終章 出口のないバー 1

 左手にカウンターがあり、その前に、半円形のソファーとローテーブルを組み合わせたボックス席が、3組ほど配置されていた。照明は、特別展示室と比べてずっと暗い。秘宝館には場違いな、ジャズ・バラード風の音楽が、静かに流れている。


「お疲れさまでした」

 女将の緑が紀彦を迎えた。

 秘宝館に来た時はTシャツにジーパン姿だったが、今は体の線がはっきり見える細身のドレスを着ている。色は落ち着いた緑色だが、絹のような光沢がある。襟ぐりが深く、紀彦が視線を下げると、胸の谷間が挑発するように存在を主張している。緑の体から発しているのか、金木犀きんもくせいの花の香りに似た、華やかな香りが紀彦の鼻腔をくすぐった。

<今まで気が付かなかったが、胸が大きいらしいな。着瘦せするタイプなのか?>

 ぼんやりしている紀彦に、緑が話しかけた。

「どちらにします? カウンター? それともソファ?」

「いやー、疲れたよ。もうクタクタだから、ソファにする。それにしても女将さん、見違えるようだね」

「あら、お上手ね。こちらへどうぞ」

 紀彦を、ソファの中央に導いた。

「改めまして、緑と申します。本日はありがとうございました」

「いやー、今日は凄いものを見せてもらったよ。いい思い出になる」

「そうおっしゃっていただけると、私も嬉しいです。準備が出来次第、妹の若葉も来ますから」

「ほかにお客はいないの?」

「ええ、今夜は藪原様の貸し切りです」

「そりゃぁ、嬉しいね。失礼ながらこんな山奥の、しかも秘宝館の中に素敵なバーがあったとは、まったく予想しなかったな」

変わったものを観ていただいたお礼ですよ。ここのお代は、秘宝館の入場料に含まれてますので、ご安心下さいね」

どころじゃない。あまりにヘン過ぎる。あんなゲテモノを収集して展示してる二人は、一体何者だ? あばいてやりたいものだ>

「タダということ? そりゃ、有難いね」


 すぐに、若葉も加わった。緑と同じような細身のドレスだが、色は白だ。風蘭ふうらんの花のような、清楚で甘い香りを漂わせている。二人は、紀彦を挟むように座った。

「何をお飲みになります?」

「そうだなー。ビールはだいぶ飲んだし、日本酒も飲んだから……。バーボンの水割りでももらおうか。ダブルで」

「承知しました。若葉ちゃん、お願い」

 

「じゃあ、3人で乾杯しましょう!」

「あ、ちょっと待って。緑ちゃんは運転するんでしょ? 真夜中の山道だよね。飲んじゃマズいでしょ」

 紀彦は、ここへ来た時に体験した、緑の運転ぶりを思い出していた。

「大丈夫なんです」

 緑は両手を紀彦の膝に乗せて、蠱惑こわく的な微笑ほほえみを浮かべた。

「どうして?」

「ここには、お泊りできる部屋もあるんですよー」

 若葉が、紀彦の耳元で囁いた。

「え? 泊まっていいの?」

「はい。ですから、今夜は心置きなく飲んで下さいなー」

 若葉の口元が、紀彦の耳に触れそうだ。

 紀彦が視線を落とすと、若葉の胸の谷間が目に飛び込んできた。

<姉に負けず劣らず、いいチチしてるな。泊っていいということは……、男として期待するなという方が無理だろう>

「特別展示室で、俺が感心したことが一つだけあったよ。それはね、若葉ちゃんのナレーションだ。プロの俳優かアナウンサー並みに上手だね」

「そうですか? 若葉、とっても嬉しいな」

「実は、若葉はアナウンサーを目指して勉強していたこともあるんですよ。今も時々、音読おんどくといって、視覚に障害がある人のために朗読をするボランティアもしてます」

「へー、そうなの。偉いんだね。俺、若葉ちゃんがますます気に入ったよ。あ、もちろん、緑ちゃんもね」

 それから3人は、酒を飲みながら、たわいもない世間話をした。


「はい、オツマミ」

 しばらくして、緑がカウンターの奥から、皿に盛った食べ物を持ってきた。

 紀彦は若葉と談笑しながら、それに手を伸ばして、口に入れた。噛むとプチッという触感がして、甘みのあるクリーム状のものが口中に広がった。

「これ、なに?」

 紀彦は、緑の方に顔を向けて尋ねた。

なまの蜂の子です。つまり、オオスズメバチの幼虫。生で食べるのが、一番美味しいんです」

「ゲッ!」

 紀彦は反射的に、腰をかがめて口中の物を両足の間に吐き出した。

「あらあら。お口に合わなかったかしら? ……はい、お水」

「ありがとう。せっかく出してくれた食べ物を吐き出してしまい、申し訳ない。でも、オオスズメバチって、さっき聴いた話に出てきた、世界一狂暴なスズメバチでしょ? そんな虫の幼虫、よく食べられるね」

 若葉がお絞りを使って紀彦が吐き出したものを拾い、カウンターの内側に捨てに行った。

「この地方では、昔から蜂の子やイナゴは、重要なタンパク源なんです。今でも、普通に食べますよ。ハチの巣には六角形の部屋がたくさんあるんだけど、そこに幼虫や蛹がびっしりと詰まってます。その中から、肥っていて美味しそうな幼虫だけ選んで、抜き取ってきたんですけどね」

「最近は、昆虫食がブームになってるらしいけど、僕はダメだなー」

「慣れると病みつきになりますよ。噛んだ時の、プチッという食感がいいんですよね」

「そうなの? さっき聴いたモラハラ男とムカデの話。あの母娘おやこを思い出しちゃうよ。炒りコオロギとかゴキブリとか、旨いとか言って食べてたよね。え? まさか、あの母娘は君達か?」

「あ! ひどーい。あたしたちは母娘で、あたしは母親というわけ? あたし、そんなに老けて見えるのかしら」

「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだ。失礼、失礼」

「姉を怒らすと、怖いですよ……。あそこの標本ケースに、大きなムカデが2匹いたでしょ?」

「うん、いたね。まさか! あれが秀樹とかいうモラハラ男を殺した母娘?」

「ええ。ただ、標本にする時に、消化液の配合を間違えてしまって、すっかり縮んじゃったんです。失敗作ですね」

「消化液? 何だそりゃ」

 紀彦は、若葉の言葉にちょっと引っ掛かったが、すぐに忘れた。


 だいぶ酒が回ってきた紀彦は、気が大きくなり、いつになく饒舌になっていた。

 普段は、どちらかというと寡黙な男だったのだ。ただし、仕事である借金取り立ての時は、まるで別人だった。凄みをきかせて脅かしたり、逆になだめすかしたりして、債務者を精神的に自分の支配下に置く術に長けていた。

 まずは、小金を持っているが精神的に他者への依存心が強い人を探知する。最初は少額な借金から始めさせる。やがて、債務者を精神的に支配したうえで、借金を雪だるま式に膨らませる。そして、搾るだけ搾って財産のほとんどを巻き上げる。こうしたやり方で、紀彦は債権取り立てで常に抜群の成績をあげていた。

「実に不思議なんだけど、君たちはどうして、あんなグロテスクなものを集めて、展示してるんだい? 虫も殺せないような優しいご婦人方がさー。言っちゃぁ失礼かもしれんが、ちょっと変わってるねぇ。いや、だいぶ変わってるよ」

「どうして、と言われてもねー。ああいう美しいものが好きなんです。好き嫌いは理屈じゃないですよ。藪原ちゃんだって、若くて綺麗な女性がお好きでしょ? なぜかと問われても、答えられないんじゃありませんか?」

「まあ、そうだけど……。いや、待てよ。俺は答えられるよ。なぜ、俺は若い女が好きなのか」

「じゃあ、答えて」

「これがあるからだよ!」

 言うと同時に、紀彦は右隣に座っていた若葉の左胸を掌で覆った。

「キャッ! 駄目ですよ、は。藪原さん、バーでも紳士でいるって、約束したましたよね」

 若葉は笑いながら、紀彦の手を取って、彼の膝に戻した。

「あ! 分かったぞー」

「何が分かったんです?」

「若葉ちゃん、ノーブラだね?」

「分かりました?」

「そりゃぁ、俺が触診すれば、たちどころに分かるさ。大きさや形はもちろん、感度だってお見通しだ」

「え? やだー」

「いいこと教えましょうか?」

 緑が、紀彦の左手を握りながら、囁いた。

「いいことって、何だい?」

「フフフ。当ててみて」

「二人にお触りしていいとか? もったいぶらずに、教えなよ」

「あのね。二人とも、ドレスの下は、スッポンポンなの」

「え! ブラだけじゃなく、何て言うの? パンティか? 下も穿いてないんだ」

「そうよ」

「なに! ここは、バーじゃなくてピンサロか?」

「いーえ。ここはちょっと蒸し暑いでしょ? だから、出来るだけ薄着にしてるのよ」

 そういえばこの部屋は、ちょっとどころか、かなり蒸し暑い。秘宝館や特別展示室は、トイレを除いてある程度空調が効いていたのだが。

「この部屋も、空調が故障してるの? 来た時乗った車みたいに」

「いえ。でも、冷房は冷えて乾燥するから、壁にある植物に良くなんです。だから、冷房は切ってあるの」

 かなり暗いし関心もないので気が付かなかった。紀彦が改めて周りの壁を見回すと、バスケットに植え付けられた蔓性植物が、隙間がないほどびっしりと吊り下げられている。それぞれがたくさんの袋を付けているから、壁じゅう袋だらけだ。袋の大きさや形は様々だ。自分たちはジャングルの中にいて、妙な植物にグルリと取り囲まれているような気がしてきた。

「うわー、よく見ると、まわり中、袋だらけだ。あれ、トイレにもあった植物だよね。何か、難しい名前が書いてあったな」

「ええ。ここにあるのは皆、ウツボカズラの仲間よ。ウツボカズラにも色々な種類があるの」

「ウツボカズラって、食虫植物だよね?」

「ええ」

「植物のくせに動物を食うとは、ちょっと生意気じゃないか?」

「そうかしら? 食べられちゃう動物が間抜けなんじゃない?」

「まあ、そうかもね。でも、虫の中には、袋に落ちても袋を食い破って出てきちゃう偉い奴もいるんじゃないの? カミキリムシとかさ」

「カミキリムシ? 変わった虫、知ってるわね、藪原ちゃん。どうして思い付いたの?」

「え? まあ、何となくね」

「ウツボカズラは、甘い匂いを出して虫を誘うけど、カミキリムシはその匂いには反応しないはず。そんなゴッツイ虫は、最初からお断りなのよ」

「緑ちゃん、ずいぶん詳しいんだね。こうなったら、正直に白状しちゃおうかな」

「白状? なになに? なんか悪いことでもしたの? 実は人を殺して、この山の中に逃亡してきたとか?」

「え! バレちゃった? なんてことはないよ。実はねー、うつぼ館のロビーに、ウツボカズラがあるでしょ?」

「ええ」

「夕食後ロビーにいた時、あまりに退屈なもんで、カミキリムシをウツボカズラの袋の中に突っ込んだんだ。そのカミキリムシは、中庭で捕まえた。そうだな、5センチくらいあったかな」

「いけないんだー。それでどうなったの?」

 若葉が、両手で紀彦の頬を引っ張りながら尋ねた。

「いやー、そのカミキリ選手、なかなか根性のある奴でね。最初はジタバタしてたけど、すぐに袋の底を食い破って出てきたよ。やっぱり、植物が動物を捕まえて食うなんてことは、不自然なんだなー」

「それで、そのカミキリムシはどうしたの?」

 緑の表情は、やや硬い。

「金メダルあげたかたったけど、ないから、逃がしてやった。中庭へ放り投げたら、嬉しそうに飛んでいったよ。あれ? 緑ちゃん、怒った?」

「いえいえ。それで暇潰しが出来たんなら、ぜんぜん構わないよ。でも、その試合、ヘビー級の選手とフライ級の選手を戦わせるくらい不公平ね」

「そうかねー」

「ロビーにあるウツボカズラが捕まえるのは、ハエくらいの小さい昆虫ですからね。カミキリムシが勝つに決まってます。でも、ウツボカズラの中には、哺乳類を捕食する種類もあるのよ。ほら、あそこの掛け時計の右にあるウツボカズラ」

 緑が指さす方を見ると、暗がりの中、大きくて古そうな振り子時計が壁に掛かっている。目を凝らすと、その隣にあるウツボカズラは、長さが70~80cmくらいありそうな袋を付けている。

「あれはね、トカゲやネズミといった小動物を食べるの」

「ホント? 薄気味悪いな。さっき若葉ちゃんが、人間を食べる植物もあるとか言ってたけど、もちろん冗談だよね?」

「いえ、本当よ」

「信じられないな。仮に地球上のどこかにいたとしても、少なくとも、日本にはいないよね?」

「日本にもいる可能性はある。でも、日本で発見されたという話は、これまで聞いたことないわね」

<せっかくグロテスクな標本から離れられたっていうのに、つい変な話題に戻るな>

 紀彦は、額を伝う汗を、お絞りでぬぐった。

「あれ、藪原ちゃんも、汗をたくさんかいてるわね」

「ああ。ひどく蒸し暑いからね」

「じゃあ、浴衣ゆかたと下着、脱いじゃったら?」

「え? そんなことしていいの? ここって、風俗店の届け出してるの?」

「藪原ちゃん、見かけによらず、お堅いのね。ここには私たち3人しかいないんだから、何の問題もないでしょ? 秘宝館はもう閉館してあるし」

「そうだね。もちろん、君たち二人も脱ぐんだろうね」

「ええ、お望みなら」

「望まない頓馬とんまがどこにいるかね」

 紀彦は、思わず生唾を飲み込んだ。

<まさか、こんな美女二人と、素っ裸でイチャイチャできるとはなー。込み上げる不快感や吐き気に堪えて、気色の悪い標本を見学した甲斐があったというものだ> 

 二人の女は、ストンとドレスを脱いで全裸になった。

<いいねぇ! 二人そろって、実にエロい体していやがる。小柄な緑もスラリとした若葉も、出るところはしっかり出て、引っ込むところは引っ込んでる。まさかこれから、この二人と3P(デリヘルなどの男1人女2人によるプレイ)が出来ちゃうの?>

 素面しらふだったら当然、あまりに話が旨すぎるという疑念が湧いただろう。しかし、今の紀彦はしたたか酔っていて、そんな理性はどこかへ吹っ飛んでいた。

 よだれを流さんばかりにして二人の裸身に見惚みとれている間に、紀彦の浴衣が剥ぎ取られた。

 

 

 

 


 

 

 

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