標本No.9 ニホンミツバチ 3
翌日からママは、ミッチの食べ物となる花の蜜を、せっせと集めて運んでくれました。ミッチは蜜をたくさん飲んで、すっかり元気になり、グングン成長していきました。
やがて
「わーい。ハチになった。
「おめでとう。ミッチ。あなたはもう、一人前のヒメバチね」
「あれ? ママが細い体をしてるのに、僕は丸っこい。あまり似てないな」
「それは、ミッチがまだ若いからよ。これから細くなるでしょ」
「そうかー。ママ、外に遊びに行っていい?」
「ダメ。蛹から出てきたばかりで、まだ、体が完全に固まってないからね。それに、外の世界は、危ないことばかりよ」
「はーい」
でも、狭い洞の中にいるのは、とても退屈でした。
数日後、好奇心旺盛なミッチは、ママが留守にしている間に、そっと入り口のドアを開けてみました。
するとどうでしょう。そこには
「ちょっとなら、いいさ」
ミッチは、空中に飛び出しました。うまく翅を使えず、地面に向かって落ちていきましたが、すんでのところで羽ばたいて、空に向かって飛びました。
「ヤッホー」
自由自在に空を飛ぶことが、こんなに素晴らしいなんて。ミッチの心は、青空に向かって
そのうちに、赤い花がたくさん咲いている場所を見つけました。近付いて行って、花の一つに留まりました。蜜のいい匂いがします。ミッチは、教えられもしないのに、上手に花の蜜を吸いました。
「おいしい」
夢中で飲んでいると、1匹の黄色いチョウが同じ花に留まりました。
「こんにちは」
チョウは、丁寧に挨拶します。
「私は、モンキチョウのバタ子です。一緒に蜜を吸っていいですか?」
「どうぞ。僕は、ヒメバチのミッチです。よろしく」
二人は一緒に蜜を吸いながら、おしゃべりします。
「ミッチは、ヒメバチなのですか? ヒメバチは、体が細いと思うんですけど……」
「そうだね。僕のママは細いよ。僕はまだ若いから、丸っこいんだ」
「そうなの。ミッチはどこに住んでるの?」
「向こうの方の、木の洞だよ。ママと二人で住んでるんだ」
ミッチは、家のある方を指差しました。
「二人で? 変ねー」
「何が変なの?」
「ミツバチの巣にはねー、女王バチとたくさんの働きバチがいるのが普通よ。働きバチは全員女の子。女王バチの娘なの。男の子も、たまには生まれるらしいけど」
「そうなの……?」
「でも、そんなこと、どうでもいいんじゃない? お腹いっぱいになった? さあ、一緒に飛びましょ!」
2匹は、手を繋いで空に舞い上がり、木々の間を縫うように飛びまわりました。
「一人で飛ぶより二人で飛ぶ方が、ずっと楽しいね。バタ子ちゃん」
「そうね。綿の花みたいな白い雲が青い空に浮かんでいて、とっても素敵! 吹く風も気持ちいいし」
2匹は段々高度を上げ、やがて森がはるか下に見えるようになりました。
「それじゃぁ、急降下だ。バタ子ちゃん、僕に付いて来られる?」
ミッチは、森に向かって急降下していきました。
「ちょっと待ってー。チョウは、そんなに早く飛べないのよ」
<ふふふ。僕の方が、ずっと速いや>
ミッチは、高い木の梢に留まって、バタ子が来るのを待ちました。
「キャー!」
上の方から、バタ子の叫び声が聞こえました。見上げると、1羽の茶色っぽい鳥が、バタ子を咥えて飛び去っていきます。
「あ! バタ子ちゃんが大変だ! 助けに行かなくちゃ」
ミッチは、鳥の方に向かって飛び立とうとしました。
「おい、止めときな」
誰かに肩を押さえられました。振り向くと、全身が緑色で、逆三角の顔をした虫がいました。
「だって、バタ子ちゃんが……」
「あれはな、モズという恐ろしい鳥だ。お前みたいなチビ助が、
「でも、バタ子ちゃんは、たった一人の友達なんだ」
「へえ、そうかい。俺はな、オオカマキリの
「僕は、ヒメバチのミッチ」
「ヒメバチだって? どう見ても、ミツバチだがな」
「え? バタ子ちゃんにも、ヒメバチらしくないって言われた」
「そんなことより、今から俺がお前の友達になってやるよ」
「そう! ありがとう。じゃあ、向こうに見える池の方に行ってみようよ」
「池だって? 俺はまだ翅がないから飛べないんだ。だから、そんな遠くには行けない」
「そうかー。じゃあ、なにして遊ぶ?」
「そうだなー。
鎌太郎の大きな目にある黒くて小さな点が、ミッチに向けられました。
「いいよー」
鎌太郎は太い枝の上で、ミッチより低い位置にしゃがんで両手を広げました。
「じゃあ、かかって来いよ」
「いくよー」
ミッチは、木の枝の斜面を駆け降りるようにして、鎌太郎の方に向かっていきました。
「そらよっと」
鎌太郎の両方の前足が、ミッチを抑え込みました。
「イテテ。あまり強く押さえないでよ」
「お前はアホか。何も分かっちゃいないな。お前はこれから、俺に食べられるんだぞ。覚悟はいいか?」
「何だって! よくも僕を騙したな」
「今さら気が付いても、もう遅いんだよ。ヒヒヒヒ」
「お前みたいな子供に、食べられてたまるか!」
ミッチは、全身の力を振り絞って、激しく身をくねらせました。まだ狩りに慣れない鎌太郎が怯んだすきに、その鎌から脱することができたのです。
「来られるもんなら来てみろ!」
飛んでしまえば、こっちのもの。鎌太郎は、悔しそうにミッチを睨みつけることしかできません。
「ママの言うとおりだ。外の世界は、怖いことだらけだ。早くお家に帰ろう」
家に近付いた時です。ミッチに声をかける者がいました。
「おーい。そこのハチの坊や」
ミッチが声の方を見ると、生い茂った草の先に、何かいます。
<また、僕を捕まえて、食べようとする悪い虫だな>
通り過ぎようとすると、また声をかけてきます。
「いいから、こっちに来なさい。大事な話があるんじゃ」
迷った末、ミッチはその虫がいる草の上に留まりました。十分、距離を取ってです。
「僕に何の用ですか?」
ミッチは、わざとそっけなく言いました。
「だいぶ怖い目に遭ったようじゃな。わしはトノサマバッタでな、名はお殿様というのじゃ。草を食べて生きておるから、安心しなさい」
「そうですか。さっきから怖い目に遭い通しなので、ちょっと凹んでます」
「初めて外に出たんじゃろ? 無理もない」
「僕のことを知ってるんですか?」
ミッチは、疑い深そうにお殿様を見つめながら言いました。
「ああ。まだ幼虫だったお前が、あの家に運び込まれた時から知っておる」
「そうですか。それで、大事な話って何ですか?」
「いいか、驚くんじゃないぞ」
「はい」
「お前はな、ヒメバチなんかじゃない。ミツバチじゃ」
「やはりそうですか」
「おや。あまり驚かんな」
「はい。色々な虫から、そう言われましたから」
「そうか。じゃがな、驚くのはこれからじゃ」
「はい」
「お前を育てたママは、実はヒメバチじゃ」
「知ってます」
「ヒメバチというのはな、寄生バチの一種なんじゃぞ」
「キセイバチ、ですか?」
「そうじゃ。寄生バチは、他の虫の体に卵を産み付けるのじゃ。卵が
「何ですって! あんなに優しいママが、そんなひどいことをするわけないよ!」
「そう思うのは無理もない。じゃがな。ヒメバチはそうやって、子孫を残すんじゃ。じゃから、家に帰ると、卵を産み付けられてしまう。帰らん方が身のためじゃぞ」
「そんなー。僕、他に帰るところなんてないよ」
ミッチの眼から、涙が溢れてきました。
「いや、そんなことはない。お前はオスのミツバチじゃ。じゃから、もしかすると王子かもしれんのじゃ」
「王子、ですか?」
「そうじゃ。以前、この辺りにあったミツバチの巣が、オオスズメバチに襲われたことがあった。セイヨウミツバチは女王もろとも全滅した。じゃが、ニホンミツバチの女王バチ――確か、カシの木の女王バチといったな――は、辛くも脱出したと聞いておる。どこかに、お前の本当の母がいるはずじゃ。母を探し出して、一緒にミツバチ王国を再興するのじゃ」
「はあ」
<そんなこと急に言われても、僕、困っちゃうな>
「あの、ひとつお尋ねしていいですか?」
「何でも聞くがよい」
「お殿様が僕にそこまで色々と教えてくれるのは、なぜですか? 知らん顔していても、いいのに」
「それには、深ぁい訳があるのじゃ。知りたいか?」
「はい」
「ならば、教えて進ぜよう。お前はな、以前わしが観ていたテレビ・アニメに出てきたミツバチと、よーく似ておるんじゃよ。境遇がな。わしはそのアニメが大好きじゃった。時には、涙を流して観たもんじゃ。だから、他人事とは思えんのじゃ。そのアニメのミツバチは、本当の母を探し続けて、長い旅をしたぞ。そしてついに、母と巡り合ったのじゃ」
「そうだったんですか」
「分かったら、早く行け」
「行く前に、ママに一言挨拶してきます」
「馬鹿者! まだ分かっておらんな。家に戻れば、体に卵を産み付けられてしまうぞ。さっきも言っただろう」
「分かりました。家には立ち寄らず、このまま行きます。お殿様、本当にありがとうございました」
「達者でな。必ず、本当の母を見つけるのだぞ!」
ミッチは、夕暮れの空に向かって飛んでいき、すぐに見えなくなりました。
<ミッチの腹の右側が、膨れておったな。すでに卵が産み付けられているのかもしれん。哀れなヤツじゃ。久しぶりにしゃべったためか、腹が減ったな>
お殿様は、自分が留まっている草を
そこに、ミッチの「ママ」が飛んできました。
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