終章 出口のないバー 3

 紀彦は仰向けに横たわっていた。

 我に返ると同時に、咳き込みながら嘔吐した。口から粘液状のものが噴き出したので、顔を横に向けた。

<息が苦しい。吐き気がひどい……>

 手で自分の体をまさぐると、全裸だ。全身がヌルヌルした粘液で覆われている。目を開けようとするが、粘液によって両方のまぶたが張り付いてしまっている。光はかすかに感じられるのだが、何も見えない。

 それにしても、左手の人差し指と中指が猛烈に痛くて、動かすことすらできない。骨が折れているのだろう。

<ちくしょー。ここはどこだ? 俺はどうなってる?>

 上半身を起こして、右手で周りを探ると、自分はゆかのような平面の上にいる。床は少し加熱されているのか、温かみが伝わってくる。自分のうめき声のほか、物音は聞こえない。

 右手で、顔一面に付着した粘液をぬぐった。薄目を開けようと試みるものの、ままならない。粘液の刺激なのか、目が痛く涙が止まらない。


 紀彦は、記憶を呼び戻そうと努力した。

山間やまあいの小さな温泉宿に泊った。夜、女将が運転する車で秘宝館に行った。幅が狭くて曲がりくねった山道を、1時間近く走った。乱暴な運転で、生きた心地がしなかったな。面白みのない秘宝館を観終わったあと、館員が勧めるままに、特別展示室を観にいった>

 紀彦が今いる場所は、蒸し風呂のように蒸し暑い。

<この蒸し暑さ、どこかでも感じた>

 一瞬、ここに来る直前の記憶が脳裏をぎったが、捕まえる間もなく、朝靄あさもやのように消えてしまった。

<特別展示室には、本物とも作り物ともつかない化け物が展示してあった。立派な標本箱に収められて。スピーカーから流れる、えらく長い解説を聞かされたな。気色の悪い妙な話ばかりだった。そうだ、怪しげな精力剤をもらって飲んだら、腹を下したんだ>

 今、下痢は収まっている。それにしても、蒸し暑くてたまらない。

<特別展示室を出ると、バーだった。女将とその妹だという女、緑と若葉が接待してくれた。途中で、皆服を脱いで、悪ふざけをしたな。二人とも、いい体してた>

 紀彦の手に、二人の乳房や尻の弾力や滑らかな肌の感触が蘇った。

<飲み過ぎて、俺のナニが立たないといって、責められたんだっけ。半ば強制的に、怪しげな精力剤をまた飲まされた。そこからの記憶が、はっきりしない>

 紀彦は、必死に記憶を手繰り寄せようとした。

<若葉のアソコが地割れのようにパックリ開いたんだ。俺はそこに飲み込まれた……。しかし、そんな馬鹿なことが現実にあるわけはない。あれは幻覚だろう。すると、精力剤には薬物が入れられていたのか?>


 その時、バチンという音とともに、辺りが真昼のように明るくなった。紀彦の真上に照明があるのか、ひどく眩しい。

 何とか薄目を開けて辺りを見回すと、紀彦がいるのは、円筒形をした穴の底らしい。底面は直径1.5mくらい、側面の高さは3mくらいある。底面も側面も金属製のようだ。側面は垂直で、何の取っ掛かりもない。そこを素手と素足で上るのは不可能だろう。

 突然、上のふちに人影が現れた。上半身を乗り出すようにして、中を覗いている。目はまだよく見えないし、逆光になっていて顔は判別できない。

 その人物の腰から下が見えないことから考えると、ここは穴の中ではなく、タンクのような容器の中らしい。

「そこにいるのは、どなたですか? ここから出たいんです。助けてくれませんか?」

 喉が荒れているらしい。紀彦の声はかすれている。

 すると、何らかの操作をしたのか、タンクの上からシャワーのように水が落ちてきた。水温は水道水くらい。いくらここが蒸し暑いとはいえ、水の冷たさに思わず身が縮んだ。

 紀彦はその水を両手で受け、うがいをして吐き出した。喉の痛みは少し楽になった。右手を使って、顔面を洗う。目の周辺を覆っていた粘液がなくなり、目を開けられるようになった。

 痛みが強い左手を見ると、人差し指と中指が、外側に向かって明らかに不自然な曲がり方をしている。やはり、骨折しているのだ。

 体中を覆っていた粘液も、だいぶ流れていった。タンクの底には、グレーチング(格子状の蓋)を施した排水口があり、水はそこに流れ込んで排水されていく。


 記憶が遠のく直前までの出来事が、脳裏にはっきりと蘇ってきた。

「おい! そこにいるのは、緑か若葉なんだろ? 早くここから出してくれ」

「ふふ。お腹の具合はどう? これ以上、くそは出ないかなー?」

 藪から棒にしもがかったことを聞いてくるのは、若葉の声だ。

「その声は、若葉か? 俺の指の骨を折りやがったのは、お前たちだな? これは何の真似だ? さ、早くここから出すんだ」

「さっきは、よくもあたしのお腹を蹴ってくれたわね。許さないから」

「腹を蹴ったって? そんなことした覚えはないぞ」

「あんたが覚えてなくてもさー、蹴ったのは事実だよ。お腹の中からね。あたし、苦しくて死ぬかと思ったよー。ミツバチ・ミッチみたいにね」

「腹の中からだって? たわけたこと言うなよ。お前らは、いったい何者だ? 俺に何をしようというんだ?」

「あたしのお腹の中に入りたいって言ったのは、あんたなんだからね。だから、入れたやったのにぃ」

 そういえば、ニホンカイ……ナントカの標本を観終わった時、そんな冗談を言ったような気もする。

「とにかく、早くここから出せよ。指の骨が折れているらしい。早く病院で治療したいんだ」

「可哀そうにねー。あんたは、二度とここから出られないのー」

「何だと? 拉致、監禁、暴行は犯罪だぞ。こんなことして、ただで済むと思うのか?」

「関係ないよー」

 紀彦は、どうすればこの不条理な状況を切り抜けられるか、頭をフル回転させた。

<状況は、圧倒的に俺に不利だ。あいつらの正体も、あいつらがこんなことをする目的も、皆目分からない。しかし、あいつらが俺に害意を持っていることだけは、間違いない>

「姉さんはね、すぐに処理しちゃいなさいって言うんだけどさぁ。あたし、好きなんだよねー。反抗的な獲物をのがさぁ。あんた、久しぶりの獲物だろ。それに、だいぶ反抗したからねー、じっくりと楽しませてもらうよー」

<こいつ、完全に狂ってる>

「ねえ、若葉。君たち、なにが欲しいんだ? カネか? 言ってみてくれ。望むものをあげるよ」

「決まってるだろ。欲しいのはだよー。もう、捕まえちゃったけどね。もう一度聞くけど、糞は全部出しきった? 『百獣王精』に下剤を入れてあったんだけど、全部出きらないこともあるんだよ。残ってるとねー、味が落ちるんだよなー。腹に残ってる糞は、そこで全部出しちゃいなよー」

<下剤だって? どおりで、何回もトイレに行きたくなったはずだ。ちょくしょー。とにかく、こいつらが何者か、少しでも手掛かりを摑むことだ。そうすれば、助かるための糸口が見つかるかもしれない>

「いや。もう出ない。ひとつ訊きたいんだが、いいか?」

「なーにー?」

「特別展示室にあったグロテスクな標本は、本物なのか? どうして、あんなもの展示してるんだ?」

「ああ、あれねー。姉さんがここにいたら、喜ぶ質問だねー。あれはねー、ほとんどが作り物、つまり、ㇾ・プ・リ・カ。クモ女だとか、ムカデ女とか、本当にいる訳ないじゃん。異世界だって、アニメの中の作り話でしょ? あ。でも、ナメクジやアリは本物だよん」

「いったい、何のために展示してるんだ?」

「あれはねー。あたしたちの獲物の中で、特に思い出に残しておきたい獲物の記念なんだー。人間だって、昔やってたらしいよ。『ハンティング・トロフィー』ていうの?」

<ハンティング・トロフィーって、西洋の金持ちの家なんかに飾ってある、シカやライオンの剥製だな? 首から先の>

「お前たちが狩るものって、何だ? 野生動物か? そうだ、緑ちゃんは狩猟が趣味だったね」

「あたしたちは、動物や虫も狩るよー。でも、メインはね、人間だよ。展示している標本、つまりハンティング・トロフィーもね、色々あるけど、本当はみんな人間なんだ」

「人間? そんな馬鹿な」

「それぞれの標本の前で流した説明は、みんな姉さんが書いたお話だよ。姉さん、小説を書くのが趣味なんだ。中でも、ホラーっていうの? 怖い小説ねー。ネットの小説投稿サイトに投稿してるけど、誰も読んでくれないって、いつも愚痴ってるな。そういうこともあって、特別展示室で流してる。まあ、あたしは、食い気専門で、小説にはあまり興味ないけどねー」

「すると、お前たちは、ここで人を襲って、拉致してるのか?」

「はははは。あたしたちみたいな女が、どうやって襲うのよ。襲うのは、あんたの方でしょ? あたしたちはー、襲うんじゃなくて、待つのよー」

「待つ? 待つって、どういうことだ?」

「ウツボカズラ、見たでしょ? あれと同じ。じっーと待つの。そうするとね、あんたみたいな間抜けがねー、ポトリと捕虫袋に落ちるんだよー。中でも一番引っ掛かりすいのがねー、あんたみたいな助平ジジイだよん」

「そうすると、獲物はみな男なのか?」

「ううん。女もいるよー。なんなら、展示してある標本が、実際はどんな獲物だったか、教えてあげようか?」

「ああ」

「No.1のジョロウグモはねー、実際は若い女だったな。一人でブラリと『うつぼ館』に泊まりにきたんだ。痩せていてあまり脂肪は付いてなさそうだったけど、女の在庫が欲しかったから、獲物にしたんだー」

「風俗嬢だったのか?」

「だからー、物語はみな姉さんの作り話だって言ったでしょ。ごく普通の会社員みたいだったよ。それから、No.2のオオスズメバチはねー、中年の男だった。昆虫マニアだとかで、名前は忘れたけど、珍しいチョウの写真を撮りに来たんだって。『僕』はその男がモデルだよん」

「No.3のサナダムシは、坊さんか?」

「当たり。修行のために、歩いて観音様を巡礼している途中だと言ってた。あの物語にあったような生臭坊主じゃなくて、真面目そうだったな。あんたと同じで、筋肉量が多そうなんで、獲物にした」

「No.4のムカデは?」

「母と娘の二人連れだったな。女はねー、男に比べて脂肪分が多いんだ。姉さんは、甘くてコクがあるからって、女が好き。あたしは筋肉量が多い男の方が好きだけどね。女が二人いっぺんに獲れるから、狙いを付けたんだ。でもね、あの二人はどうも人間とは違うようだった」

「人間じゃない?」

「そう。人間用の消化液では、消化しきれなかった。それから、No.5のコバエは、若い男だった。実際は自衛官じゃないと思う。でも、筋肉質のいい体してたよ。あたし好みのね」

「No.6は何だっけ?」

「ダンゴムシでしょ。でも、これはNo.5と同じ話だよん。それから、No.7のナメクジはねー、中年の男だった。物語の中では横暴な客になってるけど、ごく普通の人だった」

「No.8のアリは?」

「若い女。なんだか生きるのに疲れたような、暗ーい顔してた。だから、獲物にしてあげた。子殺しは、もちろん創作。それからねー、No.9のミツバチは、二十歳前の男の子だった。やっぱり、若い子はフレッシュだからいいねー」

「No.10は?」

「あんただよ。自分で言ってたじゃない。自分はシオヤアブだって。それが、あんたのハンティング・トロフィーだよー。獲物には共通点があるんだけど、分かる?」

「知るかい」

「あのね、みんな一人暮らしで、ふらりと来た人たちばかりなんだ。あの母娘は例外だけどね。でもみんな、失踪しても、誰も気が付かないような人ばかりを選んでるよ。あんただって、うつぼ館に行くなんて、誰にも言ってないんでしょ?」

「さあな。とにかく、ふざけた真似は止めて、早くここから出せよ」

「全然ふざけてなんかいないよー。あ、もう一つ、いいこと教えてあげる。あんたが気に入ってた、ホルマリン漬けの人間のペニス。あれ、本当は輸入品じゃないよ。獲物のペニスの中で、姿形が良くて大きいのを、切り取って標本にしたんだ」

「何だって⁉」

「あれはだいぶ古くなってきたから、取り替えようと思ってる。あんたの、どうかなと思ったんだけどねー。でも、あんたのチンチン、大きさはまずまずだけど、形が良くないよ。左にひん曲がってるでしょ。だから、標本にするのは止めた。切り取られなくて、良かったねー」

<若葉の言うことは、いったいどこまでが本当で、どこまでが嘘なんだか、さっぱり分からない。だが、どっちにしろ、二人とも狂っていることだけは確かだ>

「それで、獲物は、捕まった後どうなるんだ?」

「やっぱり、それが一番知りたいよねー、獲物の身としては。まあ、すぐに分ることだけどねー」



 

 

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