いきなり、来訪
「祈璃……っ!」
だいぶ落ち着いた時に、とつぜん屋上の扉が開かれた。聞き慣れた声で名前を呼ばれる。
信じられない気持ちで振り向くと、そこにいたのは、とりみだした様子の東雲篤貴だった。
……なぜ、あいつがここに?
「祈璃」
「こないで」
近づいてきた東雲篤貴に硬い声で告げて、にらみつける。
「なんで、私の居場所がわかったの?」
「雲母から『祈璃が出て行って帰ってこない』って連絡があって……学校に行ってるんじゃないかと思って学校に電話したら、『さっき一くんの親御さんから連絡があって「東雲さん、いまうちの息子と一緒にいるので、もし東雲さんの親御さんが心配して連絡入れてきたら伝えておいてください」と電話があった』って……」
星廉を見る。星廉は「たぶん、うちの親がリークしたんだと思います……。へんに鋭いところあるんですよ」と苦い顔になった。
ふだん家に人を招くようなタイプじゃない息子が、いきなり私を泊めると言ってつれてきた。しかも私は着の身着のまま、そして夜になりかけた時間帯に。これだけ怪しい要素があれば私が家出してきたことを推察できても無理はないかもしれない。
「それで学校に住所を聞いて一くんの家まで車で来て……一くんの家の人に聞いたら、息子は嫌なことがあると大抵屋上にいくから、たぶんあそこにいるだろうと……」
星廉の親は何もかもお見通しだったというわけか。
東雲篤貴はすがるように私を見た。
「祈璃、帰ってきてくれ。頼む」
「嫌」
首を左右に振って、きっぱりと拒否をする。彼は眉を八の字にした。
「なんで帰りたくないんだ。今までは帰ってきてくれてたじゃないか」
「あの」
星廉が口を挟んで、東雲篤貴は初めてそこで星廉を見た。
「祈璃ちゃんは、今までも喜んで帰ってたわけじゃないと思います。たぶん今までだって、我慢していたんじゃないですか」
「…………そうか、やっぱりそうだったのか」
言って、彼はうつむいた。
やけにあっさりとしたその態度に、違和感を覚える。もっと言い逃れをするようなものだと思っていたから。
東雲篤貴は、ズボンのポケットからリングノートを取り出した。
私が愚痴を書いていたのと、まったく同じものだった。
「それ……」
「悪い。朝、部屋の机のうえに出しっぱなしになってたから気になって読んだ。文章が上手いな」
泣いているのか笑っているのかもわからない顔で彼は言う。私はどんな態度でいればいいのかわからなかった。
「祈璃。ここに離婚してほしいだとか書いてあったが、それはお前の本心だったんだな。……お前が、俺のことをどう思っているのかはよく分かった……本当のことを話さないといけない」
「は?」
「祈璃を不安にさせないためには、こうするしかないと思っていたんだが。でも、娘にこんな思いをさせてまで、嘘をつき通そうなんてした俺たちが間違っていたな」
東雲篤貴はそっと息をついて言った。
「俺は、本当は浮気はしていないんだ」
私も星廉も、黙った。
……この男は、そんなみえみえの嘘が通じると思っているんだろうか。怒りを通り越して呆れさえ出てきた。
「は……? ふざけないでよ。今さら何言ってるの?」
「本当なんだ、信じてくれ」
「じゃあ、あの夜の女は誰なの? 浮気相手でしょ? どうしてあの頃はいつも帰りが遅かったの? いつもあんな風に浮気相手と会ってたからでしょ? お母さんが入院したのだって、あんたが浮気なんてしたから心労で倒れたんでしょ? こんなに証拠が出揃ってるのに、よくまあそんな見えすいた嘘がつけるね!?」
「祈璃ちゃん、落ち着いてください」
声を荒げて、転落防止の柵を平手で叩いた私を、星廉が諌める。
大きく息をついた。
「一つずつ、説明させてくれ」
「……説明もなにも、あんたは浮気した。それで家庭がこわれた。それだけの話でしょ……」
顔をそむける。
「違う」
「じゃあ、納得いくように説明してよ!」
「雲母は、病気なんだ」
「……は?」
お母さんが病気?
「適当なこと言わないで。不謹慎にもほどがあるでしょ」
「本当なんだ。雲母の母親が……おばあちゃんが亡くなった理由を知っているか?」
聞かれて、思い出した。
おばあちゃんは、まだお母さんが若い頃に子宮頸がんで亡くなった。おじいちゃんも妻を亡くしてからは気落ちしてしまい、それから四年後に後を追うようにぽっくりとこの世を去ってしまったそうだ。でも、まさか。お母さんまで?
口をつぐむ私に、東雲篤貴は言った。
「雲母の家系はな、どうも子宮系の病気にかかりやすい傾向があるみたいで……。雲母は高校生の時に子宮筋腫になって、一度、腫瘍を取り除く手術を経験している。一度開腹手術をすると、子供ができにくいかもしれないと医者に言われていて……、だから祈璃をみごもったときは『天に祈りが通じて子供ができたんだ』なんて言って二人で喜んだ」
当時のことを思い出しているのか、彼の表情は柔らかかった。
だから、私は祈璃って仰々しい字面かつおめでたい名前をつけられたのか。というか、そんなことは今はどうでもいい。
「お母さんは、病気なの? いつから?」
「一年くらい前からだ。薬で様子見をしていたんだが、今年の五月に腫瘍が大きくなっていることがわかって。手術をしたほうがいいと言われた。手術自体は成功率の高いものだし、成功すれば命取りになるようなことはほぼ無い。でも……」
苦々しい表情をつくって、東雲篤貴が一瞬黙った。
「雲母は、ひどく落ち込んでしまって。自分は女なのに、子宮を摘出してしまうなんて、と」
その気持ちは同じ女性として分からなくはなかった。
「たまたま自分は、子供を授かったあとに子宮を摘出することになったけど、うちの家系は子宮系の病気にかかりやすい。だから、もしかしたら祈璃も発症するかもしれない。自分よりもっと早い年齢で、子宮を摘出しなくてはいけなくなる可能性もある。子供の産めない人生を歩むことになるかもしれない。幼稚園のころから夢物語のような絵本ばかり読んで、いまもよく小説を読んでいるような子だ。そんな子に、こんな酷な事実を告げたら、大きなショックを受けるんじゃないか。自分の病気のことや、将来同じような病を発症するかもしれないなんてことを話して、祈璃の青春に影をさすような真似はしたくないと……。だから、もう少し祈璃が大人になってから話そうって、そう言われてたんだ」
「本当に……?」
ああ、と沈痛な面持ちで彼は頷いた。
「遺伝のことはおいおい話すとして、いま雲母が病気になっていて、手術が必要だということだけでも祈璃に話さないかと提案してみた。でも、祈璃は聡い子だから、祖母が子宮頸がんで亡くなって、そのうえ母までもが子宮の病にあると知ったら、もしかしたら自分も……と不安がるんじゃないかと言って、ゆずらなかった」
「そう、なんだ……」
「ショックを受けたか……?」
「いや、なんか急に遺伝するかもとか言われても、なんか、いまいち現実味わかないっていうか……。え? ていうか、あんた本当に浮気してないの? 一年前くらいから、遅くまで帰ってこなかったり、休みの日も家にいなかったりしたじゃん。あれって浮気してたからじゃないの?」
「ちがう。雲母が病気だとわかったとき、雲母がなにか体調を崩したときはいつでもすぐに休みがとらせてもらえるように、仕事はしっかりしておかないとと思って」
「……でも、コーヒーショップで魔女みたいな格好の女と手つないでたじゃん」
「少しでも雲母の負担を軽くできることはないか、と思って、料理を習おうと思ったんだ」
東雲篤貴は言った。料理を習いたいんだが、どこかいい教室はないかと職場の女性にきいたところ、調理師免許をもっている年配の上司に教えてもらえることになったのだと。
「でも、一緒にいたのはすごく若い女だったでしょ。あの人が上司なんて思えないんだけど」
「……料理の腕もだいぶ上がって、なにかお礼をしたいと言ったら、上司が、高校生の娘がキミのことを『イケおじじゃん』と褒めていて、どうやらキミのファンのようだから、仕事が終わった後でもかまわないからお茶してやってくれないかって」
それが、あの日――……?
「だけど、妙に楽しそうじゃなかった? あんた笑ってたし」
「笑ってはいない。苦笑いはしたかもしれないが……」
私は思い出す。あのとき、本当に東雲篤貴は楽しそうに笑っていただろうか? それとも彼の言う通り、苦笑だっただろうか? 手をつないでいた印象が強くて思い出せない。
「ていうか、どうしてその子と手をつないでたの」
「ふざけて繋がれたんだ。まあ、相手は高校生で子供だし、上司のお子さんだし、拒むようなことをして白けさせるというのもアレかな……と。職場からは離れていたから、人に見られるようなこともないだろうと思っていて、油断していた。祈璃に見られるなんてな……」
理解がおいつかない。本当に浮気していなかったというのか? でも、いまのところ東雲篤貴の話に矛盾はなく、辻褄も合っている。
「というわけで、六月ごろに雲母は手術をすることになっていた。雲母の場合、術後の心のケアも必要になってくるから、多く見積もって二週間ほど入院が必要になると言われた。焦ったな。雲母の体のことは何よりも心配だったが、そもそも祈璃には病気のことは伝えていないから、二週間も母親が入院することをどう言い訳しようと考えていた。そんなときに、上司の娘と一緒にいるところを祈璃に見られて、浮気をしていると誤解された」
私に見られた後、東雲篤貴はすぐさま妻に電話をかけた。
私の険しい表情からして、よからぬ誤解を生んでしまったことは容易に想像がついたからだ。お母さんは「誤解はといておく」と言ってくれたが、東雲篤貴はここで、とんでもないことをひらめいてしまった。
「これを、言い訳につかえないだろうかと」
「つまり……?」
「もう、入院する日にちまで余裕がなかった。ただの検査入院にしては、二週間は長すぎるし、骨折だとか怪我だと伝えようにも、もし万が一お見舞いに行きたいと言われれば雲母が入院しているのは産婦人科だから、嘘はすぐにバレるだろう。面会謝絶になっていると言っても、骨折でそこまで?と怪しまれるかもしれない。だから祈璃には、俺が浮気をしたことにして、母さんはその心労で倒れて入院すると嘘をつくのはどうだろう、と。祈璃も、俺のことを軽蔑するような目で見ていたし、これならバレないだろうし、怪しまれることもないんじゃないかと。俺も、雲母も、あの時期は切羽詰まっていて……ちょっとおかしくなっていたかもしれないな」
そして、二人は私にとんでもない嘘をつくことにした。しかし、予想外のことが起こった。
浮気したという噂が近所に広まってしまったのである。
なぜだかはわからない。私から軽蔑の目で見られることはある程度覚悟はしていたが、近所中に白い目で見られることは想定していなかったので、これにはさすがに焦ってしまった。
「祈璃が、俺のせいで何かされているんじゃないかと思うと、気が狂いそうだった」
家の塀に落書きされていることもあり、さすがにこれは、と思った東雲篤貴は妻と話し合った。もう本当のことを祈璃に打ち明けてしまわないか、と。お母さんは「それだけはだめだ」と頑としていた。
でも噂がおさまることはなく、結果的に、引っ越しを決めるしかなかった。
呆然とした。
何もかも、私が知らなかったことばかりだった。
「だから俺は、浮気はしていない。でも、浮気していると嘘をついてしまった。あのときは雲母本人が黙っていてくれと言う以上は、病気のことを祈璃に打ち明けるわけにはいかなかったんだ……」
「だからって、なんでこんな嘘ついたの……!?」
「すまない……」
「近所だけじゃない、学校で、父親が浮気したとか噂が広がって……、男子にはキモい目で見られるし、LIMEで変なメッセージ送られるし……。あんたがしたみたいに、いきなり浮気されたらどうしようって、誰かとつきあうのだってこわくなったよ……」
今まで私が浮気されるのを恐れていたのは一体なんだったんだろう。やるせなさに襲われ、涙を禁じ得ない。星廉が背中をなでてくれた。
「すまなかった」
東雲篤貴が、目の前で頭を下げていた。顔を見なくても泣いていることがわかるくらい、涙声だった。
「本当にすまなかった、馬鹿なことをして……」
私は、しばらく何も言えなかった。
本当に馬鹿な嘘をつかれていたと思う。でも。
「……あんた浮気したんじゃなかったんだ」
「ああ。そんなことは絶対にしない」
意志の強い目だった。
「……よかった」
思わず、私はそうこぼしていた。
彼はそれを聞いて、また「悪かった……」とうなだれた。
それから、お母さんの手術は無事に成功していたということ、お母さんは帰宅したら私に本当のことを話すか迷っていたということを聞いた。東雲篤貴は何度も謝っていた。お父さんが涙を流して泣いている場面を見たのは初めてで、自分でもどうしてだかわからないけど、それを目の当たりにしていたら恨む気持ちは蒸発していくのがわかった。
「……もういいよ、わかったから。あとでまたちゃんと聞くから」
「帰ってきてくれるのか」
「だって、星廉の家に泊まるって言っても、よく考えたら着替えとか何も持ってきてなかったし。……お母さんも家で待ってるし、ケーキ買ったんでしょ? 早くしないと溶ける」
「祈璃……」
良い年をしたおじさんが充血させた目をさらに潤ませた。
「星廉もごめんね」
「えっ? あ、いえぼくはそんな」
「一くん、ありがとうな。祈璃のそばにいてくれて……。君が見つけてくれなかったら、たぶん祈璃は悪い奴にさらわれてしまっていた。うちの娘は本当に美形に生まれてしまったものだから……」
「余計なこと言わなくていいって……」
星廉がにこにこと笑みを浮かべたとき、屋上の扉が勢いよく開いた。星廉のご両親が顔をだす。
「ハヤシライスできたわよ! あらっ、あらあら大変、なんか祈璃ちゃんのお父様、泣いてらっしゃらない?」
「きっと、星廉が『お嬢さんをぼくにください』とか言ったもんだから、『うちの娘をまだ連れて行かないでくれ』って泣かれてしまったんじゃないか~?」
「すみません、厄介なのが来てしまったので早めに帰った方がいいかもです」
星廉は唇の片端を持ち上げて苦笑した。東雲篤貴は「その……祈璃と一くんはつきあってるのか?」と一気に訝しげな表情になる。ああ、誤解が。
「いいえ~、まだ付き合ってはいないのよねぇ、星廉」
「でも、十年越しの再会なんだぞ~? もう付き合えばいいじゃないか」
「十年越し……せいれん……。きみは、もしかして幼稚園のとき、祈璃をことごとくスルーしていたあの園児らしからぬガリ勉の……? また会えたのか。すごいな……」
感嘆する東雲篤貴。
「ねえ、タッパーに詰めますのでハヤシライス持ってってくださいな。帰ってから夕食の用意をするのも大変でしょうし」
「いえ、家で妻が待ってますので……」
東雲篤貴に、星廉の両親は「つくりすぎちゃったんですよ~。もらってください」などと言って押し切ろうとしていた。
星廉が私に「あの……」と話しかけてくる。
「なに?」
「祈璃ちゃんはその……、願いを叶えるためにぼくに恋人ごっこしないかって提案してきてて、実際に手をつないだりデートをしたりしていたんですよね」
「うん。……やっぱり怒ってる?」
「いえ、そうじゃないんですけど……。祈璃ちゃんは今も願いを叶えたいと思ってますか?」
言われて、私は「うちのハヤシライスが食べれないとおっしゃるんですかぁー!?」と星廉の両親に言われて、首を左右に振る東雲篤貴を見た。
「――思ってないよ」
彼が浮気していないのなら。最初から私のことも、お母さんのことも裏切っていないのだとしたら。私が東雲篤貴を恨む理由は、もうない。嘘をつかれていたのは驚いたけど、それも私利私欲のためではなく、私を不安にさせないためにと、お母さんと一緒に考えた末の策だったのだ。そう思うと、そこまで憎むような気持ちにはなれなかった。
「じゃあ今日、学校で夏休みに遊ぶ約束したのもナシになるってことですか?」
「え?」
思わず星廉を見る。彼は、ちょっと残念そうに見えた。
「だって、もう、願いを叶える必要はなくなったから、ぼくと恋人ごっこをする意味もないんですよね……。じゃあぼくと遊びに行っても意味ないとか思ってるんじゃないかって……」
そこまで口にして、星廉は口をつぐんだ。
「星廉、さみしいの?」
「さみしいです」
「……あのさ、私、どうでもいい人に『恋人ごっこしよう』なんて言わないよ。星廉だから、手つなぐのも、デートするのも、ハグするのも、……キスするのも嫌じゃないと思えたから、相手に星廉を選んだんだよ」
いっしゅん呆けた後、星廉は「ほんとですか……!?」と顔を輝かせた。なんだかその反応されたら、はずかしい。
「うん。本当だよ。願いとか天使の課題とか関係なくてもいいから、星廉と遊びに行きたい。行こうよ」
そう言えば、星廉はうれしそうに笑う。
ドキリとした。
なんでそんなに喜んでくれるんだろ。もしかして、星廉も私のことちょっとは異性として好意をもってくれているんだろうか。可能性は薄めだと思うけど、それでもちょっとドキドキした。
少し遠くで「祈璃! ハヤシライスもらって帰ろう!」と根負けした東雲篤貴の声がした。私は「結局、折れたんだ」と笑ってそちらに歩を進めた。星廉も「うちの親がすいません」とついてくる。
そういえば、星廉に一つ訊き損ねたことがある。
星廉は、私が恋人ごっこをしないかという誘いをもちかけたとき、「恋愛のことがわからないから、恋人ごっこをしてみればわかるかもしれない」という希望をいだいていたようだった。私と恋人ごっこをして、果たして彼はそれについて理解することができたのだろうか。
少しでもいいから、星廉が恋愛のことをわかってくれていたらいい。
そんなふうに思った。
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