標本No.2 オオスズメバチ 8

 お母さんは、肘掛椅子に仰向けに倒れ込んでいた。

 ところが何と、額の上にトリュウが留まっている。お母さんは、恐怖のあまり気を失っているらしい。

 近くで見ると、実に巨大で不気味だったそうだ。全長は15cmくらい。頭部の大きさは、ニワトリの卵ほどもある。昆虫というものは、たとえテントウムシのように普段は可愛らしく見えても、拡大して見るとグロテスクなものだ。これが、オオスズメバチという禍々しい昆虫なら、なおさらだ。

 ひとしきり、額の上でダンスを踊るように回転したあと、静止してじっと父母を見つめた。顔面は鉄仮面のように無表情なのにもかかわらず、強い殺意が放射されているように感じられた。

「これはまずいぞ。トリュウはお母さんの目を狙ってる。幸子、何でもいいから、棒のようなものを持ってきてくれ!」

 母が動こうとした、まさにその時、勢いよくドアが開いた。

 そこには、白と紺のセラー服姿の夏子さんがいた。吹き込んできた強い風にあおられたのか、夏子さんの長い黒髪は、逆立つように大きく広がっていた。

「ダメよ、トリュウ! 母さんから離れなさい!」

 トリュウは、お母さんの額にとまったまま、夏子さんの方に向きを変えた。

 すると、夏子さんの後ろから、無数のスズメバチが部屋に飛び込んできて、トリュウの周りを旋回し始めた。それを見て、トリュウもお母さんの額から飛び立った。

「行け!」

 夏子さんが命令すると、夏子さんが連れて来たスズメバチは、トリュウに殺到した。トリュウはたちまち、全身をスズメバチに覆われた団子のような状態となって、床に落下した。体力に勝るトリュウは、体にたかったハチを強大な大顎や鋭い毒針を使って次々に殺していくが、あとからあとから体に取り付いてくるスズメバチの攻撃を振り切ることができない。

「あなた、この隙にお母さんを運びましょう!」

 父と母は、お母さんを抱き起して、お母さんの部屋に運んだ。ソファに座らせると、間もなく意識を取り戻した。

「あ! 大きなハチが襲ってきます。逃げて下さい!」

 お母さんは、そうとう混乱しているようだ。

「もう大丈夫ですよ。夏子さんが助けにきてくれました」

 母がそう言うと、お母さんは驚いた様子だった。

「え? 夏子が? 夏子は学校にいるはずですが。あ、そうか……。実は、きょうのことは夏子には言わないお約束でしたが、話してしまったんです。夏子が可愛がっているハチを殺してしまうのですから、黙ってはいられませんでした。すみません」

「いえ。俺より、お母さんの判断の方が正しかったようです」


 夏子さんが部屋に入ってきた。

「あ、夏子さん。無事でよかった!」

 両親は安堵した。

「トリュウは死にました。母から聞きましたが、僕、大変なことをしてしまったようで、どうしていいか分かりません。でも、その時の記憶は、まったくないんです」

「俺は昭夫の父親です。あの事件では、夏子さんはトリュウに意識を乗っ取られて、操られていたんです。だから、夏子さんに責任はないと思います。ところで、今日は学校があるのでは?」

「はい、そうです。でも、トリュウは必ず今日のことに気が付くと思いました。通気ダクトの開閉という、今まで一度もやったことのないことをしましたよね。それに、トリュウは人間の心を読むことにも長けているんです。母や私の心の動揺や緊張から、近々自分にとって良くない異変が起こるだろうと感付いたんだと思います」

 父は、感心したように頷いた。

「夏子さんと一緒に入ってきたスズメバチは、一番右の巣にいたハチなの?」

 僕の母が尋ねた。

「はい。トリュウは必ず反撃に出ると思ったから、一番右の巣の働きバチを連れて出かけました。そこのハチは、地下室のハチの中では一番トリュウの支配を受けていなくて、僕のいうことを聞いてくれるんです。再びトリュウに操られないよう、ここからだいぶ離れた公園にいました。そのうち、トリュウから発せられた狂暴なシグナルを感じたので、急いで家に戻ったんです」

「そうだったんだ。夏子さんは賢いわね。その働きバチにとっては、トリュウは祖母に当たるわけよね。それなのに、トリュウを攻撃して、お母さんや夏子さんを守ったのね」

「トリュウには可哀そうなことをしたと思います。でも、トリュウは大変なことをしてしまいました。それを考えると、トリュウを生かしておくわけにはいきません」

 夏子さんの声は、ひどく沈んでいたそうだ。

「さて、これから通気孔を開けて、しばらく風を通そう。その後、地下室を点検してみよう」

 父は、早く地下室の状況を確認したかった。


 まず、夏子さんの部屋に落ちていたトリュウの死骸を確認した。無数のハチから攻撃を受け、死骸はボロボロになっていた。生き返る恐れはまったくなさそうだったから、両親と夏子さんは地下室に降りて行った。

 地下室の金網の向こうは、スズメバチで死屍累々だった。夏子さんは暫くのあいだ、ハチの死骸に向かって手を合わせていた。

 大切なのは、女王バチの死骸を確認することだった。膨大な数の死骸から、女王バチの死骸を選り分けていった。地下室には、女王バチの死骸が3匹分なければならない。夏子さんが言うには、母の推測どおり、一番右の巣から連れ出したハチはすべて働きバチで、女王バチは巣に残ったはずだからだ。ところが、何回繰り返し確認しても、女王バチは2匹しか見つからなかった。

 トリュウが地下室から脱出して、夏子さんの部屋に現れた理由はすぐに分った。父が通気孔を塞いだ金網が、食い破られていた。トリュウの大顎の力に対して、金網の強度が足りなかったのだ。

 こうして、殺人バチ退治は辛くも成功した。

 父母も僕も、夏子さんの家で起きた出来事については、いっさい他言しなかった。警察は畦地宅にも来たが、地下室は見つからなかったそうだ。社宅用地でのスズメバチ事件は、不審な点を多々残しながら事故とされ、やがて忘れられていった。

 夏子さん母子は、それから1年ほど後に自宅を処分し、他県に引っ越していった。だから、僕と夏子さんの関係も自然消滅した。それ以来、夏子さんとは音信不通だし、夏子さんの消息を聞いたこともない。


 狂暴な殺人バチと長い黒髪の少女という、およそ似つかわしくない取り合わせが、僕の記憶に強烈な印象を残したあの夏から半世紀以上経った。今年の夏は一段と暑く、今日も猛暑日になりそうだ。

 ところが近ごろでは、あの出来事が本当にあったことなのか、何となく信じられなくなってきている。実は、ほとんどが僕の想像の産物に過ぎないのではないか。あるいは、子供のころ見た恐怖映画の断片的記憶なのではないか。尋ねたくても、僕の両親は二人ともすでに鬼籍に入っている。それほど、あの出来事は常軌を逸していた。

 自宅のダイニングで朝食をとっていると、テレビニュースのアナウンスが、ふと耳に留まった。

「次のニュースは、埼玉県各地で相次いで発生しているスズメバチによる被害についてです。すでにお伝えしているように、この夏、埼玉県内でスズメバチによる事故が4件発生しています。延べ22人がスズメバチに襲われ、そのうち3人が死亡しました。埼玉県警の発表によりますと、4件とも、現場近くに70歳くらいで長い白髪の女性がいるのを、通りがかった人が目撃したとのことです。身体的特徴から、同一人物とみられています。警察では、事件とこの女性との関係を、慎重に調査しています――」

 まさか……。

 あの殺人バチの子孫が今も生き残っているとは、考えにくい。しかし、髪の長い高齢の女性というのが、妙に引っ掛かる。 

 埼玉県か。僕の家から、たいして遠くはない。次の週末、現場に行ってみるか? いや、ぜひ行かねばなるまい。

 その時は、今も机の引き出しの奥にしまってある「昆虫探偵団」の団員証を持っていこう。ハチの形をした木片に、黄色と黒の彩色。夏子さんがトリュウを象って作ったものだ。


  *


「なに? 虫マニアの女の子、お婆さんになって、またハチに操られちゃったの?」

「それは、分かりません」

「それにしてもこの標本、実に恐ろしい面構えだね。見ているだけで、鳥肌が立つよ。これが、トリュウ?」

「いえいえ。説明にあったとおり、トリュウはとっくの昔に死にましたから。これは、埼玉県で生き残っていた、トリュウの子孫です」

「え! どうやって手に入れたの?」

「姉と私が捕獲しました。私たち、昆虫採集は得意なんです。オオスズメバチだろうがシオヤアブだろうが、狙った獲物は逃しませんよー」

「お二人は、見かけによらず活動的なんだね。あのぅ、シオヤアブって何?」

「後で出てきます。でも、私たちが採集するのは、昆虫だけではないんです」

「え? 他に何を?」

「例えば……。爬虫類や鳥類とか。哺乳類も捕まえます。うつぼ館のロビーで、クマの剥製をご覧になりました?」

「うん。見たよ。だいぶ古そうだね。埃だらけで、片目が取れてる」

「はあ。ちょっと手入れを怠ってますね。実は、裏山で姉が猟銃で仕留めたんです。だいぶ昔ですが」

「なにぃ、緑さんは、猟もやるの?」

「はい。姉はけっこう優秀なハンターなんです。さっきご覧になった、交尾中の動物の剥製。あれもほとんどは、姉が仕留めたものなんです」

「ほんと?」

「仕留めた後は、私と二人で解体し、剥製にしました」

「二人は剥製制作の技術も持ってるんだね。ますます驚きだ」

「ペニスの標本も、仕留めた動物から摘出したものですよ」

「ほー。まさか、セイウチも?」

「さすがに、セイウチ狩りには行けません。あれは輸入品です」

「人間のペニスも、仕留めた獲物から摘出したんでしょ?」

「いえ。さっきも申し上げたとおり、あれも輸入品です」

「ははは。冗談だよ。じゃ、そろそろ次に行こうか」

<緑が優秀なハンターだって? にわかには信じられん。女だし、猟をするようなタイプには見えないがなぁ。若葉の話、どこまでが本当なのか、よく分からん>

 


 

 


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