ここから、出発

『結局、私は天使から課された最後の課題には、手をつけなかった。一か月の期限を過ぎた翌日、私のLIMEからは天使のアカウントは跡形もなく消えていた。

 もう、両親を離婚させることはできないだろう。でも、これでいいのだ。全ての真実がわかった今、心からそう思う。多少の時間がかかっても、浮気したと嘘をついたお父さんのことを、病気のことを隠しとおそうとしていたお母さんを、ゆるすと決めた。少しずつ、ゆっくりでもいいから、ゆるす努力をしたい。そう思う。

 お母さんは、東雲篤貴に私がきつく当たっていることを知って本当のことをうちあけようか迷ったようだが、私の東雲篤貴への態度が軟化したと知ってやっぱり嘘はつきとおそうと思ったらしい。退院直後まではそう思っていたが、私が家を飛び出して帰ってこなかったときは肝を冷やし、自分のついてきたことが間違っていたかもしれないと気づいたそうだ。

 それと、子宮系の病気が遺伝するかもしれないという話より、自分の父親が私と近い年齢の女と浮気していたという話を聞いた時のほうがショックが遥かに大きかったので、私は子宮系の病気にかかりやすいだとか言われてもあまり衝撃は受けなかった。しばらく生理がきていなかったので、その話を聞いて少し心配もしたが、ストレスから解放されたせいか家出した翌日には生理がきていた。念のため、病院にもいったがストレスで遅れただけで問題はなかった。

 浮気する男はいる、と今でも思う。でも、きっと私が考えているよりはずっと少ないはずだ。東雲篤貴が無罪だったこと、身近に仲良しのカップルがいること、星廉みたいな人もいること。その事実が束となったおかげで、私は『男はだいたい浮気する』という考えを改めることができた。

 最近では、誰かと交際をしてみるのも楽しいかもしれない、と思い始めている。そして、「その相手が、星廉だったらいいな」とも。』



「祈璃、夏休みなのに学校行くのか?」

 八月の早朝。制服を着た私が玄関でローファーを履いているのを見て、東雲篤貴がそう声をかけてきた。

 夏休みが始まって二週間ほどが経った。

 家出したあの日、家に帰るとお母さんと東雲篤貴からは平謝りされた。お母さんに至っては目を真っ赤にして、「祈璃を不安にさせないためについた嘘だったのに、余計にショックを与える形になって、もうなんて言ったらいいのか……」と言葉を詰まらせていた。

 最後には、ゆるしてほしい、と二人に懇願された。東雲篤貴は泣きそうな顔で、お母さんは泣いていて。その顔を見ていたら、自然と私は頷いていた。

 本当のことを言ってもらえなかったことに、おかしな嘘をつかれたことに、モヤモヤしなかったわけじゃない。でも二人は、悪気があって、本当のことを言わなかったわけじゃないのだ。あくまでも、遺伝するかもしれない病気のことを話したら私が傷つくんじゃないかと心配して、心配しまくって、結果、迷走しておかしな嘘をついたのだ。

 親の愛情というものは、時に暴走してしまうことがあるのかもしれない。

 そして、あれからも毎日、東雲篤貴は私より早く起きて朝食をつくっている。今日は廊下にウインナーの焼ける香ばしい匂いがただよっていた。

 お母さんはまだ自室でゆっくりと眠っていることだろう。私は、「補講か? 部活か? まさか家出じゃないよな??」と心配そうに尋ねてくるエプロン姿のお父さんに向かって振り向いた。

「ちがうってば。今日、登校日」

「あ、そうなのか……。な、何時に帰ってくるんだ?」

「全校集会して解散だから、昼頃には帰るよ」

「そ、そうか、よかった……」

 途端に彼はホッとした様子になった。

 何も言わずに家出して、星廉の家に一泊しようとした前科がある私。娘が無言で消息を絶ったのが、親として、それはよっぽど生きた心地がしなかった出来事として心に刻みつけられたのかもしれない。最近は私が外出しようとすると、両親はちょっと不安げな様子を見せるようになった。べつに、あんなことはもうしないのに。

「気をつけてな。早く帰ってくるんだぞ」

 お父さんは気まずそうに言う。私に嘘をついてだましていたという気まずさと、罪悪感のようなものがあるのか、最近の両親は私に対してどこかぎこちない。

「ねえ。お父さん」

 長らく呼んでいなかった呼び方をしてやると、彼は意外そうな顔をした。

「あのさ、今日、暑くない?」

「え? ああ、暑いっちゃ暑いけど、でもまあ昨日とそんな変わらないと思うぞ」

「暑いって今日。本当に湿度がちがうもん」

「そ、そうか?」

 訝し気にしつつも、お父さんは「まあ、祈璃が言うなら暑いかもなあ」と言い出した。

「うん。そうなの今日は暑いの。……バスの中は涼しいからいいけどバス降りたら坂のぼらないといけないじゃん。こんなに暑い中あの坂上ってったら汗かくと思うし、ひさびさに皆に会うのに汗まみれで行くっていうのもなんか嫌じゃん」

「……うん?」

「今日、仕事休みなんでしょ。だったら……車で学校まで送ってってよ」

 照れくさかったけど、そう頼んでみた。

 今まで、浮気相手を乗せたと思っていて、だから避けていたお父さんの車。でも、真実がわかった今、べつに避ける必要などないわけで。べつに今日は特別あついわけじゃない、夏の暑さなんてただの口実だった。

 お父さんは顔を輝かせて快諾した。

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