第34話 Melty-Kiss

「大変だ!」


 いてもたってもいられず、詠太郎は駆け出した。入院着を脱いで傷口にあてがい、押さえつけてみるが、溢れ出る血が止まる気配などない。


「拙者のも使うでござる」


 そう言って、卓哉もパーカーとシャツを乱暴に脱ぎ捨て、圧迫を試みはじめる。

 アプリコットが呻くように呼吸をする度、じわり、じわりと、押し当てた布の赤が濃くなっていくのがわかった。


「病院に運びたいところでござるが……拙いですな。ママを傷つけても止まらないくらいに暴走しているのならば、運んでいる途中で血霧たそに襲われるでござる」

「救急隊員を呼んで、エルたちが足止めしている間に運ぶのは?」


 口にしてみて、詠太郎は難しいと自らの案に首を振った。遠野の話ではヒロイアゲームのことを承知している医者がいるし、今はそれを隠している場合ではない。問題は、また止めきれずに二次被害が起こってしまうことだ。


「ええと、水を差すようで悪いんだけどさ」


 ステラが歯切れ悪く、口を開いた。


「あの血霧ってのが暴走してるってのはわかった。けど、だったらこのまま放置しておけば、作家が自滅して、ウチらの勝ちになるんじゃないの? 手当てをする必要なくない?」


 彼女の言葉に、詠太郎は一瞬、手が止まりそうになった。


「そう言われると、そう、なんだけど……」


 返す言葉がない。ただ、勝利をするだけなら、むしろ今の状況は僥倖と言える。

 それでも。


「ここで何もしないと、自分を許せなくなりそうだったから」


 綺麗事かもしれない。偽善かもしれない。それでも。小説を書くことで辿り着きたいところへ行くためには、ここでアプリコットを切り捨てているようでは、叶えられないと思った。


――万が一の時には、その選択をしなければならないと思っておいた方がいいわよ?


 確かに作中ではエルたちに、敵側についた人間と戦わせ、結果手にかけさせたこともある。

 けれど今はまだ、その時ではない。この人は悪ではない。


「……私のことは、お構いなく」


 アプリコットが、か細い声で言った。弱々しく咳き込んだ彼女の口元から血が漏れる。


「ややもすれば、皆さまのお命も危ぶまれますよ。それに、血霧から手にかけられるのならば本望です。むしろ、三流作家への罰ともいえるでしょう」


 そんな弱音に、声を荒らげたのは卓哉だった。


「バカを言うなでござる! あの子のことを、実の娘のようだと言ったでござろう。あの子も、ママと呼んでいたでござろう……アプリコット氏は、娘に親殺しをさせる気でござるか!?」

「……本当に、お優しいのですね」


 そう呟いたきり、アプリコットは力なく目を閉じた。辛うじて呼吸はしてくれているが、予断の許されない状況だ。


「やるしか、ないでござるな……」

「正気? ウチは反対」

「拙者も我儘を言っていることは承知でござる。けれど、詠太郎氏の言う通り、自分を許せなくなるでござるよ」


 卓哉は泣きそうな声で、ステラの目をみつめた。


「これから先、どんな物語を書いても。文章では『大切な人を守るために』とか、『正しいことをしよう』とか書きながら、心の中では『そんなこと言いながら、こいつはあの時、人を見殺しにしているんだよな』って、ずっと付きまとうでござる。何をしていても、どんな時でも」


 だから。と、卓哉は頭を下げた。


「力を貸して欲しいでござる、ステラ」

「――――っ」


 ステラは目を丸くして、たじろいだ。

 そのまま視線を彷徨わせ、少しの間があってから、観念したようにこくこくと首を振った。


「わかった、わかりました。だからその呼び捨てだけはやめろし、むず痒い!」

「やった! ステラたそがいれば百人力でござるよ!」

「ああそれもキモい! うざい、寄るなあ!」


 卓哉を引き剥がしたステラは、その肩越しに見たものに、はっと表情を引き締めた。


「来るっ!」

「血霧も混ぁぜぇてぇ――! いーいーよォ――! アッ、ハハハハハハハハハ!!」

「ごめんけど、良い子じゃないとキュープリにはなれないの――【ブルーミング・スター】!!」

「少し大人しくしていてね――【残光結ぶ紡史の糸アトレーペ・バリエーレ】!!」


 ステラが射出した星の盾に血霧がぶち当たった一瞬の減速を、繋ぎ止めし糸が絡み取った。歯茎をむき出しにし、涎を垂らして猛り狂う血霧が、星の檻に閉じ込める。


「よしっ! 今なら、連れ出すことができるかも!」


 詠太郎は卓哉に視線を送り、アプリコットの体を持ち上げようと試みた。

 しかし、血色を失った細い足に手をかけた瞬間、星の檻から大きな破砕音が鳴った。


「まずい、何枚かやられた系……このままじゃ、内側から食い破られるのも秒読みね」


 ステラは腕を組み、何やら考え込む素振りを見せた。


「……多分、ウチに妙案がある。上手くいけば、エルの手が空いた状態でアレの動きを止めて、仕留める隙を作ることができるかもしれない」

「本当でござるか!」

「その前に、一つ確認させて」


 猫のようにくりっと澄んだ瞳が、卓哉に問いかける。


「あんたもウチのこと、実の子供のように思ってるの?」


 心なしか、彼女の声は震えている。

 それに対し、卓哉は場違いのような問いかけに驚きつつも、一度飲み込み、ゆっくりと首を横に振った。


「作家としてみればそうかもしれないでござるが、拙者にとっては、それだけじゃないでござる。あれは、慣用句みたいなものでござるから」

「……続けて」


 ステラは目を閉じ、じっと耳を傾けている。


「拙者たちの世界では、お気に入りのキャラクターを『嫁』と呼んでいたでござる。拙者は、それが大好きだった」

「今は、そう言わないの?」

「そうでござるなあ。新しいキャラや新規のコーデが出れば、SNSのコメントは大体『えちえち』とか『シコリティが高い』とかで溢れているでござる。別に拙者はそういう、楽奇異透兵衛氏のような反応を、悪いとは言わないでござる。拙者だって、可愛いヒロインに、えっちな気持ちを抱くことはあるでござるし」

「…………」

「けれど、拙者としては、順序が逆だと思うんでござるよ。ヒロインの生き様に憧れて、リスペクトして、一人の人間として愛して……その先にあるのが、えっちなことだと思うでござる。童貞臭いと馬鹿にされても、それだけは譲れない。だから拙者、萌えも大切にしながら、主人公とヒロインが心から尊敬し合える物語を書いていきたいんでござるよ」

「主人公と、ヒロインが……」

「そうでござる。まあ所詮、次元の違う拙者たちでは、虚しい横恋慕でしかありませんがな。でゅふふっ」


 気恥ずかしそうにおどけて見せる卓哉に、ステラはつられたようにはにかんで、彼のお腹を軽く小突いた。


「あんたの考えはわかった。やっぱ童貞だわ」

「ぶひぃ、言い返せないでござるぅ」

「そーいうところだし」


 呆れたとばかりに小さくため息をついて、ステラは身を乗り出した。


「耳。かして」


 彼女が何やら囁く度に、卓哉の目が大きく見開かれていく。


「名案、でしょ?」


 そう言ってステラは、悪戯っ子のようににししっと歯を見せる。

 そこで、再び星の檻が大きく揺れた。

 ギャリギャリとけたたましい死神の足音が、大きくなる。そして、ついに、外の皮を形成する一枚を貫いて、チェーンソーの切っ先が現れた。


「ヒャァハハハハハッ。みぃーつけたぁ!」


 隙間をこじ開けるように、血霧がチェーンソーをぐりぐりと振り回す。

 その眼前にステラが立ち、


「あら、覗きとは感心しないわね。女の子には刺激が強いわよ?」


 血霧に見せつけるように、未だ硬直したままの卓哉へキスをした。

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