第31話 Insanity
スターターの紐を引きながら、豹変した血霧が跳躍した。伸ばした舌の根元で「どぅルンどぅルン♪」とタングトリルを重ねる度、彼女の細い足の回転も加速していく。
つい数秒前まで瀕死の状態だったとは思えない獣のような俊敏さに、詠太郎たちは唖然と足を竦ませていた。
ただ二人。
「む向かってくるなら好都合だ。さァ、カンタレラ。し『死の迷宮』の副支配人たる力を、み見せてやるんだ」
「ええ。飛んで火にいる夏の虫というやつですわ――【
「わーい金ぴかのサンドイッチィィィ!!」
猛進していた血霧は、いとも容易く黄金の牛に閉じ込められた。速度が落ちずに内部でガンガンと跳ね返っているだろう金属音は、本来のファラリスの雄牛とはまた異なる音色で夜に鳴いている。
「まずい、エル!」
救出に乗り出そうとした詠太郎だったが、その胸は細腕に押し止められた。
「――問題ありません。血霧は、強い子ですから」
「お姉、さん……?」
一瞬アプリコットの表情が歪んだ笑みを湛えているように見えて、詠太郎は目を疑った。しかし、雄牛に点けられた炎にゆらゆらと照らされたその顔は、明暗の差が激しすぎて表情を読み切れなかった。
「……ねえ、速くなってない?」
ステラが腰の抜けたように呟く。詠太郎たちが耳を澄ますと、なるほど確かに、内部で血霧が跳ね返る音が頻度を増している。
炎に炙られてのたうち回っているのか――否。
「飛んで火にいる夏の虫がァ……燃えて死ぬとまではァ――」
やがて雄牛の表面が、内側から凸凹に突き上げられていく。
「先生教えてませェーーーーん!!」
ついに雄牛の首を狩り落とすようにして、血霧が飛び出してきた。
一度天高く舞い上がり、月にシルエットを作ると、落下の加速度を追加してカンタレラへと迫る。
「ちっ、本当に野蛮ですのね……ならば、じゃじゃ馬の跳ね返る余地のない究極の拷問器具で迎え撃つまでです! ――【
カンタレラが手を翳すと、処女の生き血を吸う鉄の檻が顕現し、降ってくる血霧を待ち構える食虫植物のように口を開いた。
しかし、血霧は躊躇う事なくそこへ突っ込んでいく。
「速度と角度が正しければァ、紙で割り箸を折れるんDEEEEEATH!! へえへえへえ、100へえェ!!」
切断を目的とするはずのチェーンソーが、最早弾丸と化していた。
血霧が鉄の処女の継ぎ目に穴をぶち抜いたかと思った次の瞬間には、カンタレラの胴体に袈裟に走った抉り傷から鮮血が噴き出した。
カンタレラは呆然と自分の胸元を触り、その状態を確認すると、ようやく脳の認識が追い付いたかのように吐血し、ぐらりとよろめいた。
「そんな……この、わたくしが……」
体は光に包まれ、倒れ伏す直前で消滅する。おかげで折り返してきたチェーンソーの追撃を免れたが、それは紛うことなき決着の瞬間だった。
「ヒィィィィイヤッフゥゥゥゥゥ!!」
月に向かってメロイックサインを翳し、血霧が叫ぶ。
全身から血を流した悪魔のような仁王立ち。その背中に志士累は腰を抜かし、小便を漏らしながら地を這って逃げ出して行った。
「つ、強い……」
「敵じゃなくて良かったでござるな……」
詠太郎と卓哉は震えるように頷き合った。
歩み寄ったアプリコットから頭を撫でられると、血霧はまた年相応の少女の貌へと戻り、首を竦めてくすぐったそうにしている。
一件落着だと、詠太郎は胸を撫で下ろした。作家は己のヒロインと再会し、私生活を脅かす痴れ者も追い払った。あとは各々の怪我さえ治療すれば、綺麗な手同士を繋ぐことができるはず。
しかしそれは、錯覚だった。
「僕は日月詠太郎といいます。ここでお会いしたのも何かの縁――」
アプリコットたちに近づこうと踏み出した足が、ぞわり、と得体の知れないものに掴まれたような感覚を覚えた。それは冥界から伸びる死者の手か、恐怖心が見せた幻覚か。
「クスクス……初めからこうしていれば、良かったんですね」
幽鬼のようにざんばら髪を揺らして肩を震わせる彼女の顔には、やはり見間違えではなかったあの笑みが張り付いている。
彼女は血霧の血液を反射させた紅い眼を流して、こちらを一瞥した。
「お二方は……成程、協力関係ですか」
か細く聞こえるのに、まるで脳内に直接響くような、心地よくも悍ましい声。
「は、はい。そうなんです。あのっ、お姉さんも、どうですか……?」
「少々、理解に苦しみますね」
首を薄く傾けて、アプリコットは思案に耽るように鼻腔を鳴らした。
「いずれは勝者を決めなくてはいけないのに?」
「その時は、その時です」
「……私には、できそうにありませんね」
自嘲気味に笑ってから、幽鬼は怪物少女と手を繋ぎ、並んだ。
「改めまして、私、筆名をアプリコットと申します。この子は
「やはり。アプリコット氏とは、あのアプリコット氏でござるか!?」
卓哉が驚きに声を上げた。
「知ってるの?」
「ライトニング文庫の
「ツワモノだなんて……お恥ずかしい。一次選考で落選した作品も多々ございますし。何次の選考に残ろうと、最終選考に辿り着けなければ、価値はないに等しいですから」
不意に人間らしさを見せた彼女の謙遜に、詠太郎は冷や汗がどっと噴き出るのを感じた。自分は今回が初投稿だった上、応募できたのはエルの活躍する一作だけである。
丸一年かけて、一作。それだけでも、相当な時間と、根気と、精神力が要った。
それを、少なくとも五作。高次の選考に駒を進められる程であれば、それは決して、粗製乱造などではない。
「(作家としてのレベルが違い過ぎる……)」
呼吸が浅くなる。心臓の歩調が乱れる。
「(エイタロー)」
不意に耳元で、エルの声がした。そして、手を握られた感触。彼女の方を見やると、アイコンタクトで頷いてくれた。
ありがとうと頷き返し、落ち着いて深呼吸をする。
平静を取り戻してくると、詠太郎は意識に引っかかるものを感じた。
「アプリコットさんは、ご自身の作品に、価値がないと思っているんですか」
「いいえ、全く」
即答だった。
垣間見えた彼女の目の色に、詠太郎は自分が愚かな質問をしてしまったことに気付いた。
努力に裏打ちされた自負。自分のようなルーキーの挑戦者ではなく、歴戦の戦士だけが持つ荒みを帯びた瞳だった。
「クスクス……価値がないというのは、私自身に対しての評価ですよ」
ひときわ大きな風が吹き込んできたかと思うと、それっきり、静かに凪いだ。
「持てる心を振り絞り、時間や人間関係さえ削り、魂をすり減らしながら書き上げた。……そう言えば耳障りも良いでしょう。しかし、それだけの想いを込めてなお、我が子のように愛する作品を受賞させることができずに殺していく……最低な母親ですね、ふふっ」
詠太郎は、目の前の女性に、自分が重なって見えたような気がした。
――ごめん……エル、ごめん!
――僕は、君の魅力を書ききれなかった!
自分も、『自分が』落選したことよりも、『エルを』落選させてしまったことの方が、ずっと辛く感じていたから。
「……わかります」
「でしょうね」
指を口元に添えて、アプリコットは優雅に笑う。
「一つお礼を。貴方たちのおかげで私は……この子をいたずらに傷つけるだけの弱い作家から抜け出すことができました。このヒロイアゲームで必ず勝つと、覚悟を決めることができました」
「アプリコット、さん……」
詠太郎は異様な空気にたたらを踏んだ。の口の中がからからに乾き、呂律が回らない。
アプリコットの指に隠れていた唇が露わになる。そこには悲しいくらいに、血が滲んでいた。
――長い夢から醒めてしまって、心細くて。
一度は夢と言い聞かせて慰めるだけだった妄執が、今、実感を伴うことでその歯車を狂わせ始めたのだ。
「さあ、
アプリコットが叫ぶと、夜空が一層翳ったように光を隠した。木々のざわめきが、餓鬼たちの囃し立てる声にさえ聞こえるようだ。
そんな五里霧中の如き闇の向こうから、チェーンソーのエンジン音をビートに、凛と柔らかな御囃子が響いてくる。
――いたいの、いたいの、とんでいけ。
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