第4話 悪魔の囁き
「んーふーふー☆ イイわ、その表情。やっぱりサキュバスが上位じゃなくっちゃ」
少女の瞼が妖しげにたわむと、きめ細やかな肌の表面で、夕陽を受けた舌舐めずりの痕跡がてらてらと海の水面のように光を帯びた。
「(体が、言うことを聞かない……!)」
打ち寄せ、返す波のように詠太郎の頬を撫でてくる指先は、背筋が凍り付くほど優しいものだった。底知れぬ未知の領域に囚われた恐怖心を、憐れむかのように。
「気に入っちゃった。亮太が来るまで、あたしと遊びましょっか」
「遊ぶって、何を……」
「そんなの決まってるでしょう。こうして右からぁ……はぁーっ♡ 左からぁ、ふぅーっ♡ こうやって、あんたの脳味噌をとろとろのぐちゃぐちゃにするの」
少女は詠太郎に覆いかぶさるようにして、左右の耳に吐息をかけてくる。いっぱいに伸ばした舌に乗せた息は艶めかしい水分を多分に孕み、外耳道の中に余すところなく吸着し、染み込んでくる。
「ガマンしなくていいんだよぉ? ほうら、”気持ち良くなっちゃえ☆”」
少女は囁きながら耳輪に甘噛みをし、前歯を引っかけたまま、耳の中に舌を這わせてきた。
「ぐっ、ああっ……」
詠太郎はたまらず体をくの字に折り、背中を震わせて押し寄せる情欲に抗った。
恐怖心に凍てついた背筋が蕩かされるような熱は心地よく、このまま身を委ねてしまいたい衝動に駆られる。しかし詠太郎の脳は辛うじて、先の少女の言葉に警鐘を鳴らしてくれていた。
「(この子はサキュバス。このままだと、吸い尽くされる!)」
創作物における代表的な淫魔・サキュバス。男を色香で惑わし、餌である『精気』を奪う悪魔だ。二次元的にはしばしば『精気』を、文字通り男の『精』として描かれることが多い。
負けて、たまるか……っ!
「へえ、まだそんな目ができるんだぁ。さっすがオトコノコだ。根性あるじゃん」
「それはどうも、ありがとう……」
「こちらこそありがと~!」
指の先を合わせてしなをつくり、無垢な笑顔を見せた少女に、詠太郎は虚を突かれた。
「あたしぃ、あんたみたいな反抗的な目をした童貞をわからせるのが大好きなの☆」
にたぁと歪んだ狂気の笑みに、詠太郎の背筋が再び凍り付いた。奥歯がカチカチと音を立てる。全身がわなわなと震え、呼吸は浅く早くなる。
まるで、こんなにも震えているのだと、アピールをするように。早く彼女に慰撫してもらいたいと、懇願するように。
「――戻って来ねえと思ったら、やっぱ喰おうとしてやがったな、ヒプノ」
「むう、邪魔しないでよマスター。イイトコロだったのにぃ」
ヒプノと呼ばれた少女が唇を尖らせると、詠太郎は謎の力による拘束から解放され、前のめりに床へ倒れた。
「まずはオレの言うことを聞かせるって計画だったろうが。そうしたら後は好きにしていいからよ」
教室に入って来たのは、制服を着崩した男子生徒。彼の顔には見覚えがあった。学科は違うが、同じ学年。何度か合同授業でも見かけたことがある。粗野な言動が目立ち、周囲からやや距離を置かれているタイプの人物だった。
「君……黒崎くん、だよね?」
「チッ、ンの名前で呼ぶんじゃねえよ」
黒崎は前髪を乱暴に掻き上げ、こちらを見下すようにして睨んでくる。
「オレは
「ペンネームは……ないよ。本名のまま、日月詠太郎」
詠太郎が答えるや否や、黒崎はぶっ、と頬を膨らませて笑いを堪えていた。
「はあ? ペンネームを付けてねえとかマジかよ!? ギャハハハ! まさかテメエ、名前を考えるセンスゼロのクチかぁ?」
ひとしきり腹を抱えてから、黒崎は「まぁいいや」と吐き捨てて言った。
「テメエがクソゴミセンスの底辺作家だとしても、あのヒロインがクソ美人ってことには変わらねえしな。陰キャチー牛の妄想様様だぜ」
床に靴底を擦るようにして迫って来た黒崎は、ヒプノと入れ替わるようにして詠太郎の前に立つと、襟首を掴んで体を起こし、ガンをくれる。
「オレは話し合いに来たんだよ日月センセ」
「話し合い……?」
そのような雰囲気など微塵もない。詠太郎はどうにか逃れようと足腰に力を入れたが、ヒプノの「”抗うな”」という一言で封殺されてしまった。
「逃げんなよ。テメエにも美味しい話なんだからよ」
「悪い想像しか浮かばないんだけど……?」
「まあそう言うなって。オレと組もうぜ、日月センセ」
黒崎は底意地の悪い目をして襟首から手を放すと、今度は馴れ馴れしく肩に手を回してきた。
「オレのヒロイン・ヒプノの能力は『催眠音声』だ。力を込めて声を聞かせれば、今のテメエのように従わせられる。この力を使えばオレは、学校中の上玉女子を従わせて食べ放題ってワケだ。学校だけじゃねえ、町中――いや世界中の女をオレのモノにできるんだよ」
詠太郎は耳を疑った。とうてい受け入れられない邪な野望だった。
確かに物語において、自己投影をして嬉しい設定は重要である。『こうだったらカッコいいな』『ああだったら楽しいだろうな』という感情移入によって得られる欲求は、特にライトノベルにおいて、ヒロインとの過激な妄想への余地を求められることが多い。
こんなヒロインと、こんな風に。あのヒロインと、あんな風に。
「想像してみろよ、多くの作家と組んで他のヒロインたちをボコれば、現実離れした美少女たちも好き放題できるんだぜ?」
「他のヒロインたち……?」
「ああそうさ。テメエだってさ、馬鹿正直に戦って勝ち残れると思ってる訳じゃねえだろ?」
「ちょ、ちょっと待って!」
いきなり当たり前のように流し込まれた情報に、詠太郎の頭はこんがらがっていた。
「他のヒロイン? 勝ち残る? どういうこと……?」
「どういうって、『ヒロイアゲーム』に決まってんだろ」
「ヒロイアゲーム……?」
「は? え? マジで知らねえのお前。ヒロインが現れる前に、創作の神ってヤツから説明があったろうが」
苛立ちの滲んだ黒崎の言葉に、詠太郎はエルとの出会いを思い返した。目が覚めたら彼女が傍にいた。そしてその前は――
――――作家になりたいか。
――命を賭す覚悟はあるか。
――ならばチャンスを与えよう。日月詠太郎。
「(あ、アレのこと!?)」
詠太郎は唖然と口を開き、目を白黒させた。
てっきり夢のことだとばかり思っていた。自分の無念と未練が見せた『そんな風に作家になれたら』という
「ヒロイアゲームは、オレたち作家が生み出したヒロイン同士をリアルに戦わせるバトルロイヤルだろうが」
「ヒロインを、リアルで……」
「最期の一組に残ったら書籍化なんて言われたけどよ、フツーに考えて無理だろ。だからオレは、ハナから勝負を捨てて、ヒプノの力で甘い汁を啜ることを閃いた。どうだ、乗るよな? 童貞卒業どころか、普通の女相手じゃ出来ねえことさせてやるからよ!」
へたりこんだまま後ずさる詠太郎を、怪しい勧誘のような不気味な笑みを張り付かせた黒崎がじりじりと追って来る。
詠太郎は荒い呼吸を続けたせいで張り付く喉に生唾を通し、無理矢理に声を振り絞った。
「い、嫌だ……!」
「あン?」
「僕は、悪いことをするためにヒロインの力を使うなんてこと、できないよ。ヒプノちゃんだってそれでいいの? 自分の力がそんな風に使われること、納得してるの?」
詠太郎は視線で縋りついた。しかし、当のヒプノは訊かれている意味が理解できないといった風に首を傾げている。
「あたしは、作家の方をつまみ食いできれば別にオッケ~だし?」
「そんな……」
「おいテメエ。クソ陰キャの分際で断るとかいい度胸してんな」
「ひっ……」
高圧的に指の骨を鳴らして見せる黒崎に、詠太郎は小さく悲鳴を上げた。
「まあいいや。じゃあ先ずはテメエをボコって、あのヒロイン――リュミエルだっけ? あいつを喰わせてもらうわ」
「な――」
「ヒプノ。ヤっちまえ」
「やたーっ!」
手を叩いてぴょんぴょんとジャンプしたヒプノがスカートを翻すと、その真の姿が現れた。素肌の上にラインを引いただけのような際どく蠱惑的な淫魔の手には、大きな鎌が握られている。
「それじゃあ、いただきまーっす☆」
「(まずい、殺される……っ!?)」
詠太郎は逃げ出そうと試みたが、しかし、今日一日で蓄積された疲労のせいか、踏ん張った拍子にふくらはぎの筋肉が攣ってしまう。
「あっ、ぐぅ……!」
「くすくす、”逃げちゃダ~メ”。大丈夫だよぉ、ちくっとするだけだよぉ。手足を切り落としてぇ、ぴゅっぴゅすることしか考えられない搾精人形になるだけだから♡」
足を押さえて蹲る詠太郎の頭上で、鎌が振り上げられた。
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