まさかの、展開
『すごい』
良い意味にも悪い意味にもとれるその形容詞に、心臓がどくり、と一際大きく音を立てた。
恐る恐る彼の様子を窺うと、星廉は真剣な表情でノートに釘付けになっていた。
すごいってどういう意味だろう。もしかして、引かれたんだろうか? 親が浮気して、前に住んでいた街から逃げるように越してきただなんて、ドン引き必至の事案ではある。気持ち悪い父親を持つ娘だと思われても何ら違和感はない。でも、星廉にそんなふうに思われたのだと思うと、なんだかショックだった。最悪だ。
ぎゅっと拳をにぎりしめる。何で、こんなことになっちゃったの……。
「すごいですね! この小説!! 祈璃ちゃんが書いたんですか!?」
突如、UFOを目撃した小学生みたいな無邪気さで、彼が勢いよくノートから顔を上げた。
奥二重の目が、メガネの薄いレンズ越しにきらきらと輝いて、私を見ている。
「…………へ?」
らしくもない、間の抜けた声が喉を飛び越える。
何を言われたのか、理解できなかった。
……いま、彼は何て? ……え、小説って言った?
私がポカンとしている間も、星廉は楽しそうに、無遠慮に、ページを捲っていく。私のリュックを開けるのは躊躇するくせに。自分の知らないことを前にするとちょっと理性が飛ぶ星廉の習性が、思い切りでていた。
「すごいですね! 小説書けるなんてかっこいいです! 祈璃ちゃん、本好きなんでしたもんね! 幼稚園のころから絵本とか読んでましたし……、なんか昨日の自己紹介でも小説書いてるって言ってたって、だれかが言ってました!」
「いや、え? ……え? ちょっと待っ」
「これ、小説の賞とか出さないんですか?」
宝石みたいな輝いた双眸で褒めちぎられるが、どういう気持ちでいたらいいのかわからなかったし、このうえなく返答に困った。
この人は、本気でそれを小説だと、フィクションだと思っているのか?
だって、そこには私と同じ苗字の男の名前が書いてあるし、父とかいう情報もばっちり文章の中に組み込んである。いや、でも私、自分の名前は、書いてなかったかも……。
「この東雲篤貴って人が主人公なんですか? あっ、それとも、東雲篤貴は準主人公? 述懐を進めてる人物が主人公ですかね? 回想から始まるパターンのやつですね?」
屈託のない笑顔で次々と問いを投げかけられ、彼が本気で小説だと誤解しているのだと悟る。
たまに、男子高校生にしては純度が高いところがあると思ってたけど、いくら何でも純朴すぎないか。
でも、ふっと体から力が抜けていく。握りしめていた拳が自然とゆるんだ。安心したのだ。本当のことが、何一つバレたりしなくて……。
「これ、どういう小説になるんですか? ミステリーですか? すごい憎悪が詰まった文章ですけど殺人事件とかに発展します?」
星廉は本当に無邪気だった。「創作」という、自分の知らない界隈のものに触れられたことがうれしいのかもしれない。しかもそれを再会した私がしていたから、その点にも感激しているのだろうか。
「えっと……」
ようやく声を発した私だったが、目が泳ぐ。何しろ、それは本当は小説なんかじゃない。ただの日記みたいなものなのだ。でも、まさか本当のことを言うわけにはいかない……。
ベッドのへりに腰かけた私は、ギュ、と片手でシーツを握りしめた。心臓が早鐘を打つ中、冷房でかさついた唇をひらいた。
「えっと……それは、そのノートは小説のアイデアを書きつける用の、ネタ帳みたいなもので、まだ、どんな話にするかは決めてなくて……、ていうか、まだちゃんと一本書いたこともないんだけど……まあ……、書いてみよっかな~……みたいな?」
一度も物語を書いたことはない。その経験の浅さから嘘が露呈するのを恐れたのと、単純に星廉に対する罪悪感のせいか、小説だとはっきり言うのは憚られた。
「そうなんですか! じゃあ、これは何となく思い付いたシーンを書き留めたってことですか?」
星廉が、『妻以外の女性の前であんな顔をするような男はもう父親とはいえない。』などという言葉が並ぶ紙面を見ている。私は、首裏に冷や汗をかきながら「そう。そうそうそうそう」と、何度も首を縦に振ってみせた。
「へえ~! なんかプロみたいですね! ぼく、そういう界隈のことは全く知らないんですけど、興味あります……!」
「あ、あんまり見られるの恥ずかしいからもう返してくれない?」
いたたまれなくなって腕を伸ばすと、星廉は「あ、ごめんなさい。そうですよね」と素直にリングノートを返却してくれた。
「でも、祈璃ちゃんがこういうサスペンスみたいな物語を考えてるなんて意外でした」
「え、そうかな?」
「はい。祈璃ちゃん、系統的には清純派っぽいじゃないですか。だから、小説書くのと読書が趣味って人づてに聞いた時は、純文学とか書くのかなって」
「そ、そうなんだー……」
「あ、でも祈璃ちゃんは純文学じゃなくてもちょっと切ない青春小説を書きそうなイメージあります。夏目漱石のこころみたいな!」
「そんなの書くの無理だって……」
苦笑いしながら、そこはハッキリと否定しておく。国語の教科書に何十年も載るような小説だ。現代ではきっと誰も書けないだろう。
「こころはフィクションですけど、漱石は自分の体験をもとに小説を書くこともあったみたいですよ。坊ちゃんなんかは特にそうで、主人公が赴任した四国の中学は、漱石が赴任した中学をモデルにしているというのが研究者の間では有名です」
「へえ……」
星廉は博識だ。いろんなことを知っているな、と感心していたら「そういえば」と彼はさらに続けた。
「祈璃ちゃんは実体験をもとにしたりしてないんですか? 雨が降る中、走るシーンとか……何かあの描写が妙にリアルだったので気になります」
「……そうだね、雨が降るなか夜の街を走ったのは本当だよ」
辟易とした気分で、答える。
「そうなんですね……! 人に訊くとか取材とかしなくても、実体験をもとにしたり、実際に自分が経験したことを書くとそれはそれで物語の精度が高くなりそうですよね!」
星廉は得心したように何度も細かく頷いていた。知識欲が満たされて心なしか彼の肌がつやつやしてきた気さえする。でも。
ジッサイニ、ジブンガケイケンシタコトヲカクト、セイドタカクナリソウ。
私は、そんな星廉の言葉を聞いて、なにかとなにかが結びついていくのを感じていた。
昨日、バスの中で、取材に行くときは連れていってくれと目を輝かせていた星廉。
たった今、東雲篤貴のことをたくさん書いたノートを、小説と間違われたこと。
そして、数時間前に天使から課された課題の内容。それらが頭をちらついた。
あの課題をこなすには、彼氏という存在が必須だと思っていた。でも、もしかしたら、この方法なら彼氏をつくらなくても――……。
微かな希望の光が見えた刹那、星廉に嘘をつく罪悪感はほぼ消失し、自然と口は動いていた。
「……あのさ」
ほぼ呟きに近かったけど、彼の耳は私の声を拾ったらしく、こちらを見た。
「……さっき、まだ、どんな話にするかは決めてないって言ったけど……。本当は、恋愛小説にしようかなって思ってて」
平常通りの声音で嘘をつけたことが、自分でも少し意外だった。私は小説すら書いたことがないのに。
「え、あんなに不穏な感じだったのにですか? 恨み辛み悲しみ凝縮されてましたけど、あれが恋愛ものに……?」
「……うん。そうする、つもりなの」
多少ゴリ押しにはなるが、嘘をつきとおす。
何度も言うが、私は小説なんか書いたことない。書く予定もない。このリングノートの中身は実在する人物のことを小説の地の文に似せて書いただけ。
「カップルが出てくる恋愛小説を書きたいんだけど、でも、私だれともつきあった経験がないから、彼氏がいるってどんな感じなのかわからなくて。どう、カップルを書いていいかわからないっていうか」
嘘と真実が半々な言葉が口を
「それで、星廉が、だれかに聞いてみるよりも実際に自分が経験したことのほうがリアルに描けるかもって言ってるの聞いて、ひらめいたんだけど――」
速度を増す心音とは裏腹に、私は完璧な営業スマイルで言っていた。
「私と、手をつないだり、デートしたり……恋人がするようなことをしてくれないかな。恋愛小説を書く参考にしたいから」
心臓が裂けそうなくらい強く脈を打っている。
ずっと大人しく聴いていた星廉が、一瞬だけ目を瞬いた。驚いたようだった。無理もない。でも、承諾してもらえたら、これ以上ないくらい好都合だと思った。
天使は、「異性と手をつなぐこと」、「異性と抱擁すること」という文書を送って来ていた。そう。異性でさえあれば、必ずしも間柄が「恋人」でないといけない必要はないのだ。デートや手つなぎという、まるで恋人がするような内容の課題だというだけで。
課題の内容が、あまりにも恋人同士がするようなことのオンパレードだったから、このタスクを達成できる相手がいるとしたら、それはきっと恋人だけなのだと錯覚してしまっていた。
でも、この方法だったら――。
「あの……それって、つまり、僕が祈璃ちゃんと恋人ごっこをするということですか…………?」
そう、と肯定しようとして「そ」とまで声に出しかけて、気づいた。
星廉が、私を見てめちゃくちゃポカーンとしていることに。
……あれ?
思っていた反応とだいぶ違う。少し脳みその温度がすう……と冷えていくのを感じる。そういえば、前に「皆、恋したこと無いの?」とかいう話題になったとき、たしか星廉は……。
『恋愛は未知で未踏の分野です……』
そんなことを言っていた。しかも恋をしたことがないとも、現在恋人もいないとも言っていた気がする。まって、そんな人に恋人ごっこって結構荷が重いのでは……?
「えっと、星廉って、今まで彼女とかいたこととかある??」
人並みに垢ぬけた格好をしてるし、一人くらいはいてもおかしくないんじゃないかと淡い期待をこめて尋ねた。でも、彼はぽかんとした顔のままゆっくりと首を左右に振ってみせる。
今までにも彼女いたことないんだ……!
いや、でも星廉はほとんど勉強一筋で生きてきたわけだもんな。しかも前まではすごく頭いい学校(しかも殺伐とした校風の)にいたんだし、恋愛をする暇も余裕もなかったのかもしれない。
え、待って。星廉に今まで恋人がいたことないってことは、じゃあ私がやろうとしてることって……まるで、無垢な星廉を無理やり恋人ごっこに誘ってるみたいな……。そう思ったら途端に罪悪感が芽生えてきた。
星廉は完全に放心していてポカンとしている。……もしかして、「いくら創作活動に活かすためとはいえ、好意を持ってるわけでもなければ、つきあってるわけでもない僕と、手をつなぐとかデートするとか、女子なのに破廉恥すぎでは」とか思われてるんじゃ……。うわ、そうかも。星廉ってなんかピュアなとこあるし。初めてのデートの相手とか手をつなぐ異性っていうのは、クラスメイトの私相手ではなく、いつか恋人ができたときのためにとっておきたいとか思うタイプだったのかもしれない……!
「いや、星廉ちがうの、私べつに星廉にそんな無理をさせるつもりは……!」
「恋人ごっこって、具体的にはどのくらいの期間やるんですか……?」
「えっ?」
あせって口を開いた私に、星廉がそんな質問をする。見ると、ポカンとしていた先ほどまでとはちがって瞳がずいぶんと生き生きしだしていた。生まれて初めて遊園地に来た男児みたいな希望に満ち溢れた目。
「い、一か月くらいだけど……」
「やりたいです恋人ごっこ! やりましょう!」
「!? え、嘘! じゃあ何でさっきはポカンとしてたの!?」
「感動したんです!」
「はあ?! 感動!?」
「ぼく、恋愛は未知で未踏の分野だったので!」
「うん。それは知ってる」
真顔で頷いた。
「でも、なんか高校生になってから周りが皆恋愛の話してるじゃないですか! 皆がするってことは、トレンドなんですよ高校生の間では恋愛が!」
「は、はあ」
「そこまで流行るってことは、きっとめちゃくちゃ恋愛が面白いからなんですよ恐らく。そんなに面白いんだったら、ぼくも恋愛についてそろそろ学んでみたいなぁと思ってはいたんです。でも、勉強しようにも恋愛って体育みたいなものみたいで……座学じゃ身につかない系のジャンルというか……」
たしかにそうだ、体育と恋愛はいくら座学でやっても身につかない。実際にやってみないことには!
「一応努力はしてみたんです。少女漫画よんで、恋愛してる気分を味わえば恋愛のよさが理解できるかなと思って」
「どうだったの?」
「漫画の読み方がわからなくて、赤羽君に教わりながら読んだんですけど……、一ページ目で挫折しまして……」
「どうして??」
「人の眼球ってこんなに大きくないのにどうして少女漫画ではこんなに大きく描かれているんだろう……ってことが気になって気になって。内容にちっとも集中できませんでした……」
星廉はシュンと肩を落とした。まさか作者だって、そんな理由で読者を一人失ったとは思ってもいないだろう。
「漫画が駄目なら、と思って恋愛ドラマも観てみたんですけど、感情移入ができないんですよね……」
「え、ドラマもダメなの? 一回もときめかなかったの?」
「はい……。なんか、ヒーロー役の人が、ヒロイン役の人に向かって、『今夜は帰さない』とか言うんですけど、ヒロインの人は実家暮らしっていう設定で。もしかしたら門限とかあるかもしれないのに、自分の都合で『帰さない』っていうのはどうなんだろう……って」
恐ろしいほど恋愛に向いていない。
「だから、紙越しや画面越しに恋愛してる人を見ていても恋愛の良さが理解できないのなら、もうぼく自身が恋人をつくるか、恋愛してみるかどっちかの選択肢しかないと思ってたんです、でも!」
「でも!?」
「まさか、そのどっちもやらなくても疑似恋人になれば、恋愛について理解が深められるんじゃないかと思いまして! そんな斬新な方法があったのかと感動してほうけてました一瞬!」
そういうことか……!
ようやく、さっきまで星廉がポカンとしていたことに納得がいった。
「じゃあ……、つきあってくれるってこと? 恋人ごっこに?」
恐る恐る尋ねると、星廉は「無論です!」と頷いて見せた。
その返答を聞いて、全身から力が抜ける心地がした。
予想外の事態が起こってしまった。
まさか星廉にオッケーしてもらえるとは……。でも、これで、天使の課題をこなせるかもしれない。嬉しさがこみ上げてくる。
「だけど祈璃ちゃんは相手がぼくでもいいんですか? 普通、こういうのは好きな相手とか彼氏とかとやるのでは……」
「私、彼氏つくる気ないし。好きな人もいないんだよね。私に好意を持ってる人はそりゃたくさんいるよ? いるけど、でも、私はべつにその人たちのこと好きじゃないのに小説に利用するためだけに、「恋人ごっこしよう」とか思わせぶりなこと言って、変に期待もたせるのは違うかなって。星廉なら、私に好意をもってないからお互い誤解せずに割り切れるでしょ」
「なるほど……!」
彼氏つくる気ないし、とは言ったが、一生ないとまでは言わないでおいた。昨日の四人組のように「なんで?」、「どうして?」とツッコまれたりしても面倒だ。
「星廉こそ、手つなぐのとか初デートとかは初めて出来た彼女相手じゃないと嫌とか思ってない? まさか、幼稚園のときに私のこと泣かせたからその罪滅ぼしがしたくてちょっと無理してる……とかじゃない?」
私は星廉をちょっと、疑わしい目で眺めた。手をつなぐなど、恋人がするような行為をするというのは、相手の承諾がきちんととれていなければ、セクハラになりかねないのだ。
「いや、ぼくは別にそこまでロマンチストではないので……」
「途中でやっぱりやめたいとか言わない? 本当に、真剣にやりたい?」
「思ってますよ! 恋愛の良さをぼくも知りたいです。それに祈璃ちゃんがそこまで小説に書きたい気持ちがあるなら応援したいですし」
「じゃあやろうよ!」
「祈璃ちゃん、いつになくテンション高いですね。よっぽど相手がほしかったんですか? あ、もしかして昨日の電話でやったゲームも恋愛小説を書くための参考にするためだったんですか?」
こんなに純粋な星廉をだましたら、罰が当たるんじゃないかと思った。でも、願いを叶えたいという欲望の方が勝ってしまった。私は「まあ、そんな感じ」とか曖昧ににごした。
私は、なんとなく卒園式のことを思い出していた。
『――大人になったら、きっとまた会えるよ。そのときたくさん遊ぼう』
星廉が別れぎわに言ったあの言葉が、十年経った今、
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