あかるい、真実

 次の日も、その次の日も莉乃ちゃんと和泉先生の仲は修復されないままだった。

 莉乃ちゃんは死にそうに落ち込んでいるという感じではなくなったものの、それでもどこか空元気な感じが否めない。

「なあ星廉、α《アルファ》、β《ベータ》、と来たらその次は、Cじゃないのか普通は。どうしてγ《ガンマ》になるんだ?」

「……Cはもともとギリシャ語のγに由来した文字だからじゃないですかね?」

「なに!? そうだったのか!?」

 そうだったのか……。

 解の方程式の単元をやってる途中に聞こえてきた情報に、私まで目からうろこが落ちる。

 とうとう明日には小テストをひかえている私たち。この数日間、放課後は皆で勉強会をしてきた。どうしても分からないところは星廉に教えを乞うたり、教科書を適宜参照したりして真剣に勉強に取り組んできた。その努力してきたからか、初日にはほとんど解けなかった問題の数々が、いま取り組んでみたら半分ほど解けるようになっていた。この調子だったら、テストでは平均点も夢ではないだろう。いつも赤点ギリギリの私からすれば充分だ。

 赤いボールペンをカチリと鳴らして芯先をしまう。時計を見上げる。十八時になるところだった。

「そろそろいい時間だし、帰ろうか?」

「そうだね。だいぶはかどったし。はあ、莉乃、肩とか首こっちゃった。お家帰ったらマッサージしなきゃ~」

「よし! これで明日のテストはバッチリだ! 星廉のおかげだ! ここ数日でだいぶ賢くなった気がするぞ!」

「だいぶ正答率上がりましたもんね」

 星廉が柔らかく笑む。赤羽君は、星廉にほとんどつきっきりで勉強を教わっていた。

「私も、いつもより良い点とれそう。星廉ありがとね」

「いやいや。あっ、莉乃さんはどうですか?」

「莉乃、そろそろ先生と仲直りしたいな……」

 皆がノートを片付けるなか、莉乃ちゃんが独り言みたいに言った。

「……浮気したかもしれないのに?」

 うっかり私はそう尋ねてしまう。莉乃ちゃんは「うん」と複雑そうな面持ちではあったが頷いた。

 浮気を許したいっていうのか。すごいな、と素直に感心してしまう。私なんか、当事者でさえないのに、東雲篤貴のことを憎んでるというのに。いや、でも……。

「……莉乃ちゃんのことをずっと裏切ってたかもしれない人と話すの、つらくない?」

「つらいけど……。でも、事実がどうであれ、やっぱり、このままはよくないかなって。なんであの子に笑いかけてたのか、うやむやなまま自然消滅するのもなんか嫌なの……。和泉先生のこと嫌いになったわけじゃないし……。浮気したならしたで、してないならしてないでもうハッキリさせたい」

 目に力があった。数日前のような、ハイライトゼロの真っ黒な目はしていない。和泉先生から逃げた莉乃ちゃんではなかった。しばらく先生から離れてみて、自分の中でいろいろと考えて決意が固まったのだろう。

「綿貫女史が決めたことなら、俺は応援するぞ。ちゃんと話し合えるといいな」

 赤羽君が腕組みをしたまま何度も頷いた。

「うん。……莉乃、がんばって先生と話してみる」

 莉乃ちゃんは決意したようだったけど、私の中では不安が渦巻いた。本当にそんなうまくいくのかな……。

 そして、私たちが手荷物をまとめて図書室を出た刹那のことだった。一階から、こんな会話が聞こえてきたのは。

「校長どう思います? 綿貫さんと和泉先生」

「え? 綿貫さんがなついてるだけじゃないの?」

 男の先生二人の声がして、私たちは反射的に顔を見合わせた。校長と、知らない年かさの男性教師が莉乃ちゃんと和泉先生について何か話している。莉乃ちゃんは、虚を突かれた様子だった。

「絶対につきあってますよ、あの二人。この間なんか、『先生、またデート行こうね』とか言ってましたし」

 莉乃ちゃんの顔色が悪い。赤羽君も星廉も私も何も言えなかった。

「ただ休日に街中で偶然会ったのを、綿貫さんがそういうふうに言ってるだけでしょう。あのぐらいの年頃っていうのは、若い異性の教員をからかったりしますから」

 横で莉乃ちゃんはホッと息をついていた。しかし、男性教諭がまたも余計なリークをする。

「でも、その前は、『先生、莉乃ね、昨日ママとサラダつくったの』、『どういうの……?』、『じゃーん! こういうの!』って言って、タッパーに詰めたマカロニサラダを手渡してたんですよ!」

「何で紙袋とかに入れないのかなあ……。そうしたら、周りから見て何を渡してるかバレることもないのに……、せめてもっと人のいないところでこっそり渡すとかさあ……」

「校長!? ご自分が昔、元生徒と結婚したからって、あの二人のこと応援してません!?」

「ああ、いえいえ。そんなこと全然ないんですよ。恐らくただの差し入れでしょう」

 糾弾されかけてもなお、校長はこれも受け流して見せた。こっちはヒヤヒヤしっぱなしだ。

「だからって受け取りますか? 普通は断るものじゃないですか?」

「うーん……」

「それに、彼は綿貫さんのことだけ『莉乃』って呼び捨てにしてるんですよ?」

「それはー、入学当初に綿貫さんは自己紹介のときに『名字あんまり好きじゃないから、名前で呼んでね』って皆の前で言ってたからじゃないかな。ほら、あの一くんだって、莉乃さんって名前で呼んでるでしょ。だから……、それを彼は忠実に守ってるんですよ恐らく」

「は?」

「あっ、ああ、ちょうどいいところに和泉先生が。君ね、そんなに疑うなら、いま当人に訊いてみましょう。和泉先生~」

 若干いらつきが隠せなくなってきた男性教諭の口振りに、校長がそう提案を出した。

「なんでしょうか……」と偶然通りかかった和泉先生の抑揚のない声が続く。もうちょっと焦ろよ。

「うん。きみね、綿貫さんとつきあってる?」

「つきあって、ない……です」

「だよね〜。はい、この話おわりおわり!」

かるっ! そんな一言で済ますんですか!? 本人に言って『はい付き合ってます』なんて言うはずがないでしょう!」

「でも本当に付き合ってなかったら、『付き合ってないです』と言うしかないでしょう?」

「えっ、これ俺の気のせいなんですか!? 絶対つきあってますよ!!」

「しかしねぇ、証拠がないじゃないか」

 校長が呆れた口調で返す。

 皆、「絶対クロだ」、と悟ってはいるものの。かといって、二人がキスしてるのを見たとか、二人の熱いLIMEのスクショだとかそういう確固たる証拠があるわけではない。匂わせのようなものは感じるが、それだけだ。よって、二人は罰せられない。

 だが一方で、和泉先生に「つきあってない」と直球で言われてしまった莉乃ちゃんは、呆然と立ち尽くしていた。もうやめてあげてほしいのに、階下からは容赦ない会話が聞こえてくる。

「だよねえ。綿貫さんが一方的になついてるんだろう?」

「はい……」

「時間をとらせてまずいね。さ、もう行っていいよ」

「いえ……、こちらこそ……まぎわらしくて……、すみません……」

 莉乃ちゃんは、呆けていた。だんだん目が潤みだしていく。

 スローペースで階段を上ってくる足音がして、やってきたのは莉乃ちゃんのダウナー彼氏だった。

「あ……」

 階段を上がってきた和泉先生と鉢合わせた私たちの間に、何とも言えない空気が広がる。明らかに和泉先生は聞かれたことを悟った表情である。莉乃ちゃんもうつむいていた。

「……」

「……」

「あっ、あの、ぼくは図書室の鍵を職員室に返してこないといけないので、これで……」

 二人が話しやすいようにと気を遣って、席を外そうとする星廉。

「私もバスがあるから……」

 便乗。

「そうか、二人とも気をつけてな!」

「空気を読みましょう赤羽君~~」

「そうだよ」

「む?」

 私と星廉で赤羽君の腕を引っ張って、その場から退場した……と見せかけ、私たちは素早く廊下の影に隠れる。少々距離があるが、莉乃ちゃんと和泉先生の様子を覗き見るのには充分である。向かい合った彼女たちは黙ったままだった。

「の、覗き見なんて趣味が悪いですよ……」

「そう言いつつ、星廉だって見てるじゃないか。気になるんだろう?」

「シッ、莉乃ちゃんたち何か話そうとしてる」

 息をひそめて、廊下の陰から二人の様子を窺った。

「……莉乃…………」

「莉乃たちって、つきあってなかったんだね」

「なに、言って……」

「もうわかったよ。……ほんとは、莉乃の方が浮気相手で、あの子のほうが本命の彼女だったんでしょ」

 いつも高くて甘い声が震えている。

 口にしていて胸をえぐられるような言葉だろう。現に私は、聞いていて苦しい。

「ちがう、けど…………」

「じゃあ、どう違うのか言ってよ! あの先輩とつきあってるんじゃないの!?」

「あの先輩……って……??」

「とぼけないでよ! 自分でわかってるでしょ! ほらあの、この間クッキーもらってたでしょ、あのとき先生、うれしそうにほほえんでたじゃん……!」

「あの子は……、莉乃の、ファンなんだって…………」

 和泉先生のささやかな暴露に「え?」と声が出たのは莉乃ちゃんだけじゃなくて私もだった。でも小声だったのでセーフ。一瞬、意外そうに目を瞬いた莉乃ちゃんだったが、すぐ、瞳に疑惑の光が宿った。

「うっ、うそつき、いっちゃんや京先生ならまだしも、莉乃に親衛隊とかつかないもん!」

「これ…………」

 和泉先生がおもむろにスラックスのポケットから取り出したのは、包みに入ったクッキーだった。

「え? ……このクッキー、和泉先生があの子にもらってたやつ……。あれ? でも『綿貫莉乃さんへ』って書いてある……」

「これ……、あの子が、調理実習でつくったんだって……。綿貫さんのイメージにぴったりに出来たから……綿貫さんにプレゼントしたいけど……、勇気がでないから……、和泉先生が代わりに渡してくれませんかって……」

「え……?」

「あの子……莉乃のこと……、メイク、めっちゃ上手くて……尊敬するとか……、髪サラサラで……羨ましい、とか……すごく、褒めてたから……、何か俺まで……嬉しくなっちゃっ、て……」

 意外な展開だった。あの和泉先生が莉乃ちゃん以外の子に微笑みかけるなんて、もう浮気確定だと、心のどこかで確信すらしていたのだから。

「莉乃のこと褒めてくれたから、うれしくて、だから微笑んでたの……?」

「そうだよ…………」

「浮気してたんじゃ、なかったの?」

 和泉先生は五秒くらいかけて頷いた。まっすぐに莉乃ちゃんだけを見つめていた。

「ごっ、ごめんなさい……っ!」

 莉乃ちゃんが和泉先生に正面から抱きつく。和泉先生はその勢いによろけたが、どうにか支えきった。

「莉乃ずっと嫌な態度とってて、ごめんなさい。和泉先生が、莉乃以外の子と楽しそうにお喋りしてるとこなんて、見たことなかったから……。ほかの子のこと好きになっちゃったんじゃないかって、勝手に勘違いしてたの……」

 泣きそうな声で弁解する彼女の背を、和泉先生はそっと撫でた。

「莉乃が……、浮気してるでしょ……って言ってくれたら、俺、してないって……ちゃんと言えたんだけど……。でも、理由も言わず……俺のこと、避けるから……、俺、莉乃に、飽きられて、捨てられたんだと……思った……」

「ごめんなさい。ちがうの、浮気してるでしょ、って訊いて『うん』って言われちゃったら、莉乃もう立ち直れないって思ったんだもん……。それに和泉先生が浮気とか、信じられなかったから、自分のなかで考える時間ほしかったの……」

「……そっか…………」

「……怒ってる?」

 莉乃ちゃんが潤んだ目で和泉先生を見上げる。京先生が見たら、「これに絆される男なんてきっと全員大したことない」、とか言い放ちそうだから、彼がこの場にいなくてよかったと、外野の我々は内心安堵していた。

 和泉先生がゆっくりと頭を振る。

「怒ってない……。でも……、LIME、ブロック解除してほしい……」

「うん!」

 莉乃ちゃんが弾んだ声で返事をした。どうやら一見落着したようだった。

「よかったな、二人とも!!!!」

「あっ、赤羽君! だめですよ!」

「あ、しまったつい!!」

「みんな、まだいたの!?」

 莉乃ちゃんの驚いた声が飛んできて気まずい。

 会話の全容を訊かれたと悟った和泉先生の顔がスローモーションで青ざめていった。アテレコするとしたら、「暗に、生徒莉乃ちゃんとつきあってると言ったのを、生徒私たちに聞かれてしまった……俺の教師人生終わった……」という感じだ。杞憂きゆうすぎる。

「だ、大丈夫ですよ、ぼくたちは別にリークしたりしませんから!」

 星廉は良い子なので、両手をばたばたさせながらそう言ってあげている。

「ほん、と…………?」

「ああ! というか、大概みんな気づいてて黙ってるんだと思うぞ!」

「皆が……きづいてる…………?」

「赤羽くん、これ以上、和泉先生を混乱させないであげて」

 私は、後ろから赤羽くんのシャツの裾を強めに引いた。

 だって和泉教諭、顔色が青を通り越して土気色になり始めてる。死んじゃうよ、心が。というか、今までは本気で隠し通せてると思っていたのか??

「でも、知られてたって別にいいじゃないか! 二人とも幸せなんだろう!? それに俺は綿貫女史と同じ年数生きてきたが、そこまで想い合える相手に出会えたことはない!」

「何だ、さっきからうるせェぞ、ここは託児所か?」

 京教諭! と赤羽君は、階段を上ってきた男の名を呼ぶ。京先生は、ひっついてる莉乃ちゃんと和泉教諭を見て至極めんどうそうに眉をゆがめた。

「ったく、いつまで経っても図書室の鍵返しに来ねェから、ずいぶん熱心に勉強会してんのかと思いきや……。俺ァ、聡いからな、お前らがデキてることは知ってた。でもな、こんな廊下のど真ん中ではやめとけ」

「別にいいじゃないか! 二人が仲直りしたんだぞ! 俺たち以外だれも見てないし問題ないだろう!」

「仲直りってことは、浮気してなかったのか。よかったじゃねェか」

「そんなの……するわけない……」

 和泉先生は京先生をジト目で見ていた。思ったより不仲そうだな。

「よかったね、莉乃ちゃん」

「結婚式には呼んでくれ! ご祝儀は奮発しよう!」

 気が早いことこの上ない赤羽くん。でもいいこと言うじゃないか。ポジティブ人間の真骨頂って感じがしていい。

「式には呼んでね」、と私も乗っかってみた。

「ありがとう。でも……先生と生徒だし、さっきの先生たちが言ってたとおり、ほんとはいけないことだし……。莉乃のパパとママ、結婚とか許してくれるかな……」

 途端に莉乃ちゃんの表情が陰って、うわ地雷踏んだと頭をかかえたくなった。

「世間から、見たら……、よくない……ことだしね……。俺は、教師という、聖職に……、身を置く、立場なのに……、莉乃を、好きになって……、つきあってるってだけで……、いつ、懲戒免職に、なっても……おかしくないし……」

「ここまで堂々としててバレてねェとか奇跡だろ」

 頼むから黙ってくれ京教諭(赤羽くん風)。ていうか、もう隠す気ゼロなのかな和泉先生。自分で「つきあってる」って言っちゃってるけど。

「聖職だが、和泉教諭は教師である前に一人の人間で、別に神でも天使でもないだろう? 生徒と教師で純粋に惹かれ合うなんてことなかなかあることじゃないんだ! 男性教諭が女生徒を盗撮したり、女子高生が成人男性から金を巻き上げたり、片方が片方を利用する不健全な関係だって世の中にはあふれているのに、綿貫女史と和泉教諭は真剣交際しててお互いに幸せ者じゃないか!」

 赤羽くんはなぐさめているわけではなく、本心をそのままぶちまけている様子だった。和泉先生も莉乃ちゃんもこんなふうに言ってくれる第三者がいることが信じられないのか、ポカンとしていた。

「大丈夫だ! 綿貫女史と和泉教諭がしているのは普通の恋愛だぞ!」

 赤羽君が満面の笑みでトドメを刺した。莉乃ちゃんは目を潤ませて「ありがと」と笑った。すっかりいつも通りだった。和泉先生も微笑んでいる。

 それを見た京先生は、「よかったな」と淡々と一言だけ残し、星廉から鍵を受け取ると去っていった。

「ぼくらは帰りましょうか」

 空気が読める男、星廉。私は頷いた。赤羽くんが「じゃあな、二人とも!」と大声で手を振った。

 莉乃ちゃんと和泉先生を見て、素直にいいなと思った。浮気もせず、お互いに深く想い合える関係。もしも私もこういうふうに誰かとつきあえたら、きっとすごく幸せで楽しいだろうな……。

 でも、あんな幸せなカップルなんて滅多にいないし、私には縁がない話だ。きっと。

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