標本No.2 オオスズメバチ 7

 2学期が始まった。間もなくトリュウやスズメバチの大群と対決するのだと思うと、僕は落ち着かなかった。

 親友の勇人君と会うのは、クヌギの森公園に一緒に行った日以来だ。

「おい、昭夫。クリ林の向こうの家に、今も行っているのか?」

「いや。学校が始まったから、行ってない」

「あの家に行くのは止めたほうがいいぞ」

「なんで?」

「社宅予定地で、工事の人がスズメバチに刺されて死んだろ。それも2回続けて。どちらの時も、すぐ近くのクリ林に、あの家に住んでいる女子中学生がいたらしいぞ。それに、スズメバチは、あの女子中学生が自宅から連れてきたという噂があるみたいだ。あの人は、事件と何か関係があるんじゃないか?」

「そんなこと、あるわけないだろ? だいいち、あの家にスズメバチはいなかった」

 親友に嘘をつくのは心苦しかったが、夏子さんのことを思えば、致し方なかった。


 父母は、スズメバチ用の殺虫剤や殺虫剤噴霧器、ハチ用防護服などの道具を購入した。噴霧器は背負い式で手動だった。防護服はネットの付いた帽子と上着で、本来は養蜂用だった。だから、スズメバチの攻撃を受けた場合、どこまで耐えられるか分からなかった。

 いよいよその日が来た。

 僕はいつもどおり学校に行った。しかし、畦地家のことが終始頭から離れず、何にも身が入らなかった。


 以下は、あとから父母に聞いた話だ。

 父母は、自転車で屋敷に向かった。それぞれの荷台には、道具が積まれていた。

 屋敷に着くと、お母さんと簡単な打ち合わせをして、すぐに作業に取り掛かった。

 まず、地下室と屋根の開口部を結ぶダクトに設けられている開閉装置を確認した。それは、1階にある物置部屋の壁に取り付けられているハンドルで、回すことにより、ダクトを開閉できるようになっている。

「ハンドルは、簡単に回せましたか?」

「いえ、固くて苦労しました。でも、何とか回し切ることができました。ただ、すぐに元に戻しましたでしょ。なので、実際にダクトが完全に塞がれたのか、あまり自信がありません」

「有難うございます。夏子さんの部屋の天井にある通気口は、私が金網で塞ぎます。異変を察知したハチが出てこないよう、ダクトの閉鎖と同時に、手分けしてやります。その時は幸子さちこ、お母さんを手伝って、ダクト開閉器のハンドルを回してくれ」

「分かった」

 幸子は、僕の母の名前だ。

「その前に、地下室の様子を見に行って、ハチの飼育室の仕切り扉が完全に閉まっているかどうか確認します。完全に閉まっていないと、とても危険ですから。その間にお母さんは、窓やドアなど屋外への開口部をぜんぶ閉めてください。外に出ていたハチが、戻ってくる恐れがあります」

「分かりました。くれぐれも気を付けて下さいね」

「じゃあ、幸子、地下室に行こう。音を立てないよう気を付けろよ」

 父と母は防護服を身に付けると、夏子さんの部屋にある地下室の出入り口から、足音を忍ばせてゆっくりと地下室に降りていった。

「夏子さんが飼育室から出て来る時に使ったという扉は、あれだな」

 父が母に囁いた。

「カギが締まっているか、見てくる」

 父は身を低くして扉の前まで行った。扉は閉まっており、フック状のカギが掛かっていた。

「ねえ。一番右の巣には、ハチの姿がないわよ」

「ほんとだ。どういうことかな? イヤな予感がする」

 二人は、首をひねるばかりだった。

「トリュウがいる巣は、一番左のはずだな。見てみよう」

 二人は、音を立てないように注意しながら、身を低くして左奥に進んだ。

 ハチたちは二人に気が付いていないのか、興奮する様子はなく、巣の上を動き回っている。

「何なの? この大きさは」

 左奥の巣を見て、母が驚いた。

「あれだな、トリュウがいる巣というのは。さっき見た扉のほかには、ハチがこちら側に出てこられる場所は見当たらない。じゃあ、いったん引き上げるぞ」

 両親は、お母さんのいる部屋に戻った。

「地下室を確認してきました」

「ご苦労様です」

「ひとつ重大なことに気が付きました」

「え、何です?」

「いちばん右の巣、つまり、トリュウがいる巣からいちばん遠い位置にある巣なんですが、ハチの姿がほとんど見当たりませんでした。大部分が外に出ているようです。何か、心当たりはありませんか?」

「いえ、分かりません。どこへ行ったのでしょうね?」

「そうですか。仮に、その巣の女王バチが外に出ているとすると、他のハチを駆除しても、無駄になってしまいますね。残念ですが、作戦を延期した方がいいと思います」

 父はとても慎重な性格で、物事を行う場合、万全を期すことが多かった。

「いえ。やりましょうよ、あなた。女王バチというのは、巣から離れないものなんでしょ?」

 何事にも積極的な母が、異論を唱えた。

「まあ、一般的にはそうらしいが」

「なら、今日やるべきよ。今日を逃すと、二度と機会がないかもしれないわよ。新たな犠牲者が出るかもしれないし」

「うーん。幸子の言うことにも一理あるか……。分かった。やはり今日やろう。お母さん、よろしいですね?」

「はい。一日も早く、夏子をトリュウから解放してやりたいです」


 父と母はまず、殺虫剤の入った一斗缶から、殺虫剤を噴霧器に移して満タンにした。

 それから、母はお母さんと一緒に物置部屋に行き、通気用ダクト開閉装置のハンドルを回してダクトを閉じた。ほぼ同時に、父は夏子さんの部屋で脚立きゃたつを使って、天井の通気孔を目の細かい金網で塞いだ。金槌で天井を叩く音が家全体に響いたので、ハチは異変を感じ取ったに違いない。

 父と母は、噴霧器や、巣を壊すための細長い鉄棒を持って、再び地下室に降りていった。飛んでいるハチの数はさっきより大幅に増え、興奮して飛び回っている。

 二人の姿を認識したのか、カチカチという警戒音を発し始めた。

「さあ、やるぞ。幸子は階段の下にいて、万一緊急事態が発生したら、すぐに上に上がって、お母さんに知らせてくれ。場合によっては、110番か119番するんだ。マスクするのを忘れるなよ」

「分かったわ」

 父は、噴霧器を背負って、一番奥の巣の前に立った。金網の目から噴霧器の長いノズルを差し入れて、巣に近づけた。左手で噴霧器のハンドルを上下させると、ノズルの先端部から霧状の殺虫剤が巣に噴射された。すぐに殺虫剤の刺激臭が辺りを包んだ。

 そのとたん、巣盤の間から、すごい勢いで大量のハチが出てきた。まるで、大地震で液状化した地面から噴出する泥のようだ。ハチたちはいきり立ち、次々に父めがけて突進した。金網に取り付いて、尻から毒針を出しているものもいる。しかし、殺虫剤が効いたのか、次々と落下し、床の上でもがいている。

 他の巣のハチもいっせいに飛び立って、奥の巣の周りを飛びまわり始めた。その数は増す一方で、黒い渦巻のようになって巣が見えないほどだ。ハチたちは身を挺して、殺虫剤から巣を守ろうとしているのだろう。

「トリュウは、どいつだ? 見えるか?」

「ハチの数が多すぎて、分からないわ」

「それじゃあ、とりあえず、ほかの巣に移るか」

 落ち着いた父の声を聞いて、母は安心したばかりか、いつになく父が頼もしく感じられたそうだ。父は、他の3つの巣にも殺虫剤を噴霧した。早くも、タンクの残量が少なくなった。

「幸子、上に行って、一斗缶を持ってきてくれ」

「分かったわ」

 母が持ってきた一斗缶から二人してタンクに殺虫剤を補充し、再び殺虫剤を噴霧し続けた。墜落して踠くハチはどんどん増えて床を埋め尽くしたが、飛び回るハチは一向に減らない。ますます、猛たけり狂って乱舞している。

「巣を壊すとするか」

 父は、長い鉄棒を金網の目から差し入れると、巣をつついて壊し始めた。

 やがて、4つの巣の前面はあらかた壊したが、トリュウは見つからない。

「トリュウめ、どこに隠れてるんだ?」

 さすがの父にも、焦りの色が見えてきた。通気口を塞いだ状態で殺虫剤を大量に噴霧したから、マスクをしていても息が詰まった。


 その時だ、上の階から悲鳴が聞こえた。お母さんの声に違いない。父と母は急いで階段を上り、ドアを開けた。そこには、信じられない光景があった。




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