名ほどが参集している。


「――しゃー利子りーしーぜー諸法しょーほう空相くうそう不生ふーしょう不滅ふーめつ不垢ふーくー不浄ふーじょう――」

<頭痛なんて、生まれて初めてかもな。しかし、それほどひどくはないから、さっさとこの法事を終わらせて、酒でも飲めば治るだろう>


――ポォク、ポォク、ポォク、ポォク、ポォク、ポォク――


<前から思っているのだが、きょうというものは、素人が聴いて理解できる代物ではない。チンプンカンプンだろうから、みな早く読経が終わらないかと、一心に念じているんだろうな>


「――無眼むーげん耳鼻にーびーぜつしんにー無色聲香味蠋法むーしきしょうこうみーそくほう無眼界むーげんかい乃至ないしー無意識界むーいーしきかい――」


<山本さんの奥さんは美人だが、やはり歳には勝てないな。歳相応にけてきた。それに引き換え、長女の由香ゆかさんは、しばらく見ないうちにすっかり大人になった。しかも、なかなか色っぽいぞ。父親は虎魚おこぜのようなご面相めんそうだが、幸い母親に似たようだ。喪服だと、色気がいっそう引き立つ。スタイルが良いし、胸も大きそうだ。俺の睨んだところ、少なくともDカップはあるだろうな>


――ポォク、ポォク、ポォク、ポォク、ポォク、ポォク――


<そうだ! 来年挙行する望念寺創建100周年記念・鐘楼改築事業への寄付をお願いしておかねばならんぞ。会食の時に、虎魚殿に話しておこう。ただ、虎魚殿は父親とは違ってケチだからなー。渋るかもしれん>


「――えー般若はんにゃーはーらーみったーこーとく阿耨多羅あーのくたーらー三藐さんみゃくさん菩提ぼーだい――」


<さて、法話は何を話そうかな? どうせロクに聴いちゃいないだろうし、腹も減ってきたから、手短かに済まそう>


――ポォク、ポォク、ポォク、ポォク、ポォク、ポォク――


「――羯諦羯諦ぎゃーていぎゃーてい波羅はーらー羯諦ぎゃーてい波羅僧はらそう羯諦ぎゃーてい――」


――グォーン……、グォーン……、グォーン……


 常安は、脇に置いてあるリン棒を手に取って、磬子けいす(読経の時に鳴らす仏具)を叩いた。

 法要の儀式のいっさいを終えると、常安は曲彔きょくろく(僧侶用の椅子)から立ち上がって、参列者の方に向きなおった。

「本日は、故山本金次郎きんじろう様七回忌法要、誠にお疲れ様でございました。お父様も、さぞかしお喜びのことと存じます――」

 参列者のうちの何人かは、まるで関心がなさそうに、あらぬ方向に視線を向けてポカンとしている。

「せっかくの機会ですので、少しお話をさせていただきたいと思います。お疲れの方もおいででしょう。3分間で結構ですので、拙僧せっそうにお時間を下さい」

 ある連続テレビドラマに出てくる決め台詞ぜりふを真似て、場を和ませようと思ったのだが、誰も気が付かない。

「ウォッホン! 仏教では、輪廻りんね転生てんせいということを申します。生き物は、死ぬと別の命に生まれ変わり、これを果てしなく繰り返すといった意味であります。生まれ変わる先の世界は、六つあると言われておりますな。つまり、地獄、餓鬼、畜生ちくしょう修羅しゅら、人間、天上てんじょうで、これらを総称して六道ろくどうと呼びます――」


 常安は話しながら、参列者一人一人に、順に視線を送った。自分の話が伝わっているか、確認するためだ。

<おや。虎魚殿の陰に隠れるような位置に、由香さんがいるな>

 常安は、心持ち体を横にずらして、由香の様子をうかがった。由香は、下を向いてスマートフォンを操作している。

<なにぃ? 俺の話は、まったく聴いていないようじゃないか。スマホを見るのは止めんかい!>


「――生きている間、どのように過ごしたかによって、死後どの世界に生まれ変わるか決まるのであります。例えば、無益な殺生せっしょう、盗み、姦淫かんいんといった悪行あくぎょうを行った場合には、地獄に転生することもございます。ウォッホン!」

<由香め、いっこうにスマホを止めないな>


「ウォッホン! 地獄に行かないまでも、たとえば畜生道では、犬や猫、あるいは虫など、人間以外のものに生まれ変わるのであります。家の中をチョロチョロと徘徊するゴキブリが実は、死んだ近所のお爺さんの生まれ変わりだった、などということも、あながちあり得ないことではございません。ウォッ、ウォッホン!」

<おのれー。まだ止めんのか。せっかく、ほとけの道を嚙み砕いて話しておるというのに。この、不信心者め! 由香が生まれ変わる先は、せいぜい畜生道だ。間違いない!>


「永遠に続く輪廻転生の苦しみを断ち切るためには、むさぼる心、いかる心、真理を知らない愚かな心の三つ、すなわち貪瞋痴どんじんちを克服することが不可欠で……。ウッ!」

 突然、常安がその場にくずおれた。

 常安の意識は、急速に薄れていった。最後に耳にしたのは、

「おい、由香! すぐに救急車を呼びなさい!」

という山本氏の叫び声だった。



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