またもや、混乱

 私は、クラスの喧騒など気にも留めず黒板の上にある時計にばかり視線を送っていた。あれから一夜明けて朝。夜にLIMEで送られてきた星廉の解説を頼りに数学のプリントの余白を埋めていたらあっというまに寝る時間になり、布団に入ったら光の速さで朝が来た。

 和泉先生によるローテンションな朝のSHRも終わり、一時限目が始まるまであと十三分。私は自分の席でじっとしていた。数学の授業は運がいいのか悪いのか一時限目だったのだ。

 落ち着かない。もし、数学の授業がなくなれば、それは、天使が願いを叶えてくれたからだと結論付けられる……かもしれない。

 果たして、天使は本物なのだろうか?

 もし、このまま一時限目が始まっても京先生が教室に来なければ――。

「今日は全員来てるか?」

 ドアの入口から京先生が顔を覗かせた。

 どくり、と心臓が跳ねる。

「抜きうちで小テストをやる。言っとくけど成績に反映させるからな」

「この男、正気か!?」

 教室中がブーイングが上がった。

 けれど、私は何も反応できなかった。

 ああ、やっぱり。

 天使なんているわけない、か。

 ほっとしたようながっかりしたような。

「大変だ京教諭ーー!!!!」

 上下半袖の体操着を着た赤羽くんが、この世の終わりのような表情で勢いよく入室してきた。

「あ? なんだ、てめェは。B組は一限体育だろ。そんなに一と一緒にいてえのか、つきあいたての中学生カップルみてェだな」

「断じてちがう!! それよりももっと大変なことがあったんだ!!」

「和泉が早口で喋り出したか?」

「グラウンドにシカがいるんだ!」

 え?

 京先生が綺麗な顔を歪ませて「嘘つけ」と一蹴した。

 教室がどよめきだす。

 え? グラウンドにシカ……?

 いくら山の中腹にある学校だからってそんな……。

 私が横を見ると、星廉が窓を見たまま固まっていた。えっ、まさか。席を立って窓際に駆け寄る。グラウンドには、引いたばっかりの白線の上を、キョロキョロしながらさまよう小鹿がいた。

「シカさんだぁー!」

 莉乃ちゃんがうれしそうに声を上げる。

 わあっ、と皆からも歓声が上がる。椅子の脚が床を引っ掻く音が教室のあちこちから鳴り、皆が窓に駆け寄っていった。

「おいおいシカも出る場所考えやがれ。学校だぞ」

 莉乃ちゃんの肩口から窓の外を覗き込んだ京先生が、至極面倒そうに言った。

「な!? な!? 本当にいただろう!? 俺が一番に校庭に出たら、すぐ目の前にいたんだ! 近くで見て本当にびっくりした、十メートルはあったぞ!」

「赤羽君、十メートルは三階建ての建物と同じ高さですからありえないですよ」

 話を盛った赤羽君に星廉が冷静にそう返す。

「チッ、おい、警察と役所に電話してくるから俺が戻るまで自習してろ」

 京先生がそう言っても誰も聞いていない。スマホを持つ腕が外に向かって伸ばされている。写真やムービーを撮る音が幾重にも重なった。

「……おい、自習してろ。席に着け」

「無理! あんなに可愛いシカさんがいるのに勉強になんて集中できないよ!」

 莉乃ちゃんが言い出すが、京先生は「ただのシカだろ。俺ァ何とも思わねェ」とそっけない。

「なっ、京教諭……見損なったぞ! 前々から冷血な男だとは思っていたが、ここまでとは! 可愛いか可愛くないかはさておき、何とも思わないだと!? 一人ぼっちのシカがこんなところに紛れ込んできて心配とも、かわいそうとも思わないのか!? 学生のころ、道徳の成績1とかだったんじゃなのか!?」

「ふひひ、顔が良い分、人として大切な何かが欠損していますな」

「マジ冷たい大人! マジひでえ! マジ冷血人間! マジ悪魔!」

「……なんで、シカ一匹で俺がここまで責められなきゃいけねェんだ」

 ハア、と大げさにため息をつくと彼は後頭部をがしがし掻いた。見るからに不機嫌そうに一階の職員室へと向かうべく教室を去っていってしまう。きっと警察と役所に電話しにいくのだろう。

 大多数のクラスメイトは、グラウンドに目が釘付けになっていて京先生がいなくなったことにすら気づいていない(シカ以下の教師)。「かわいい」、「まだ小さいね」、「お腹すいてないかな、大丈夫かな」とシカをでたり健康状態をおもんばかったりしている。

 たかがシカ一匹、動物園に行けばいくらでも見れるだろうに……と、私は人知れず京先生同等のドライ思考でいたが、そのうちハッとなった。

 これ、数学の授業中止の流れになってるんじゃ……?

 だって、こんなタイミングでシカが学校の敷地内に紛れ込んでくるなんて、やけに作為的だ。天使の力かもしれない。日常的に紛れ込んでくるのなら、まだ偶然で話がつくかもしれないが……。

「ほんとに可愛い~~」

 Xperia(本体と透明なシリコンカバーの間に、手で顔を隠した彼氏と自分のプリクラが挟まっている)を横向きに構えて夢中でムービーを撮る莉乃ちゃん。

「でも小鹿なのに親がそばにいないぞ」

 いまどきでは珍しくガラケーでカシャカシャ写真を撮る赤羽君。

「群れからはぐれちゃったんですかね……」

 iPhoneでブラウザを立ち上げ、「ニホンカモシカ 天然記念物」と検索している思案顔の星廉。

 ……この様子だとシカが頻繁に出没するわけではないのだろうことは明らかだった。

 昨日、数学の授業がなくなるように天使に願って、そして今日数学の授業が始まる間際になって、イレギュラーな事態で授業が中断されている。

 やっぱり、こんなにタイミングよくシカが出没するなんて、ただの偶然にしては少しおかしい。

 皆が窓に張り付いてシカの動向を見守っている間、私は本も読まずに自分の席で石のように固まっていた。

 しかも、シカが現れた時間帯と数学の授業の時間がうまい具合に被っているというのにも引っかかる。

 これって、やっぱり天使の仕業?

 もし、このまま京先生が職員室から戻ってこなくて、数学の授業が行われなかったとしたら……。

 スカートの上に置いた両手が自然と拳になる。

 緊張と興奮と高揚のマーブル状態になった気持ちで、私は一限目の授業が終了する時刻になるのを大人しく待った。


 授業が終わるまで、あと三十分もある。

 皆はシカが珍しいらしく、まだクラスメイトの大勢が窓に張り付いている。先生だって、今からまだ戻ってくるかもしれない。


 授業が終わるまで、まだあと二十分。

 飽き始めたのか、窓に張り付いてシカを観察しているクラスメイトは半分ほど減った。まだ、まだこれから先生が戻ってくるかもしれないし、プリントかなにか一枚解くくらいの時間の余裕はある。

 

 授業が終わるまで、あと十分。

 警察と猟友会の人たちが到着がグラウンドに到着した。事の顛末てんまつ俄然がぜん気になりだしたようで、またクラスメイトの大半が窓に駆け寄る。シカが捕まるかもしれない。今、先生が戻ってきても教科書の章末問題を解くくらいの時間はまだ残っている。


 授業が終わるまであと――――。


 授業する気が失せたのか、単に面倒になったのか、けなされて機嫌を損ねたのか。京先生が職員室から戻ってくることはなく、数学の授業が行われることがなかった。

 そして一限目――本来なら数学の授業が行われるはずだった時間――が終わりチャイムが鳴った瞬間。警察と猟友会のおじさんたちが捕まえるのに苦戦していたシカは、あっさりと捕獲された。あまりにも出来過ぎたタイミングだった。

 パリピが「あ、つかまったし」と呟く。

 そして、私のiPhoneから通知音がした。画面を見る。天使からメッセージが届いていた。



〈願い事の成就が完了しました〉



 腕に鳥肌が立ち、勢いよく席を立った。

 シカの種類について気になったのか、ノートにシカの生息地を書き留めていた星廉が肩を揺らす。

「い、祈璃ちゃん? 具合わるいんですか?」

 こわばっていただろう私の表情を、体調があまり優れないためと解釈したのかそう言われた。彼は、眉間から位置が少しズレた眼鏡を指で上げ直している。

「やばい」

 私はそれだけ言うと教室を飛び出した。後ろで星廉が「えっ」と声を上げたのが耳に届いた。休み時間になったため、廊下には生徒がちらほらいたが、なりふり構ってられず一人になれる場所を目指してひたすら走った。万が一だれかに天使のLIMEアカウントを見られでもしたら、面倒なことになりかねない。

 すれ違った女子に「うわ、可愛いっ」とか言われたけど、今は営業スマイルを浮かべて応対している余裕もない。

 誰も来ない場所――昨日みんなでお昼を食べた、あの四階の階段の踊り場を目指して階段を駆け上がる。手のひらと背中が汗で湿る。口の中が異様に渇いた。

 天使が、本物だった。

 にわかには信じられない、フィクションのような展開に、心臓がふるえる。



【ほかに、願い事はありますか?】



 ようやく踊り場にたどりついたとき、スマホから鳴った受信音。

 薄暗い空間に、スマホの明かりだけがまばゆく光っている。送られてきたその文面を読み返した。

 唾をのみこむと、震える指先で、昨日礼拝堂でも口にした「願い事」を打ち込んだ。



〈東雲篤貴がお母さんと離婚しますように〉



 紙飛行機のマークを押して、送信する。さっきとはちがう種類の音が画面の上で鳴る。

 私の願い事なんて、それ以外なかった。

 たとえ、どんな課題が送られてきたって、何だって受け入れて完遂して見せるつもりだった。前の家の居心地の良さを取り戻すためならなんだってする覚悟があった。

 あいつと家族じゃなくなりたい。血がつながっていることはもうどうしようもできないのがくやしいけど、でも、それならせめて、「家族」ではなくて「血がつながってるだけの他人」になりたい。

 その叶わない願いは、ずっと心の奥底に沈んでいて、見えない岩のようにずしりと胸にのしかかり続けていた。

 でも、これでようやく解放される。楽になれる……。



【承知しました。タスクを送信します】



 天使から送られてきた承諾の旨に、階段を駆け上がったせいで乱れた呼吸が余計に荒くなる。緊張のせいか、立っているのも落ち着かなくなり、とうとう踊り場の壁にもたれかかってしゃがみこんだ。

 汗ばむ指でスマホを握りしめ、課題が送られてくるのをかたずを飲んで待つ。額につきそうな距離でスマホを握り、目をつむった。

 なかなか送られてこない。

 いったい、どんな内容の課題が送られてくるんだろうか。一個や二個じゃないかもしれない、もし、犯罪に手を染めろとかいう内容だったらどうしよう……。

 思考が不安に塗りつぶされかけたとき、連続で受信音が鳴った。

 顔を上げ、こわごわと画面を確認する。思わず、目を瞬いてしまった。





【明日から毎日、登下校の際に異性と手をつないでください】



【一度以上、異性と抱擁してください】



【一度以上、異性とデートしてきてください】



【前述した三つのタスクをこなした相手と口づけを交わしてください】





「……え?」

 蝉がジワジワと鳴いていた。

 見間違いではないかと何度も瞬きを繰り出したが、メッセージの内容は変わらなかった。

 これ、どれも恋人とするようなことばかりじゃないか……。

 戸惑う私をよそに、受信音が鳴る。



【課題をこなし次第、願い事を叶えます。なお期限は一か月です。期限内に課題を達成できなかった場合、申請した願い事の成就は無効となります。】



 そこで、メッセージが途絶えた。

 頭が真っ白になった。体から力が抜けて、床に座り込む。

 まわりくどいことこの上ないが、この課題の数々は、恋人をつくらないことには達成不可能だった。というかもはや、ここまでお膳立てされると「彼氏をつくれ」と言われているも同然だった。

「うそ……」

 いきなり突き放された気分だった。あまりのことに愕然となり、かすれた声がでる。スマホを持つ手が、先ほどまでとは違う意味で小刻みに震えた。

 異性。登下校のとき手をつなぐ。抱擁ハグ。デート。キス……。

 恋愛小説のなかでよく見かける単語たちが、ぐるぐると脳をかき乱していった。

 こんなの意地悪すぎる。

 きっと、天使は知っているのだろう。

 私が、浮気されるのが怖くて誰ともつきあいたくないと思っていること、そして実際に恋人をつくるのを避けていることなどを。

 私ほど顔が整っていれば、恋人の一人や二人つくるということ自体は造作もないことではある。でも、浮気というトラウマを持つ私が、恐怖心に打ち勝って彼氏をつくり、この課題を一か月以内に全てこなすということが、どれだけ酷か、どれだけ達成することが難しいかを、天使はきっと把握している。

 意地悪なことこのうえない課題だと思った。

 今の私のままじゃ、彼氏をつくらないことには、これらの課題は達成することができないのだから。だってそうだろう。こんなカップルみたいなことの数々を、恋人でもない男子に何て言って頼めって言うのだ。恥ずかしい。特にあの最後の……。

 改めて、天使から送られてきた課題を確認する。



【前述した三つの課題をこなした相手と口づけを交わしてください】



 ……百歩ゆずって、手をつないだり、デートに行ったり、ふざけてハグをしたりは異性の友達でも、距離が近い人であればそれほどおかしいことではないのかもしれない。

 でも、この最後の課題だけは友達の関係のまましてはいけない行為だ。つきあっている関係じゃなければしてはいけない。普通、友達とキスはしない。

 サイドのボタンを押してスマホの電源を落とす。画面がサッと墨色に塗りつぶされた端末を握りしめた。

「……意地悪すぎる」

 涙声になったことに、自分でも少しでも驚いた。

 そして、さっきまで騒がしかった階下がシンと静まり返っているのに気づいて、二時限目の開始時刻が迫っていることを察した。

 ……戻らないといけない。

 しかし、立ち上がると同時に目の前の景色が揺らいだ。

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