第一章
いつもの、早朝
洗面台の鏡に、トングみたいなヘアアイロンで何度も髪を挟む女子高生が映っている。寝ぐせを直している私だ。
鏡に映る自分はずいぶんと険しい顔をしている。
顎の辺りで切り揃えた黒髪ショートが、今日に限ってすごく頑なだからだ。外側に向かって跳ねた毛先はまっすぐになる気配を一向に見せない。180度に熱したアイロンで何度挟んでも、だ。
「最悪……。もう全然直らないじゃん」
鏡の前で眉を歪めると、私はヘアアイロンの電源を切ってコンセントを抜いた。これ以上時間をとられたら、転校初日から遅刻してしまう。
ヘアアイロンを乱暴に洗面台の縁に置く。抜いたコンセントが、へびを思わせる曲線を描いて、排水溝に向かって垂れる。
それにすら苛立ちながら、傍らに置いていたポーチからヘアゴムとコームを取り出してうなじのところで髪の毛を一つにくくった。なんで朝からこんなに髪ばかりに時間をとられないといけないんだ。
なんて考えて、「そういえば、幼稚園の卒園式の朝もこんな感じだった気がするな」と十年も前のことを久々に思い出した。あのときは結局、髪は結ばずに、リボンの髪飾りをつけてもらったっけ。せいれんは可愛いなんて一言も言ってくれなかったけど。
せいれんとの再会は未だ出来ていない。しかし今となってはそれを悲観もしていない。せいれんへの淡い想いは月日の流れとともにすっかり蒸発していた。
だいたい住所もちゃんとした名前も知らないうえ、顔や声だってもうよく覚えてないのだ。街中ですれちがったってきっと気づけないだろう。再会が叶うほうが奇跡じみている。
最後の仕上げに頭髪にヘアスプレーをふりかけた。固まったシースルーバングを指先で微調整しながら、じっと鏡の中を覗き込む。
日焼け止めを塗っただけなのに透明感のある白い肌。アイプチもしてないのにうまれつきのくっきりとした二重。アーモンド形の大きな瞳には、ビューラーで少し持ちあげた長いまつげが影を落としている。
くわえて、うなじで髪を結んだため、少し余ったサイドの髪が顔の輪郭を隠していて、普段に輪をかけて小顔に見える気がした。
髪と顔はよし、と。
首から下にも視線を落としてみる。白いワイシャツ(胸元に、十字架の形を模した校章の刺繍が入っててちょっとダサい)には、シワ一つない。ブラウンのネクタイの結び目も綺麗。茶系チェック柄のプリーツスカートは膝が出る丈だけど、太ももは隠してるし先生に注意されることもないだろう。
「よし」
短く呟いて、持っていたヘアスプレーを洗面台の脇に置く。
十七年間、毎日見てきた顔だから、自己評価は「よし」だが、きっと初対面の人たちの目には「完璧」に映るだろう。今までもずっとそうだったのだから。
小学校、中学校、一週間前まで在籍していた高校。全部そうだった。
入学した途端、「可愛い一年がいる」と学校中の噂になるのだ。他クラス、他学年の人が休み時間に教室を覗きにやって来る。廊下を歩くだけで周囲の視線が自分に集まるのが分かる。通りすがりの人にハイテンションで容姿を褒められ、話したことない人に告白される。
休日に一人で本屋に行った帰りに、スーツを着た女性から芸能事務所の名刺を渡されたことだってあった。
そんな感じで幼稚園を卒園してから、私は学校でも、学校の外でも絶えず自分が美人だと自覚せざるをえない環境に身を置いてきた。
きっと今度の学校でもそれは変わらない。
「
鏡の中。自分の後ろに壮年の男が映った。
振り向くと、
私は思わず顔をしかめた。
食パンが嫌いなわけではない。朝からこんな奴の顔を見ないといけないことに不快感を覚えたのだ。奴は娘の表情が曇ったことに気づいた様子だったが、その理由には触れることなく訊いてきた。
「なぁ、やっぱり父さん車で送って行ってやろうか? 今日も暑いし、登校初日だし……」
「きしょ。もう出るからどっか行って」
早口にそう告げると、東雲篤貴の横をすり抜け、洗面所を離れた。
あんな奴に構っている時間が惜しい。
洗面所から自室までの道のりを進みながら、スカートのポケットに入れていたiPhoneを取り出す。親指で画面に触れると、水彩画の星空を設定したロック画面に「6:24」と時刻が浮かび上がった。あと五分で家を出ないと。
始発のバスに乗り遅れたら、一時間後まで次の便はないから遅刻確定だ。こんな不便極まりないド田舎に引っ越してこなきゃいけなくなったのも東雲篤貴のせい。
自分の部屋のふすまを乱暴に開ける。雑に畳んだ布団の横を通り過ぎて、壁にもたれかかる通学用のグレーのリュックを背負った。登校初日なので今日使う分の教科書とノートが全て入っていてなかなか腰に来る重さだ。
スマホは手に持っているし、財布はリュックに入れてあるし忘れ物はないな、と殺風景な部屋のなかを見回して、机の上にリングノートが出しっぱなしになっていることに気づいた。
あいつが私の部屋に入ってくることはないと思うが、念には念を入れておいたほうがいい。
黒と白のストライプ柄の表紙のノートを引き出しに隠して、部屋を出た。
廊下を進んで、玄関の上がり框に腰を下ろした途端、リュックの重みで後ろにひっくり返りそうになった。
家からバス停まで徒歩五分とはいえ、夏の日差しが照りつけるなか、こんな重たい荷物を背負って歩くのはキツいだろうな……。
憂鬱でため息がこぼれる。前かがみになってローファーに足を通していると、また東雲篤貴が近づいてきた。
「なあ、無理するなよ」
「別にしてない」
「父さんが車だすから。な?」
「うざっ!」
肩をつかもうとしてきた手を振り払って、振り向いた。あいつは左右の眉を互い違いにさせてあからさまに「困っています」という顔になっていた。それが余計に私の怒りを煽った。お母さんにあんなことをした加害者のくせに、まるで被害者みたいな態度。
「あのさ、まず『父さん』って何? 私はもうあんたのこと父親だなんて思ってないんだけど。あんなことしておいて、よく私の父親とか名乗れるよね。神経疑うわ」
「……でも、そんな重いリュック背負って歩くのは大変だろ……? 学校の前には長い坂もあるし。車で乗せてってやるから」
東雲篤貴は歯切れ悪くそう言葉を返してきた。
舌打ちでもしてやりたい気分だ。一度家族を裏切ったくせに今さら父親ヅラなんてしなくていい。第一、東雲篤貴の車になんて乗りたくない。こんな奴に引き留められたせいでバスに間に合わなかったら最悪だ。
靴を履き終えた私は奴の言葉を無視して立ち上がった。
「あ、祈璃、父さん今日、会社の帰りに母さんの病院に寄るし遅くなるから、夕飯は冷凍食品かなにか食べてくれてていいからな。そうだ、エビピラフも買っておいたんだ。祈璃、あれ好きだっただろ?」
「いちいち言わなくてもいいってそんなこと。私もう出ないと遅刻するし。それともそうやって引き留めてバスに間に合わなくさせて、車に乗せようって魂胆?」
「そんなつもりはなくてだな……」
「じゃあ黙って。もう行くから」
玄関の引き戸の取っ手に手をかける。
ていうか、エビピラフって、コイツいつの話してるんだろう。
私がエビピラフを喜んで食べてたのは小学生のころの話だ。油でテカテカと光った米に小指の先ほどのサイズの小さなエビがまざっている、安っぽいバターの味なんかもう好きじゃない。肌にも悪い。
「あっ、待て祈璃」
後ろから声がかかって渋々振り向くと、東雲篤貴は弁当の包みを私に差し出してきていた。
「……なにこれ?」
私はそれを一瞥した後、思い切り眉を寄せて奴の顔を見上げる。
「べ、弁当つくったけど持っていかないか? 母さんが入院になってからろくに食べてないだろ。たまには栄養をとらないと。もし学校で具合でもわるくなったら――」
怒りの沸点が頂点に達した。私は目の前の弁当の包みをひったくって、力任せに床に投げつけた。東雲篤貴が息を呑む。
「……本当にうるさい。食べるわけないでしょ。あんたのその汚い手で作った料理なんか全部劇物だから。まず、あんたみたいな奴と同じ家に暮らしてやってるんだから、それだけでも感謝しなよ」
言葉をさえぎって睨みつける。きっと私は鉄板をぶち抜けそうな眼力をしてたと思う。あいつは呆然とした表情で沈黙していた。
その隙に重たいガラス戸を開けて外に出る。家から一刻も早く遠ざかりたくて、走ってバス停へ向かった。あいつがいるこの家には二度と帰ってきたくない、と思った。けど、今日の夕方にはまたここに帰ってこなくてはいけない身なのが恨めしかった。
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