ヒロイアゲーム
雨愁軒経
第一部『希望覚醒‐ヒロインズ・ライジング‐』編
第1話 目覚め
開け慣れたはずの自宅のドアが、ひどく重く感じた。
肩に圧し掛かったものからは解放され、膨らんだ胸は割れ、明日を見据えて上げた顔も伏せ、希望に掲げた拳も下ろし、もう、体は軽いはずなのに。
脚を持ち上げる気力さえ湧かず、ずるずると引きずるように歩く。どこかで穴が開いたらしい靴下の隙間から、フローリングの無機質な冷たさがせっついてくる。今の詠太郎にとって、それは針の筵と同等の不快感だった。
「お帰り、遅かったじゃない――って、どうしたの詠太郎。ひどい顔だけど」
リビングをそそくさと抜けようとしたところを、キッチンから顔を出した母に見咎められた。
そこではじめて、カレーの匂いに気が付いた。我が家の味。慣れ親しみすぎて、外食のものが食べられなくなったほどの大好物である。
しかし今は、鼻水で詰まった鼻腔に異物をねじ込まれるようで、思わず顔を背ける。
不意に、妹・
「マジで鬱陶しいからさっさと部屋に行ってよ。せっかくのカレーの匂いが陰気臭くなるじゃん」
ソファに寝ころんでファッション誌を眺めながら、こちらへは一瞥もくれずに吐き捨ててくる。幸太郎が曖昧に「そうだね、ごめん」と呻くように返事をすると、照栖は少し驚いた風に目を見開き、テーブルの上のクッキーをまさぐる手を止めた。
「ちょ、ちょっと……マジどしたん、お兄」
照栖の怪訝な声に答える気力もなく、詠太郎は自室へ向かおうと踵を返した。
階段へ差し掛かろうとした時、また母から声をかけられる。
「具合悪いなら薬持ってこうか?」
「ううん、体調は平気。ありがとう」
「……そう。学校で辛いことがあったのなら、いつでも話聞くからね?」
「大丈夫、イジメとかじゃないから」
早口で打ち切って、階段を駆け上がる。しかし、踊り場まで辿り着いたところですぐにガス欠が起きた。またのろのろと、自分の部屋を目指して体を引きずる。
イジメとどっちがマシだろうという考えが浮かんだ。頬ににたりと涌いて出た渇いた笑みに気付いて、慌てて頭を振る。そんな意味もない比較をしたところで、まるで存在を拒絶されたような痛みは減りやしないというのに。
鉄扉のように感じる自室のドアをこじ開け、半開きのヘリに肩をぶつけながら部屋に入る。通学カバンを肩からずり落とし、机の引き出しに手をかける。
中に納められた百数十枚の紙束を、詠太郎は丁寧に取り上げた。
百数十枚の紙束。びっしりと規則正しく並んだ黒い文字と、いくつも引かれた赤のライン。そこから伸びる線の先は、余白を埋め尽くすように赤文字で支配されている。
『月光のアルミュール』――詠太郎が書いたライトノベルの原稿だ。
人々が月に移住した未来の世界。しかし待っていたのは科学の発展した夢の都市ではなく、月という大いなる星の力による『
月の使途が率いる竜や異形が襲い来る中、人もまた、月の力を得て立ち向かっていく。しかし、やがて人々の間でも、月の使途に認めてもらうべく戦う騎士と、月の力で私欲を満たす反乱分子との争いが起きるようになる。
両親を反乱分子に殺された主人公と、王族の立場に甘んじることを嫌い身分を隠して戦うヒロインが騎士団に入り、生きる場所を掴むため奮闘する物語。
一枚、また一枚と捲るたびに、目から涙がまた零れた。妹から陰気臭いと言われた青ざめた顔がしわくちゃになり、ぐちゃぐちゃになっていく。
震える手でポケットからスマホを取り出した。数十分前に見てから開きっぱなしの画面に映し出されているのは、詠太郎が送った新人賞の選考結果。そこには、自分の氏名で検索をかけ、結果がゼロであることが表示された痕跡が残っている。
何かの誤植があってくれないかと、苗字と名前を個別に検索もしてみた。タイトルだって、いくつかに分けてみた。
非情にも結果は変わらず、
「ごめん……エル、ごめん!」
垂れた鼻水が口に入るままに叫び、詠太郎は崩れ落ちた。
「君は魅力的だった! 必死で立ち向かい、生きていた! なのに、僕は……っ! 僕は、君の魅力を書ききれなかった!」
許してくれ、許してくれ。原稿を胸に抱えて懺悔しながら、這うようにベッドへ潜り込み、頭まで布団を被って体を丸めこむ。
「また次頑張るから。必ず、君をデビューさせるから」
そう声を振り絞って、幸太郎は目を閉じた。
着替える余裕も、遠くに聴こえる母親の夕飯を告げる声に返事を返す余裕もない。
全身が粉々にすりおろされるような痛みに、ただ沈んでいった。
まどろみの中で、詠太郎は声を聴いた。
――作家になりたいか。
ああ、なりたい。なるんだ。僕は必ず成し遂げる。
――命を賭す覚悟はあるか。
当然だ。棘の道を歩む覚悟は出来ている。
――ならばチャンスを与えよう。
「――タロー」
誰かに呼ばれている。睫毛をくすぐる吐息に、詠太郎は意識をもたげた。
「――タロー?」
女性の声だ。毅然としていて、それでいて人懐っこいような、温かい声。
布団から背中に跳ね返る自身の体温とは別種の甘い温もりが、体の前面で滞留している。それが詠太郎自身の熱と混ざり合って、するりと心に馴染んでいく。
違和感であるはずなのに、どこか慣れ親しんだようにも感じる。
よく眠れそうな安らぎの香りに、詠太郎は体の力を抜こうとして、
「おーい、エーイーターロー」
「――っ!?」
飛び上がった。
「あ、起きた」
目の前で向かい合うように寝そべっていたのは、美しい少女だった。
鳳が休めた羽のようにさらさらと流れる、長くしなやかな赤い髪。好奇心のアンテナを取り付けたようにくりっと大きく丸い目と、長い睫毛の間から覗く蒼玉の如き瞳。椿の花弁を押し花にしたような瑞々しい薄紅の唇。
朝の陽射しの中、そのすべてが眩しかった。
戦う時の鎧姿とは対照的に艶やかな絹のネグリジェ姿の彼女の顔は、詠太郎の初めて見るものだった。
けれど、彼女が誰であるのかは、本能的に理解した。
この世界の誰よりも――否、この世界で自分だけが、彼女について知っている。
「おはよ、エイタロー」
リュミエル・エスポワール。開拓騎士団『
夢にまで見た彼女が、息のかかる距離にいる。
「ええええええ――――――っ!?」
詠太郎は半狂乱で叫び、ベッドから転げ落ちた。
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