やっぱり、無謀

 平衡へいこう感覚がおかしい。

 貧血だ、と理解するのに時間はかからなかった。

 朝食も摂らずに、二階から四階までの階段を全力で走ったせいだ。思い返せば昨日の夕飯のエビピラフだって、半分も胃に入れずに残してしまっていた。運動量に対して、摂取した栄養が足りていなかったのだ。

 足に力が入らず、体が傾きそうになる。倒れたら大変なので、壁に手をつきながらずるずると踊り場の床に座り込んだ。

 ……気持ち悪い。

 視界が赤と黒に明滅する。ぎゅっと目をつむって呼吸を整えると、ほんの少しだけ楽になってきた。

 でも、こんなふらふらの状態で一人で階段を降りるのは心もとない。万が一、階段を降りている途中で倒れ、かなりの段数を転がり落ちたりでもしたらまずい。

 どうしよう……。

 気分の悪さに一人耐え忍んでいると、階下から靴音が近づいてきていることに気づいた。正面を見ると、階段を上がってきた莉乃ちゃんと目が合った。

「あっ、いっちゃん、こんなところにいた! お手洗いにも自販機にもいないから探したよ! もう次の授業始まっちゃうけど……、あれ? え、どうしたの大丈夫!?」

 莉乃ちゃんが階段を上がって、私がうずくまっている踊り場まで駆けつけてきた。「えっ、なあに? どうしたの?」と言いながら私の背中を小さい手でなでてくれる。

「ちょっと、貧血で……」

 かろうじて私はそれだけ伝えた。

「えっ、それで、皆に心配かけまいとこんな人目のないところで休んでたの? いじらしい……!」

 それはちがうけど……。

「立てる? 莉乃が来たからもう大丈夫だからね。一緒に保健室に行こうね。莉乃につかまってもいいよ」

 莉乃ちゃんは柔和な笑み。私の腕を引っ張って立たせ、転ばないように支えてくれる。

 弱っているときに柔らかい笑顔を見ると心がとかされそうになる。莉乃ちゃんの腕に支えられながら、ここまで駆け上がってきたのが嘘みたいな速度で階段を降りた。



 一階の保健室にたどりつくころにはもうすでに二時限目が始まっていたが、莉乃ちゃんは体温計で私が平熱なのを確認したり、ベッドに寝かせてタオルケットをかけたりと甲斐甲斐かいがいしく私の面倒を見てくれた。和泉先生のことになるとちょっと頭のねじが緩みがちだけで、もともと面倒見がいい優しい子なんだろうな。

 私はベッドに横になったまま、エアコンのリモコンを操作して冷房をつけている莉乃ちゃんを見上げた。目が合うと、莉乃ちゃんは「二十六度くらいにしとくけど、寒かったら上げてもいいからね」と私の枕元にリモコンを置いた。

「……ありがと」

「ううん。莉乃、年の離れた弟がいるから、人のお世話するのちょっとだけ慣れてるの。だから気にしないで」

「……保健の先生はいないの?」

「今日はいない日みたい。木曜日と月曜日は来ないから」

 非常勤というやつだろうか。そりゃ、こんな廃校目前の高校に潤沢な人件費があるわけもない。

「あ、そういえばいっちゃん貧血って言ってたけど、もしかして女の子の日? お腹とか腰とか痛くない? 莉乃お薬持ってるけどあげようか??」

 莉乃ちゃんが自販機で買ってきてくれた温かいお茶を差し出しながら、そう尋ねてきた。

「ううん、大丈夫。生理とかじゃないから……」

 今までそういう話をするような友達がいたことがないので、何となく気恥ずかしくなる。

 でも、前に来たのはいつだったっけ。東雲篤貴の浮気が発覚した先月は、ストレスのせいで予定日が大幅に遅れて、ついにこなかった。もしかしたら今月もこないかもしれない。

 莉乃ちゃんは「そっか」と言って笑った。

「じゃあ、莉乃もうそろそろ行くね。たぶん転校とかの疲れが出ちゃったのもあると思うから、ゆーっくり休んでてね。絶対、動いちゃメッ! だからね」

「……うん」

 そう返事した自分の声量は、普段よりも小さかった。

 体調がすぐれないとき、どうして人はさみしくなりがちなのだろう。

 莉乃ちゃんは、私が心細いのを感じ取ったのか、口をへの字にして何だか泣きそうな顔になっていた。

「できればついててあげたいけど、莉乃つぎの授業でなきゃだから……! ごめんね……!」

 彼女は、今生の別れのようなテンションでそう告げると、保健室を出て行ってしまう。

 莉乃ちゃんがつけていってくれた冷房が駆動する音だけが、清潔で静謐せいひつな室内に響いていた。

 一人になり、ふっと天井に向かって息を吐く。

 気分は少し良くなってきていて、天使のことについて落ち着いて考える余裕も出てきていた。

 どうしよう。

 本当は、叶えられるものなら叶えたい。

 だけど、あの天使からの課題を達成するには、恋人の存在が必須である。でも私は恋人なんて絶対つくりたくない。いろいろ理由はあるけど、「もし、付き合った男に浮気されたら嫌だから」だというところが大きかった。東雲篤貴の浮気の一件だけで充分ショックを受けたのだ。もうこれ以上は浮気に振り回されたくなんかないし、ましてや当事者になんてなりたくない。

 それに、もし恋人に浮気されていなくても、「もしかしたら浮気してるかも」という膨大な不安をかかえる日々を送ることになりそうだ。そんな毎日を一か月も送るなんて冗談抜きで気が狂いそうだ。

 どうしても、今の私では無理。裏切られる恐怖が勝って、恋人を作る気になんて到底なれない。でもそれじゃ天使の課題を達成することは出来ないから、あの願い事を叶えてもらうことなどできないのだ。……今回は諦めるしかない。

 一度期待してしまっただけに、落胆する気持ちと悔しさを織りまぜた感情で胸が苦しくなる。

 しかしこんなことで泣くのも馬鹿らしいと思い、にじみそうになる涙を瞬きで押し込めて、頭からタオルケットをかぶった。



「失礼します……」

 緊張したようにこわばった星廉の声と、保健室のドアが横滑りに開く音で目が覚める。いつのまにか、すっかりまどろんでしまっていたようだった。冷房がガンガンかけられていて、タオルケットからはみだした腕が寒い。

 上半身を起こす。ベッドの周囲に吊るされたカーテン越しに人影が見えた。

「祈璃ちゃんいますか?」

「うん……」

「あっ、起きてるんですね。ぼくです。カーテン開けてもいいですか?」

「うん……」

 半分寝たまま答えながら、寝乱れ髪を手櫛で軽く整える。

 シャ……、と乳白色のカーテンが控えめに開いた。ビニール袋と、なぜか私のリュックを持った星廉がいた。

 星廉は、「よかった、朝よりも顔色いいですね」と安堵したように表情を緩めた。

「何で私のリュック……?」

「あ、昼休みになったので。お弁当とか入ってるんじゃないかなと思ったんですけど、女子の鞄を勝手に開けるのはちょっと気が引けて……」

 昼休み、という単語が星廉の口からこぼれて、瞼の重さは吹き飛んだ。

 え、うそ、私どんだけ眠ってたの?

 スカートのポケットに入れたiPhoneを確認する。時刻は十二時を少し過ぎていた。三時間近く眠っていたらしい。「うわあ……」と呟きがこぼれた。

「ありがとう。お弁当はないけど……、リュックに財布入れてたから助かる……」

 今から購買でパンかおにぎりを買いに行っても間に合うだろうか。そんなことを考えて時間を計算していると、星廉が口を開いた。

「もしよかったら、いくつかもらってくれませんか? 買いすぎてしまって」

 左手に持っていたビニール袋を彼が持ち上げる。かさりと鳴る。

「え、いいの?」

「はい。むしろ、もらってくれると助かります。新しく入ったパンやらおにぎりやらいっぱいあって気になっちゃって……買って、原材料とか添加物とかカロリーとかの項目をじっくり見て満足したはいいんですけど。ぼく小食なので食べきれそうになくて」

「星廉、体脂肪率ひくそうな身体だもんね。腕とか脚とか細めだし」

「172.1センチで59.3キロって痩せ型なんですかね? ……そういえば、ぼくは自分の体脂肪率を知りません。いくつなんでしょう……」

「私に訊かれてもわからないよ……。お昼ごはん食べたいんだけど」

 そう言うと、彼はハッとなったようだった。「好きなの選んでください」と、ベッドの端にラップに包まれた焼きそばパンやメロンパンを置いていく。そのなかにおにぎりも混じっていて、何となく昨日たべたおにぎり弁当を思いだした。梅おにぎりを手に取る。

「それにしますか? 梅には疲労回復効果があるんですよ。莉乃さんから聞きましたけど、貧血だったんですよね? 海藻類とかは貧血予防に良いって聞いたことがあります。……あ、昆布のおにぎりならありますけど食べますか?」

「へえ……ありがとう。たぶん貧血で倒れたんだと思うから、昆布も食べとくね」

「そうしたほうがいいです」

 博識な星廉に感心しながら、私は梅と昆布のおにぎり二つを受け取った。

「いただきます」

 包装を破って、一口食べる。

 温かくはないけど冷え固まっているわけでもないお米は、ふっくらとしてほのかな甘みがあった。

「おいしい……。あ、そういえば、莉乃ちゃんは?」

 思い出して尋ねる。私を保健室まで連れてきてくれたのだし、あとでお礼を言おうと思っていた。

「五限に提出する倫理のプリントが終わってなかったから、やらなきゃいけないそうで。『一くん、代わりにいっちゃんの様子見てきて』って頼まれたんです」

「あ、そうなんだ」

「……祈璃ちゃん、あの、すみませんでした」

「え? なにが?」

 いきなり謝られて、わけがわからず瞬きを繰り返した。星廉は歯切れ悪く言葉をつづけた。

「その……、隣の席にいたのに具合が悪かったことにも気づけなくて……。なんだか情けないです」

 そう言われてようやく合点がいった。責任を感じているのだ、彼は。

「いや、気にしないで。具合悪くなったの一時限目が終わってからだし。星廉は悪くないから」

 私は手と頭を振って否定した。

 そうだ。星廉には何の落ち度もない。ただ私が朝食を摂らずに学校に来て、天使が本物であったことに興奮して二階から四階までの階段を全力で駆け上がり、結果、貧血で倒れたというだけの話だ。

「ていうか、体調わるくなったおかげで授業でなくて済んだし、星廉からおにぎりもらえたし、むしろラッキーだよ」

 私がおにぎりを持って笑いかけると、星廉はようやく表情を緩めた。

「まだあるのでいっぱい食べてください」

「ありがと」

「それで、あの……、ぼくもここで食べていいですか?」

「え。いいけど、赤羽くんは? いいの?」

 訊くと星廉は、ベッド下に収納された丸椅子を引っ張り出して腰かけながら、「数Bの単位を落としかけてるそうで、昼休みは京先生と緊急二者面談だそうです」と苦々しい表情で答えた。

 赤羽くん、そこまで数学が苦手なのか……。私より危機的な状況にある。

 やばいね、と思わず眉をひそめて言うと、星廉は「やばいですよ~……」と両手で顔を覆った。まるで自分のことみたいに。

「赤羽くんが留年しちゃったら大変ですよ」

「留年したら後輩になっちゃうもんね。星廉、赤羽くんが後輩になっても『赤羽、パン買ってきてくださいよ』とか言っちゃだめだよ」

「友達をパシリにしたりしませんよ!?」

「でも赤羽くん素直だし天然だから、『いいぞ、三分で買ってくるから待っててくれ星廉先輩!』とか言いそうだよね」

「祈璃ちゃんちょっと面白がってません……? 大変なんですよ本当に……」

 揶揄われてることに気づいたのか星廉は、やきそばパンの袋を破きながら嘆く。透明な包装ビニールに【¥150】という金額が書かれたシールが貼ってあるのが見えた。

「あ、そうだ。私おにぎりの分お金はらうよ」

「え、いいですよそんなの。二百円くらいですし」

「たしかリュックに財布があるから……」

 膝にのせていたリュックを開けて、中身をまさぐっていると、例によってファスナーがずるずると開いていく。リュックの奥底にあった二つ折りの財布を見つけて掴んだ時には、中に入れていた文庫本やポーチが、全開になったファスナーの間から床にこぼれおちていた。

「あっ」

「大丈夫ですか?」

「ごめん」

 ベッドから降りて拾おうとしたが、先に星廉が椅子から降りて全部拾ってくれている。

 優しい。

「なんですか? このノート」

 ふと、星廉が床に向かってそう言ったので私も何気なく視線を落とす。



 そこにあったのは、だった。



 今ほど、ファスナーの緩くなったリュックを買い替えておけばよかったと思ったこともなかった。

 よりにもよって文章を綴った紙面が開かれた状態で床に落ちているのを見て、思考が停止する。

 なんでいつも家に置いてるはずのノートがリュックに、と思ったがすぐに昨夜の記憶がよみがえった。

 昨日の夜、数Bの予習やら復習に時間が掛かってしまい、ふとんに入ったのが午前一時過ぎだった。それから天使のことが気がかりでなかなか寝付けず、起きるのが少し遅くなった。

 時間割もそろえていなかった私は、あわてて机の上にある数学のノートや教科書をリュックに放り込んだのだ。そのとき、教科書の下に広げたままだったリングノートも一緒にリュックに入れてしまった。

 バスで文庫本を読もうとした時に気づいたけど、リュックから取り出さなければ誰にも読まれることはないから平気だろうと思って気にも留めていなかった……。

 心臓が暴れるように鼓動して、胸の内側を叩かれているようだった。

「……『東雲篤貴』……?」

 星廉がノートを拾い上げて、紙面に視線を注いでいる。

 なんの衒いもなく、文章を読み上げた声に心臓がキュッとなった。本もポーチも拾ってくれた星廉は、開いたリングノート――書き綴られたラメ入りのペンの筆跡を訝し気に見つめている。

 よりにもよって、浮気が発覚した当日の瞬間のことを書いたページだった。

 だめだ。もう絶対バレた。私の父が浮気したってことが。

 今この段階で、見ないでって言ったって、もう手遅れなのは歴然としていた。

 焦りに拍車がかかっていく。

 どうしよう、なんて言えばごまかせるんだろう。いや、そもそももうこの段階ではごまかせないのか。

 前の学校で、東雲篤貴の浮気を知って私を見る周りの目が一八〇度変わったことを思い出す。背筋が冷えた。心臓がバクバクと音を立てる。

 また、ここでも噂が広まったりしたら、またあのときみたいな扱いをされてしまう。それは嫌だ。なにがあっても、私の家庭事情だけは知られたくなかったのに。せっかく転校してきたのに……。

 喉が嫌に渇く。声が出ない。とっさのハプニングに頭がまわらなかった。

 やがて、少しの沈黙を置くと彼は独り言のように言った。

「……すごいですね」

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