第18話 焚書
剱丞と都牟羽を家に招き入れ、詠太郎は震える手でテーブルを拭いた。持ち上げた図鑑を一瞥して、剱丞が感心したように眉を上げる。
「ほう、勤勉だ。執筆の資料かな?」
「あ、いえ。それはエルが借りてきたもので……」
「それも善い心がけだ。作家のみならず、ヒロインの成長も必要だからな」
「はあ……どうも」
真っ直ぐな賞賛の眼差しを向けられて肩をすぼませたエルが、曖昧に返事をする。
剱丞からは掴みどころのない印象を受けた。口でもそう言っていたし、今の態度も柔和である。ヒロインの都牟羽も背筋良く椅子に腰かけている。本当に警戒はしなくてもいいのだろうか。
「どうぞ。今、こんなものしかありませんが」
コーヒーを注いで二人に差し出した。
「ありがたく。水出しの珈琲とは乙だ。執筆の供に?」
「執筆の時にも飲みますし、風呂上りとかにも……全般に」
答えると、剱丞は「カフェイン中毒には気を付け給えよ」と苦笑しながら、椅子の背もたれにかけていた外套のポケットをまさぐった。
「来る道すがら封を切ったもので申し訳ないが、茶請けは俺から差し入れよう」
テーブルの上に差し出されたのは、二つの袋。細長い板状の菓子のようだ。
「これは……?」
「おしどりミルクケーキ。粉ミルクの製造過程で発生した副産物を加工した山形銘菓だ。乳たんぱくとカルシウムが豊富で、歯ごたえもあるから頭も回る。ミルクとチョコ、一枚ずつ取ってくれ」
「久遠寺さんは、山形の方なんですか?」
「剱丞で構わない。俺は都心生まれなんだが……交流のあった同業にそっちの人間がいてね。向こうに訪れた時に出会って以来、俺の常用食となった」
早速一枚パキッと噛んだ剱丞に、都牟羽が鋭く嘆息する。
「常用というレベルではありません、中毒です。糖尿になっても知りませんからね」
「その辺は他の食事で管理しているさ。今日だって、まだ三袋しか食べてない」
「三袋『も』です。三枚ならまだしも、菓子は袋を単位にするものではありません」
「そうカリカリするのはカルシウム不足だよ」
ほら、と剱丞は包みを剥いた一本を都牟羽のすぼませた口へ挿した。不服そうな視線を返す彼女だったが、食べ物は粗末にできないのだろう、両手を添えて黙々と齧り始める。
促されて、詠太郎もいただくことにした。瓦煎餅以上ではないかという硬さに戸惑いながらも、ボリボリと噛む。
剱丞はコーヒーで舌を潤して、静かに一呼吸を置いてから口を開いた。
「さて、本題に入ろうか。詠太郎くんといったね。君は、文豪と呼ばれる作家たちをどれ程知っているかな?」
「知っているというほど詳しくはないんですけど……有名な作家とか、代表的な一節とかなら」
「そう、それだ。有名な作家たち」
剱丞がこちらに向けて指を立てる。
「現代においても愛される、歴史的な大作家。名前なんかを検索すれば、現代の有名人を遥かに凌ぐ膨大な情報量で以て語り継がれる。画家や音楽家なども然り、歴史に刻まれたクリエイターたちは、みな偉人として扱われる」
「ええと、話が見えてこないんですが」
「ここからさ。では詠太郎くんに問おう。彼ら偉人と呼ばれる者以外に、知っている旧時代のクリエイターはいるかな?」
「えっ……?」
にわかに答えられず、詠太郎は瞬きを止めて唸った。
誰かマイナーな作家や芸術家がいないかと、記憶を掘り起こす。けれどそれらも、知った経緯は『知る人ぞ知る』だとか『誰々の裏に埋もれた』だとかいう見出しで、結局は偉人として扱われている記事や動画などからだ。
「誰でもいい。町の図書館の片隅にひっそりと蔵書されている名もなき作家。近所の誰かの先祖が手慰みにしたためたものが残っていたとか、歴史的建造物に現代人以前の誰かが落書きしたものでもいい。平安時代の日記が残っているんだ、戦後の原稿用紙くらい見つかっても不思議じゃないだろう?」
「いえ……そういう心当たりは、全く」
「そういうことなんだよ。俺たちは、『歴史的な偉人』以外のクリエイターを知らない。いや、知ることができないと言った方が正しいか」
剱丞は二枚目のミルクケーキを乱暴に噛み砕いて、まるで煙草の煙でも吐き出すように、宙にほうっとため息を投げた。
「神によって『焚書』に処され、歴史から抹消されたのだから」
「歴史から、抹消……」
「ああ。君はこのヒロイアゲームで勝ち残ることで、プロの作家となる権利を得られることは聞いているな?」
「はい。実は、その……お告げを聞いたのが夢の中で、はっきりと覚えてはいないんですけど。初めて戦った相手から、そう教えてもらいました」
詠太郎が白状すると、剱丞がわずかに目を丸くした。それから少し思案するようにあごに手を当てて黙り込んだが、彼はすぐに「まあいい」と打ち切り、視線を上げた。
「では、ヒロイアゲームに敗北した者はどうなると思う?」
「どうなるって……もしかして、それが『焚書』? いや、でも黒崎くんは今日も……」
これまで戦ってきた作家たちを思い返す。遠野と透兵衛は定かではないが、少なくとも黒崎は今日も学校で見かけた。特に異常はなかったように思う。
「今すぐにどうこうされるわけじゃない。大いなる力が働くのは、ヒロイアゲームが終わった後。敗北した作家たちは小説を書けなくなるんだ。書こうとさえ思わなくなる。そうして宙ぶらりんになった作品は、水が岩を削るように、時間をかけて消えていく」
「そんな……でも、そんな話聞いたことも」
「ないだろう。これだけ大規模のバトルロイヤルなのに、遠い土地での戦いの目撃情報やニュースが一切流れてこないのだから」
ハッとした。グラスに指をかけ損ねて倒しそうになるのを、エルが止めてくれる。
テレビをよく見るわけではないが、現代ならネットニュースやSNSに流れてきてもおかしくない。まして自分たちの初戦のように破壊が伴えば、警察が出動することもある。規模が大きくなれば災害レベルであるはずだ。
「(僕自身、SNSに発信しようとさえ思わなかった。エルが現実に現れたなんて信じてもらえないから? 敵となる作家たちにアピールすることになってしまうから? いいや違う、そもそも発信しようとさえ思わなかった……)」
手元の袋を漁った剱丞はそれが空であることに気が付き、都牟羽の前に置かれているものをネコババしようと手を伸ばしたが、寸前で「糖尿」の一言の下に食い止められていた。少し悲しそうに、剱丞は渋々口に含んだコーヒーを咀嚼して誤魔化している。
押し黙っている詠太郎の代わりに、エルが問いかけた。
「その知られざる話を、どうして貴方は知ることができたのかしら?」
「きっかけは俺の祖父だ。どうやら祖父は、物書きだったらしい」
「らしい?」
「誰も知らなかったのさ。ある日を境に行方不明になっていた祖父が、十数年の時を経て、自ら入っただろう地下の土牢から骸として発見されるまでは」
その言葉に、都牟羽の表情が引き締まる。
「数年前、発見したのは俺だった。祖父の骨の近くには原稿があったよ。作家と、自作の登場人物が組んで戦い合う物語がね」
「それって、ヒロイアゲームじゃ……」
「そう。祖父は自らの半生を記録したんだ。ページが進むにつれて描写は朧気になり、語彙は貧弱になっていく絶望感に抗いながら、神の目の届かぬところで。俺という第三者が知覚してしまったことで、原稿は消えてなくなってしまったが」
淡々と語る唇が震えていた。それを見かねた都牟羽がミルクケーキを差し出してくれたのを、剱丞はひどく申し訳なさそうに受け取る。
「つまるところ。ヒロイアゲームは、これが少なくとも二回目以降の開催となるんだよ」
そう言って、感情ごと噛み砕いたそれをコーヒーで流し込んだ。
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