第3話 見覚えのない少女
スプーンで小さなカレーを作って頬張ったエルが、きらきらと目を輝かせた。
「何これ美味しい! バザランカの煮込みみたいだけど、こっちの方がずっとまろやかで、柔らかな辛さ!」
「まさかの食レポ力……」
作中の料理である魔物肉のシチューの名前が出たことに冷や冷やしながらも、詠太郎はエルの一挙手一投足から目を離せないでいた。
「お兄の視線がキモい」
照栖の半眼にハッと我に返り、詠太郎は自分のカレーに取り掛かった。大好物であるはずなのに、昂った熱に浮かされたせいか、味がよく解らない。
ましてエルは今、詠太郎のシャツと短パンを着用している。そこまで小柄に設定したつもりはなかったが、そこはやはり女の子といったところだろうか。ガタイが良いわけでもないシャツでもぶかっとしており、滑らかな鎖骨が今にもはだけそうになっている。
そんなことは気に留めていないのか、るんるんと次の小さなカレーを作っているエルに「お代わりもあるからね」と微笑みながら、母が席に着く。
「リュミエルちゃんの服も用意しなきゃね。照栖のじゃあ入らないだろうし……」
「うっさいなあ。学年が二つも上なんだから仕方ないじゃん。あたしが小さいわけじゃないんですぅ」
「はいはい」
あっさりと横に流され、照栖はあごをしゃくれさせて遺憾の意を示す。
一方の詠太郎は、母もエルの存在を受け入れていることに、スプーンを咥えたまま唸っていた。
「ねえ母さん、エルはどうしてうちに来たんだっけ?」
「どうしてって、ホームステイじゃない」
「ホームステイ?」
「何よ、昨日といい、あんた本当に変よ?」
「いや、昨日のことは……その」
詠太郎は胸がズキリと痛むのを誤魔化すように目を逸らした。
自分の腕が未熟であると、業界のプロから突きつけられた落選通知。どういう理由かエルが目の前に現れてくれてはいるが、その根っこの部分の本懐は1パーセントも叶っちゃいない。
エルの活躍する物語を、世に届けるという夢は――。
「ちゃんと案内してあげなさいね」
「えっ? ああ、うん……?」
考えに集中していて母の話をちゃんと聞いていなかった詠太郎は、曖昧に頷いた。
いつものように先に出てしまった照栖から少し間を空けて、詠太郎も家を出る。
しかし数十分後、再び詠太郎はぽかんと口を開くことになる。
「転校生を紹介します。ホームステイで日本に来ていて、うちに通うことになりました。どうぞ、入って!」
担任が廊下に向けて声をかけると、カラカラと静かな音を立てて開かれた扉から、見覚えのある赤い髪が現れた。
その瞬間、教室内の空気が張り詰めた。立ち上がって椅子に足をかけ、囃し立てる用意をしていたお調子者の男子でさえも、息を呑んで着席する始末だ。
それほどまでに、風格が違っていた。『虹剣の姫騎士』『天衣の継承者』と呼ばれ畏れられていた高貴なる少女が、ブレザーに身を包んで凛と歩を進める。
「皆様、お初にお目にかかります。リュミエル・エスポワールと申します」
彼女が見せた微笑みに、女子の誰かがため息を漏らした。
一人一人の視線を見つめ返していたエルの瞳が、やがて詠太郎を捉える。
「あっ、エイタロー!」
年相応の表情に戻ってぶんぶんと手を振る彼女に、教室内の張り詰めた空気が解けた。
「良かった。お母様から聞いてはいたんだけど、やっぱりちゃんと顔を見るまでは安心できなかったや」
解けただけならいい。しかし、転校生登場の盛り上がりを封殺され、鬱屈したままの高校生男子のエネルギーは行き場を失くし、膨れ上がった殺意となって一斉に振り返ってきた。
「「「「おい日月ィ……?」」」」
「え、えっと……」
とてつもない嫌な予感に、詠太郎は椅子を引き、腰を浮かせる。
「どういうことか説明しろコラァ!!」
「何ちゃっかり抜け駆けしてんだよテメエ!!」
「『お母様』ってどういうことだ、両親公認かオルルァン!?」
「う、うちがホームステイ先みたいでね!?」
「ちょっと、まだHR中なんだけど!」
担任の制止の声がかかるが、こちとら生死のかかった状況。生ける屍のように襲い来るクラスメイトたちから逃れるように、詠太郎は脱兎のごとく教室を飛び出した。
結局一日中、隙さえあれば追い回されるという事態に見舞われ、就業のチャイムが鳴った頃には、詠太郎の足はパンパンになっていた。
「お疲れ様、エイタロー」
「なんだろう……その言葉、本来は僕が言うべきな気がする」
よろよろと席を立ちながら、詠太郎は乾いた笑みを浮かべた。今日で学んだことは、エルが近くにいる時は、クラスメイトたちから襲われないということ。さしもの彼らも、彼女の御前では暴れられないらしい。……もっとも、嫉妬と憎悪の籠った視線は痛いけれど。
「エルもお疲れ様。初めての日本の高校はどうだった?」
「基本的にはプレヌリューヌと同じだったかな。英語とかはよく解らなかったけれど」
「ああそうか、そっちの学校って、僕がそう設定したんだもんね」
「あ、でも歴史は面白かったよ! サムライ! センゴクブショー!」
「(今日の歴史の授業は明治時代だったと思うんだけど……)」
どこでどう憶えてきたのか、エルは刀でバッサバッサと敵を斬るようなポーズをとる。戦国に続いて江戸の時代劇までもが混ざった。
そこへ教室の入り口から顔を覗かせた担任が声をかけてくる。
「リュミエルさん。いくつか渡さなきゃいけない資料があるから、職員室まで来てもらえる?」
「かしこまりました、先生」
そう返事をしてから、エルは思い出したように振り返り、心配そうな顔で詠太郎を見る。
「一人になったら大丈夫? また追いかけられない?」
「僕も行こうか?」
「エイタロー、足きついでしょ?」
「……ごめん、ありがとう。ここで待ってるから、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ふにゃらと歯を見せる笑顔と小敬礼を残し、エルは担任を追って教室を出た。
帰宅部にしろ運動部にしろ、終業後の校内に残りたがる生徒はほとんどいない。あっという間に人気がなくなり、詠太郎は教室に取り残された。
転入に際した資料を貰うだけとはいえ、簡単な説明はあるだろうから、しばらくは待ちぼうけになるだろう。
詠太郎は張ったふくらはぎを揉んでから、夕日の中で背伸びをした。
「――ふうん、あんたがホームステイの子のマスターなんだぁ」
「うん?」
ころころと喉を鳴らしたような可憐な声に、詠太郎は伸びをしたままの姿勢で首を向ける。
小柄な少女だった。可愛らしい桃色の髪は、頭の両側で結ばれたサイドツインの毛先だけ色が変わるように染められている。
見たことのない人物に、詠太郎は眉を顰めた。『趣味は人間観察です』なんて斜に構えるつもりはないけれど、周囲はよく見るようにしていた。名前や所属している部活までは知らなくとも、顔を見れば在校生かどうかは判別がつく自信がある。
だからこそ詠太郎は、制服を着ているのに見覚えのない生徒がいることに戸惑った。
それもまるで、エルのように見目麗しい――
「まさか、君は!」
「”動いちゃ、めっ☆”」
「――っ!?」
立ち上がって身構えようとしたところで、脳内に直接響くような声が耳を犯してきたかと思うと、詠太郎は動けなくなっていた。
「ふふっ、変なかっこ。ざぁこ、ざぁこ☆」
「なっ……これは……」
「あたしたち『ヒロイン』は、ただでさえそこらへんの
「一体、何を言って……?」
「”跪いちゃえ☆”」
「あ――なっ?」
何か強い力に引っ張られるように、自分の意思に反して肘を突く。
足掻こうと顔を上げた詠太郎の前に、少女は舌舐めずりをしながら迫ってきて、細く冷たい指先でこちらのあごをクイッと持ち上げ、口の端を吊り上げた。
「あんた、『作家』でしょ? ”命が惜しかったら、あたしの言う通りにしなさい”」
耳に反響する抗えない甘い声に、詠太郎は頷くことさえできなかった。
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