標本No.4 トビズムカデ 8

 床の上で大の字になっている秀樹の呼吸は早くて浅い。表情は虚ろだ。そのすぐそばに立っているのは、妙子と沙也加だった。

「母さん、大丈夫? 肩が血だらけだよ」

「このくらい、へっちゃらよ」

 秀樹は、自分を見下ろしているのが誰か、気が付いたようだ。

「妙子。お前、死んでいなかったのか。チッ、ムカデみたいに奴だな。お前ら、俺に何しやがった?」

 顎を細かく震わせながら発する秀樹の声は、ひどく弱々しかった。

「え? 分からないのかい? お前はムカデの毒にやられたんだよ」

「ムカデはけたが、誰かに後ろから襲われた。さては妙子、お前だったか」

「沙也加が投げたムカデに気を取られて、後ろがガラ空きになってたねぇ」

「俺に嚙み付いたのは、お前か?」

「今頃気が付いたのかい? ずいぶん間抜けな男だね」

「お前……、いったい何者だ?」

「ねえ、ねえ。こいつの体、真っ赤だよ!」

 沙也加の声が弾んでいる。

「アナフィラキシーだね。鳶頭先生なら、アナフラキシって言うけどね」

「ははは、そうだね」

「お前、化け物だったんだな? 妙子」

「化け物とは失礼ね。そう言うお前は暴君・ティラノサウルスじゃないか。まあ、今は罠に掛かった哀れなドブネズミだけど」

「そういえば……、結婚した夜から、お前には不気味なものを感じてた」

「何よ、出し抜けに。今さら昔のことなんか持ち出して。で、結婚初夜がどうしたって?」

「お前、舌が異様に長いだろ……。色は真っ赤で。人間離れしているから……、おかしいとは思ったんだ」

「その舌でアソコを舐められて、とろけてたのは誰よ」

「母さん! 止めてよ」

「ごめん。こいつが変なこと言うから、つい」

「それに……、お前はいつも隠してたが、尻尾のような妙なものを……、見たこともある」

「そうかい。でも、あたしの体にのめり込んで、どうしても離れられなかったのよねぇ。思えばずいぶん、お前が出したクソ不味まずい白濁液を、飲んでやったもんだ」

「母さんたら!」

 英彦のパンツが濡れてきた。

「あらあら。思い出したら興奮して、暴発しちゃった? いや違う。これ、オシッコじゃないの! お漏らしなんかして、ダメじゃない。こうなっちゃ、エリートも形無しねぇ」

「ウウウ。息が苦しい。頭が痛い」

「しっかりと苦しみを味わいなさいよ。残り時間は、あまり長くないんだからねぇ。それで、大阪の女とあたしと、どっちが良かったんだい? 女を作ってからも、あたしの体をしつこく求めてきたわよね。まあ、それも分かる。なにしろ、あたしの体、30歳の時から変わってないからね」

「大阪の女なんて……、知らない」

「しらばっくれても、無駄よ。女の名刺、見ちゃったんだから。スコーピオン・クイーンの果林かりんちゃんでしょ? 北新地きたしんちだっけねぇ」

「知ら……ない」

「白状しないと、果林ちゃんの身に、何かあるかもねぇ。大阪にも、あたしの仲間がいるよ。特に気が荒い奴がね」

「わ、分かった……。俺が、悪かった。謝るから……、果林には手を出すな」

「はははははは! 引っ掛かったねぇ。大阪の仲間なんて、もちろん嘘だよ」

「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ――」

 秀樹は激しくむせ込んだ。体全体が、細かく痙攣している。

「胸が……、胸が苦しい」

「そうでしょうねぇ。虫の毒は直接体の中に入るからね、効きが早いんだよ。咬まれてから15分くらいで呼吸や心臓が止まるそうよ。あと何分かしらねぇ」

「頼むから……、救急車……、呼んでくれ。ゴホッ、ゴホッ」

「イヤだね。これまで散々あたしを馬鹿にしてきた報いだよ。でも、お前の最期はちゃんと見届けるから、安心しな。葬式もしてやるよ」

「ちくしょう……。お前は鬼婆だ。これは鬼畜の所業だ……」

「へん。何とでも言え。お前だって、あたしを殺そうとしたじゃないか」

「おい、沙也加……、助けてくれよ」

「今さら何を言っても、遅いよ。盗聴してたなら、分かるでしょ?」

「お前……、俺の娘だろ? 実の親を見殺しにして……、平気なのか?」

「実の親? 母さん、あのこと、話してやったら?」

「あ、そうだね。冥途の土産にちょうどいいや。いいかい? よーく聞くんだよ。沙也加はねー、お前の実の娘じゃないよ」

「え? 嘘だ」

「嘘じゃぁない。沙也加は、鳶頭先生から子種こだねをいただいて産んだ子だよ。憎いお前の子なんて、誰が産んでやるもんか」

「お前みたいな……、嘘つきの言葉……、誰が信じるか」

「疑り深い男だね。沙也加、証拠を見せてやったら?」

 すると、沙也加は口を少し開いて、胸まで届く細長くて真っ赤な舌を出した。

「ムムム……ムムム」

 沙也加を見た秀樹は何か言おうとしたが、声にはならなかった。口腔こうくう咽喉頭いんこうとうの粘膜が異常に腫れ上がってきたのだ。すぐに気道が塞がれ、呼吸困難に陥った。

 秀樹は目を半眼にしたまま、動かなくなった。


 しばらくして、沙也加がしゃがんで秀樹の口に耳を近付けてから、手首で脈をとった。

「息してないし、脈もない」

「死んだね。ちょっと危なかったけど、結果オーライだったね」

「母さん、封印していた奥の手を使ってくれたんだね」

「あのままじゃ、沙也加が殺されるところだったからね。でも、もう何10年もやってなかったから、自信はなかった。一か八かよ」

「でも、凄いと思う。毒液、注入できたんだね?」

「思いっきり入れてやった」

 妙子は、手でそっと秀樹の首に触れた。

「少し冷たくなってきた。そろそろ救急車呼ぶ?」

「ええ、そうね。救急車が来るまでに、散らばったムカデをできるだけ回収する。潰されて瀕死のムカデは、『証人』として残しておくけどね」

「そうだね」

「それと、救急隊が来た時、私は会わないよう屋根裏部屋に隠れてる。深夜に帰宅したあいつが、私の部屋で寝ていてムカデに咬まれたことにしよう」

「分かった。じゃあ、119番するよ」


 秀樹は心肺停止状態で救急搬送され、搬送先の病院で死亡が確認された。不審死であるため検死が行われ、所轄署の刑事が現場検証をしに来た。事情を聞かれた妙子は、手筈どおり答えた。また、沙也加の部屋などを検分し、遺留品であるムカデの死骸を持ち帰った。

 刑事は鳶頭皮膚科医院を訪ね、鳶頭医師からも事情を聴いた。

 結局、短期間に2回続けてムカデに咬まれて、アナフィラキシー・ショックを起こした、不慮の死と推定された。

 しかし、不審な点が一つあった。秀樹の項にあるムカデの咬み痕が、通常のムカデのものと違うのだ。最も一般的なトビズムカデの場合、頭部にある一対の顎肢がくし(毒爪)の幅は1cmにも満たない。したがって、咬み痕は二つの赤い点となり、その幅もそれくらいだ。

 ところが、秀樹の項にあった咬み痕の間隔は、5cmもあった。とても普通のムカデの咬み痕とは考えられなかった。しかし、体内から検出された毒成分はヒスタミンを主成分としており、成分構成はトビズムカデの毒と一致した。

 疑問が十分解明されないまま、アナフィラキシー・ショックによる不慮の死であり、事件性はないと結論付けられた。


 秀樹の葬儀が終わってからしばらくして、沙也加が家に戻ってきた。

 不快害虫は、ほとんど出没しなくなった。

「ムシムシ・バスターズの施工が効いているのかしら?」

「いや、私が虫をばら撒かなくなったからだよ」

「虫が出てこないのも、ちょっと寂しいわね。捕まえて食べる楽しみもないし」

「分かった。いろんな虫を放つよ。今日のおやつはゲジゲジね」

「いいわね」

 沙也加がゲジをさっとで、皿に敷いたレタスの上に盛って出した。

「はい、どうぞ」

「まあ、美味しそう。いつも悪いね。湯気が出てる。冷めないうちに、いただきましょ。それにしても、結局あいつが一番たちの悪い害虫だった。それに比べれば、ムカデなんて、可愛いものよね」

「何言ってるの、母さん。ムカデは害虫じゃないよ」

「あ、そうね。モグモグ。ゲジゲジは美味しいけど、口の中に毛みたいな足が残って、コオロギなんかより食べにくいね」

「そうだね。お茶れるから、お茶で流し込んで」

 沙也加が立ちあがった。

 二人とも顔と白目が、トビズムカデの頭のように赤い。

 立ち上がった沙也加のスカートの裾から、何やら長い紐のようなものが2本ぶら下がっている。トビズムカデの尻にある曳航肢えいこうしを何倍も大きくしたような形状だ。

「あれあれ、沙也加。尻尾が出てるわよ」

「いけね。でも、もう、あいつがいないから、大丈夫」


  *


「終わった? いやー、今回も気色悪い話だったな。で、ここに展示されているムカデの抜け殻みたいなものが、話に出てきた沙也加と母親だっていうの? 結局、二人の正体は何だ?」

「そこら辺は、ご想像にお任せします」

「狡いな。ちゃんと説明してくれないと」

「では後ほど、姉に訊いてみて下さい」

「お、そうか。お姉さんて、女将さんの緑さんだよね? バーには来てくれるんだろうね」

「もちろんです。そのために待機してますから」

「分かった! スピードアップして、残りを観ていこう」 

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