第2話 迫る足音
詠太郎の悲鳴にも似た驚愕の声は、部屋の外でドアが叩き開けられる音でびくっと縮こまった。次いで迫って来る怒れる足音に、詠太郎はどっと冷や汗が噴き出すのを感じた。
音の正体は照栖だろう。高校生になってからというもの何かある度に突っかかってくるようになった彼女だが、今回ばかりは自分の不手際。
何より――
「これは見られたら拙い! ちょっと隠れてて!」
「隠れるってどこに――わわっ!?」
きょとんと小首を傾げるエルの頭に掛け布団を被せ、押し込むようにして寝かせる。我ながらとんでもない行為をしているという考えに行き着くほど、今の詠太郎に余裕はなかった。
ベッドの盛り上がりが見えないよう、サイドプランクのような体勢でガードする。
部屋のドアが乱暴にノックされた後で、ノブが回った。そこで詠太郎は鍵をかければ良かったことに気が付いたが、もはや後の祭りだ。
ドアを開けた照栖が、ギロリと剥いた目で詠太郎を睥睨してくる。
「ちょっとお兄。朝からうるさいんだけど」
「ご、ごめん! 筋トレしてたらお腹が吊りそうになって、ちょっと……!」
「筋トレぇ?」
何を似合わないことしてるんだよクソ陰キャがといわんばかりの半眼をした照栖だったが、すぐにその切れ長の目尻を愉快そうに歪ませて鼻を鳴らした。
「ぷっ。リュミエルさんが来たからって、今さら気合入れても遅いのに」
「えっ……リュミエル、さん? 何でそのことを……」
「まあ、せいぜい頑張れば。ところで、そのリュミエールさんどこか知らない? 昨夜はお祖母ちゃんの部屋で寝たはずなんだけど、いなくてさ」
「ええっと……下じゃないかな?」
「うぃー、探して見るわー」
さも当たり前のようにそう言うと、照栖は部屋を後にした。階段を降りる足音に、詠太郎は安心していいやら戸惑っていいやらで目を白黒とさせる。
「(『リュミエルさんが来た』? どういうことなんだ……)」
エル――リュミエル・エスポワールは架空の人物。今朝現れたばかりだというのに、まるで既に現実を生きている人間であるかのように照栖は認識している。
不意に、背後からもがもがと訴えるうめき声がして、詠太郎は慌ててベッドから下りた。
「あ、ごめんっ!」
「ぷはーっ! あはは、エイタローから押し倒された!」
「人聞きの悪い事言わないで!?」
上体を起こして無邪気に背伸びをするエルに、詠太郎はおろおろと立ち惑う。
夢にまで見た笑顔がそこにあった。吹いた風に麦わら帽子を押さえて目を細くする、夏の令嬢のような気品がありながら、近所の悪童たちを追いかけ回す良き姉貴分のようでもある。
「ええと、君は……エル、なんだよね?」
「わお、早速その呼ばれ方をするなんてね。さてはエイタロー、女たらしってやつ?」
「あっ、いや、そういうつもりじゃ!」
慌てて首を振ると、エルは赤髪をくすくすと揺らした。
「大丈夫。わかってるよ。エイタローは私の生みの親なんだもんね」
「えっ……?」
「困った顔をされても、困っちゃうなあ。私はリュミエル・エスポワールで、エイタローが書いた小説の登場人物。合ってるよね?」
詠太郎はおそるおそる頷く。挙げられた事実は間違っていないのだが、状況の方がさっぱり呑み込めないでいた。
「……夢?」
「違うよ。や、合ってるのかな?」
自分でもわっかんないやと照れたように舌を出して、エルが手を握ってくれた。
「ほら、ちゃんと触れる。つねってみる? ほっぺた」
「い、いや、いいよ!」
伸びてきた指先から、詠太郎は逃げ出した。頬がぱんぱんに熱を持っていて、それがまた、恥ずかしさに拍車をかける。
「んふふ、かーわいー」
彼女がころころと笑う度、揺れた髪からオレンジの香りがした。
心臓の早鐘が二割ほど落ち着いてきた辺りで、これ以上はにわかに下がりそうにないことを悟った詠太郎は、観念してベッドの上に座り、居住まいを正した。
「いくつか訊いてもいいかな」
「はい。どうぞ」
エルも同じように、背筋をしゃんとしてくれる。
「君は一体、いつからここに?」
「ついさっきだよ。意識がはっきりしたら、目の前にエイタローがいたの」
彼女は嘘を言っているようには思えなかった。だが、今は亡き祖母の部屋に泊まったという照栖の話とは食い違う。
疑問を抱えたまま、詠太郎は次の質問をぶつけてみる。
「君は僕のことを知っているみたいだけれど、君自身のことはどこまで知っているの?」
「うーん……エイタローが知っている通りだと思うよ、多分。プレヌリューヌで生まれ育ったこととか、クラージュや『
彼女の口から語られる、作中の主人公や所属する騎士団、対峙した敵の名前は、詠太郎が応募用原稿に書いたことと一致していた。
「それからは、気が付いたらここにいたの。エイタローの顔を見たら、私たちの住む世界が小説で、それを作ったのがエイタローだっていうことがね、何て言ったらいいんだろ……まるで初等訓練校で習っているみたいな感じで記憶にあって。あ、これだ! って」
いい喩えを思いついたといわんばかりに、エルは頭をぴょこぴょこと跳ねさせた。
「ここがどこかはわかる?」
「それもなんとなく。ここはニホンという国の、エイタローの家。さっきの子は、エイタローの妹さんの、照栖さんだよね」
確認をするように窺ってくる瞳に、詠太郎は頷く。何がどうなっているのかは解らないけれど、エルが確かに存在することだけはどうにか飲み込んだ。
戸惑いを溜め息に乗せて吐き出し、新しい空気を吸い込んだたところで、階下から漂ってくる温め直したカレーの匂いに気が付いた。そういえば、昨夜は何も食べていなかったっけ。
そんなことを思い出してしまった途端に、ぐうーっと、腹の虫が二つ鳴った。
一つは詠太郎自身のもの。もう一つの音源を辿れば、お腹に手を当てたまま気まずそうな半笑いを浮かべるエルが、すいっと視線を逸らした。
照栖に認識があるのなら、この朝食もエルの分があるはず。
「とりあえず……朝ごはん、食べる?」
そう提案すると、エルの赤い髪が笑顔とともにぱっと弾けた。
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