ふいうち、抱擁

 保健医はすでに帰ったようで、保健室には誰もいなかった。

「とりあえず座っててください」と星廉に言われ、ベッドのへりに腰かける。前に一度だけここのベッドで休んだせいか、ソファーよりもこっちのほうが落ち着いた。保健室の片隅で救急箱の中をあさっていた星廉は、湿布を手に戻ってくる。

「出血はしてないですね。手首、曲げれますか? 曲げるとき痛くないですか?」

 ベッドに座った私を前に、星廉は心配そうに尋ねてくる。

 私は頷いてみせた。掴まれて赤く痕になってしまったけど、骨には異状はなさそうだ。

「ちょっと冷たいですよ」

「ひゃ……っ」

 思っていた数倍はひんやりとした感触が皮膚に触れて、反射的に声が出た。

「痛いですか!?」

 あわてたように顔を上げる星廉に、首を横に振った。

「いや、つめたくて……」

「あっ、ごめんなさい」

 なにも悪くないのに謝られた。優しい手つきで丁寧にシワ一つなく湿布を貼ってくれて、痛みと熱を伴った患部が、そのおかげでいくらか和らいだ。

「……あの人って、祈璃ちゃんの知り合いですか?」

「ううん。見かけたことはあるけど。喋ったことはない」

「ほかに何かされてませんか?」

 頷くと「よかったです……」とにっこりと笑いかけてきた。どういうわけだか、いつも見ているはずのその笑顔に安心した。気を張っていたのが、完全に緩む。

「……星廉」

「なんですか?」

「ほんとにありがとう。助けに来てくれて」

 そう言った自分の声が少し頼りなく震えた。私らしくない、とは思うけど、さすがに少しこわかった。

 あのまま星廉が来てくれてなかったら、私は何をされてたんだろう。こんなケガより、もっと痛いことをされていたかもしれない。

 ベッドに腰を下ろしたまま、シーツを握りしめる。

 先輩に向けられた鋭い視線と、酷い言葉を思い出すと胸がギュッと苦しくなる。前の学校で、男には変なメッセージを送られたりしたし、女子にも嫌な態度をとられたりした。でも、直接あんな感情的な態度で詰め寄られたのは、生きてきて初めてだった。ずっと、この容姿のおかげで異性にはちやほやされて育ってきたのだ。

 うつむいたら、湿布を貼った腕が視界に映る。

 今まで、親にも、先生にも、同級生にも、手を上げられたことなんてなかった……。

 痛かったし、怖かった。

 目の前の光景が、ゆっくりとマーブル模様になって、自分が泣きそうになっていることに気づく。ダメだと思ったのに、涙がこぼれた。あわてて、手で拭ったけど、もう星廉には見られていた。

「祈璃ちゃん……」

「ごめん、何でもない。泣き止むから」

 目元をこするけど、涙はおさまる気配がない。くやしい。あんな奴のことで泣きたくなんかないのに……。

「なー、マジあれはありえないだろ! おかげで擦りむいたんだけどマジで!」

「そんなこと言ったって、君が出来もしないのにジャンプサーブなんかしようとするからいけないんじゃないか。ていうか、四日連続で放課後バスケとか頭おかしいだろう、普通に考えて」

「マジでなんだよその言い方! お前のことなぐさめるために提案してやってたんだぞマジで」

「ふひひ。おかげでテストは全くできませんでしたな。というか、今日は保健医はいるのですかな? この時間帯ではもう帰ってしまっているのでは?」

「ま、いなかったら、絆創膏だけもらって帰ったらいいっしょー」

 廊下から、クラスメイト四人の声がして、ハッとなった。どうしよう。泣き止まないと。こんなところを見られたらあらぬ誤解を生んでしまう。星廉に迷惑が掛かる。けど、安心したせいか、涙があふれて止まらない。

「ごめん……」

「そのままでいいです」

 え……。

 その言葉に顔を上げたら、星廉はシャッとベッド周りのカーテンを引いた。薄闇に包まれたと思ったら、腕が伸びてきて、背に回される。

 気づいた時、私は星廉に抱きすくめられていた。

 もう一度、「……えっ?」と思った直後、保健室のドアが開けられる音がした。

「やっぱり先生いないですな」

「マジ仕方ねーし、絆創膏だけもらってこー」

「あ、ベッドにカーテンかかってんじゃん。だれか寝てる系?」

「静かにしたまえ、きっと具合が悪いんだよ」

 カーテン越しに四人の会話が聞こえてくる。

 脳筋が「マジ絆創膏どこだー」と能天気に言うのを、星廉の腕の中で私は息を詰めて聞いていた。

「祈璃ちゃん」

 星廉が耳元で言った。たぶん必要最小限の声量で済むように。カーテン越しの四人には聞こえない声量にするためだ。

「……泣いてても大丈夫ですから。見えてませんし、見てませんから」

 そう言われて気づいた。四人から見えないように隠してくれて、そして泣いてる顔を見ないようにしてくれていた。

 やさしい。

 一瞬、びっくりして止まった涙が、再び流れ出す。うれしかった。その心づかいが。そっと、星廉の背中に腕を回す。星廉は「大丈夫です」と小声で何度も繰り返してくれる。

 夏服の生地は薄くて、星廉の体温がよく伝わってきた。なんでこんなに、ホッとするんだろう。

 やがて、カーテンの外で「しつれーしましたー」と誰にでもなく言う声がした。ドアがドア枠を滑る音がして、足音が四人分あっという間に遠のいていく。

「………………落ち着きましたか?」

 ややあって、優しい声音があった。

 星廉の背中に手を伸ばして、私はいつのまにかベストの生地までをもしっかと握っていた。力を込めすぎてほんのり掌が熱を帯びていた。顔を上げて、肩が跳ねた。思ったよりずっと――、息が髪にかかりそうなくらい、近かったのだ。

「ご、ごめん。ありがと……」

 背に回していた手を離す。ドキドキと心臓が速く鼓動していた。なんだか気恥ずかしくて、顔を上げれない。調子がくるうとはまさにこのこと。

 前に恋愛小説で、ヒロインがヒーローに抱きしめられた時『心臓が破れて死んでしまうのではないかと思うほど、胸が高鳴った』という描写があった。とりあえず、あれが誇張表現ではなかったことを私は今日、身を持って知った。

「大丈夫ですか?」

 膝に手をついた彼は、心配の色が濃く浮かんだ表情で顔を覗き込んでくる。

「うん。平気。ごめん……」

「どうしてそんなに謝るんですか?」

「い、いろいろ。隠してくれたし、近かったし」

 ベッドのへりに腰かけたまま、うつむきがちに言う。

 すると、サッと、星廉がしゃがんで目線の高さを合わせてきた。

「ぼく、祈璃ちゃんのそういう優しいところ好きですよ」

「え?」

「ぼくのことをかばってくれたり、ぼくに心配かけまいと泣くのがまんしようとしたり。ほかにもあの、告白されたときは振り方が優しかったり」

「見てたの?」

「見えちゃったんです」

 苦笑する彼。初日の四人からの同時告白を見られていたのか……。

「幼稚園の時から、ずっとそういうところ変わらないですよね。ほかの子がぼくのことを『勉強ばっかしてて気持ち悪い』とか言ってたのに、祈璃ちゃんだけは、『そんなことないよ』って言い返してくれてたりしてたの、知ってましたよ。ぼくは好きです。ドライに見えて、根はピュアでやさしいところ」

 そう言われて、気づいた。天使からの課題でお互いの長所を言い合ったとき、星廉は私のことを「心根が優しい」と表現した理由がようやくわかった。

 ほかの皆は、私の容姿のことばかり見ているのに、星廉は私の内面まできちんと見てくれて、それを私に伝えてくれるんだ……。

 甘く胸が締め付けられるってこういうことを言うのかもしれない。

「私も」

「え?」

「私も星廉が好き」

 するっとその言葉は唇の間からこぼれた。陽の落ちた保健室に沈黙が降りた。

「……え?」

「あっ、いや、せ、星廉のそういう優しいところが好き!」

 やばい、なに誤解うむような感じの言い間違いしちゃってるの……!

「え、あ、ああ! そ、そういうことですか、なるほど……! ありがとうございます」

 やや動揺しながら、笑みを浮かべる星廉を見て、あれ? と思った。夕日に照らされてるといえ、なんだかちょっと耳が赤すぎる気がしたのだ。

「か、帰りましょうか! あと八分でバス来ちゃいますし!」

「あっ、そうだね!」

 星廉が、ベッドを囲むカーテンを開けて、私はベッドから降りる。二人で人気のなくなった廊下を急いで、昇降口に向かった。

 帰りのバスで手をつないだとき、保健室での出来事を思い出してしまい、恥ずかしくてまともに星廉の顔を見れなかった。

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