サヨナラ天使、またきて初恋。

針夜ゆる

プロローグ

さよなら、初恋

 私が初めて恋をしたのは、六歳のときだった。


 相手は、同じ幼稚園に通う「せいれん」という男の子。

 せいれんはかなり変わっていた。

 皆が外で遊んでいるとき、いつも一人で部屋の隅っこに座っていた。そして、家から持参した『中学・理科基礎』という題名の問題集を床に広げ、普通の幼稚園生なら絶対に理解できない問いと向き合っているのだ。回答欄には元素周期表や化学式が稚拙な鉛筆書きで書かれていて、すべて正答の証として赤丸がつけられていた(きっと親御さんが採点してくれていたのだろう。手慣れた綺麗な丸だった)。

 私は、いつも一人で、黙々と難しい問題を解いている彼を見るのが好きだった。私に言い寄ってくる周りの男の子たちは、どうにもうるさくてバカで、幼稚に見えていたけど、でも、私に興味を示さず、粛々と難しい勉強をしている彼は、とても大人びていてかっこいいと思えたのだ。

 でも、皆はそんなふうには思っていないようだった。

「せいれんくんがやってる勉強なにあれ?」、「一人でなにやってるのかわかんなくて気持ち悪いよねー」と女の子たちが陰口を言っているのを見かけたことは一度や二度ではない。

 私は偶然その場に居合わせるたび、「せいれん、カッコいいよ」と想い人をかばった。そうすると私と仲が良くも悪くもない女児たちは、「いのりちゃん、せっかく色んな男の子にモテるのに、どうしてせいれんくんなんか好きなの? 変だよ」、と、怪訝な顔をしたりあきれたりした。

 なかでも、毎回一番言われたのはこういうセリフだった。

「それにさ、せいれんくんいっしょに遊ぼうって言っても絶対あそんでくれないし。なんか感じ悪い。きらい」

 せいれんが誰ともあそぼうとしなかったのは事実だったので、私はそこに関しては強く言い返せなかった。きっとせいれんは勉強すること以外に興味がなかったのだろう。

 かくれんぼの人数が足りないとき、「せいれんくん入らない?」と誰かに遊びに誘われても、「ぼく、勉強してる方がたのしいから」とそっけなく断っていた。何ならお昼寝の時間でさえ、布団の中で問題集をやっていたりしたものだ。

 もちろん、私が誘っても遊んでくれたことなんて一度もなかった。けど、いくら靡いてくれなくても私は彼のそばにいた。皆が外で遊んでいる時間も、私はせいれんのそばで絵本を読んだりして過ごしていた。少しでもせいれんにとって特別な女の子でありたかったのである。あまりにも私がせいれんとばかり一緒にいるものだから、ほかの男の子からは文句を言われたりもしたが。

「せいれんは、皆とあそびたいとか思わないの?」

 卒園が迫った二月のことだった。とうとう私はせいれんにむかってそう尋ねてしまった。この日は、皆がカラフルなスキーウェアに身を包んで、雪遊びをしている時間だった。雪合戦でもしているのかきゃあきゃあと楽しそうな声が聞こえる。

 そんな状況でも私とせいれんは、ストーブを焚いた室内で静かに過ごしていた。今思えば、遊び盛りの幼稚園児が雪を前にはしゃがないなんて狂気の沙汰だが、正確には狂気の沙汰だったのはせいれんだけだった。

 窓越しに聞こえる皆の楽しそうな声を聞いているうちに、私もこの日ばかりはだんだん外で遊びたい衝動を抑えきれなくなってきていたのである。内容をすっかり暗記してしまった絵本より、雪遊びのほうが楽しいに決まってる。可愛いスキーウェアだってロッカーにある。もうすぐ卒園だし、せめて最後くらいせいれんと遊びたい。せいれんが「遊びたい」とか言ってくれないだろうか。

 しかし、そんな思惑から発した先刻の私の問いにも彼は顔を上げることなく「べつに」とつれない返答をした。2Bの鉛筆の芯がシャカシャカと紙面を動く音がやむことはない。奥二重の瞳はメガネのレンズ越しに、問題を見つめている。

 せめて少しでもこっちを見てくれたらいいのに。

 彼は問題を解いている間、話しかけられてもろくに顔を上げようとはしないのだった。

「雪合戦とか楽しそうじゃない?」

「けがしたらあぶないし、寒いし、なにが楽しいのかよくわかんない。ぼくは問題といてる方がたのしい。知らないことを知れるのは楽しいよ」

 そう言ってのけた彼に、私は「ふうん」、とだけ返したけど、内心では「すごくかっこいい」と痺れていた。

 できることなら、卒園前に一度くらいせいれんと遊んでみたかったけど、せいれんがそう言うなら私は隣にいよう。

 繰り返し開きすぎて諳んじられそうな絵本に再び向き合った。横目で、ちらっとせいれんの解いている問題集を見た。ゆがんだ字はお世辞にも上手とは言えない。

 彼の鉛筆の持ち方は少し特殊なせいで、稚拙な字がさらに歪んでいたのだ。私の字の方がきっときれいだったと思う。

「ねえ、せいれんの鉛筆の持ち方へんだよ。それじゃただにぎりしめてるだけじゃん」

「そうかな?」

 せいれんは一旦、手を休め、自分の左手を見て首を傾げた。補足、せいれんは左利き。

「そうだよ。ちゃんと直さないと。もうすぐ私たち小学生になるんだよ。そんな持ち方してたらほかの子に笑われるよ。あっ、そうだ! 私がちゃんとした持ち方教えてあげようか?」

「これでも書けるから別にいい。それに、小学校の入学式までにこの問題集終わらせないといけないし、今は忙しい」

「じゃあ小学生になったら教えてあげる。もしかしたら、同じクラスになれるかもしれないし」

「ぼくは、いのりちゃんとは同じクラスにならないよ」

 その、断言するみたいな言い方にはちょっとムッとした。

「なんで? そんなのわかんないじゃん」

「わかるよ。だって、ぼくは皆と同じ小学校には行かないから」

 世界が静止した気がした。

 私たち二人のためだけに駆動するストーブの鈍い音も、外でみんなが雪遊びをする無邪気な声も。

 すべてが遠く聞こえた。

 問題集に視線を落とすせいれんは、私が言葉をなくしていることにすら気づかずに、酷な事実の続きを語った。

「皆が行くのは桜野小学校でしょ。でも、ぼくが行くのは東億大学附属高校の初等部だから」

 このときの私は、せいれんが言ってることの意味がよくわからなかった。

 あとから知ったけど、せいれんの行く学校は、東北最難関で、倍率もえげつない学校だった。要するに、せいれんはその超進学校の初等部に行くという旨を言っていたのだった。今思えばとても彼らしい進路選択だったが、このときの私は離れ離れになるという焦燥感に駆られ、何も知らずにこんなことを口走った。

「そ、それなら私もせいれんと同じ小学校行く! ジュケンしてショトウブってところに行く!」

「むりだよ。勉強得意な子ばっかりが通うところだし、それにもう今年度の募集は締め切ってるから。ぼくは先月、受験して合格したんだ。だから、いのりちゃんや皆と同じ小学校には行かない。卒園したらバラバラだよ」

「……」

 ジュケンとかショトウブとか、六歳の私にはよくわからなかったけど、本当にせいれんと同じ小学校には行けないんだということだけは、それでわかった。

 端的に言えばショックだった。

 春からはもう会えないというのもそうだけど、彼が、「今度ショトウブ、ジュケンするんだ」とか「ジュケンに合格したんだ」とかそういう報告すら、私に今まで一切してくれなかったという事実もかなりこたえた。

 どうして彼は、近々もう会えなくなるというのに、そんなに涼しい顔をしていられるんだろう。なんで、そんな一大ニュースを淡々と口にできるんだろう。

 私、皆よりはせいれんと仲良くなれてると思ってたのに。私はせいれんにとって友達ですらなくて、その他大勢でしかなかったの? あんなにそばにいたのに……。

「……せいれんは、私と離れるのさみしくないの?」

「うん」

 即答された。

 うん、というたった二文字。逡巡することなく言われた。問題集から顔も上げずに。

 胸が焼かれたみたいだった。

 私は、こんなにせいれんと離れがたいのに、せいれんは私のことなんて何とも思ってない。さみしいとも思われていないなんて。

「ひどい……、こっちはさみしいのに……」

 絞り出した声がかすれた。目の縁を涙が一粒だけ乗り越える。こらえようと思ったのに。

 目に、薄く張った涙の膜はすぐに膨れ上がった。やがて瞳からどんどん涙が剥がれ落ち、フローリングの床に小さな染みをつくる。

 さすがにこの展開はせいれんも予想していなかったのだろう。ぎょっとしたように紙面から顔を上げ、私を見ていた。

「ジュケンするとかきいてない……。なんでなんにも言ってくれないの? 言ってくれたら、私もいっぱい勉強してショトウブってところジュケンしたのに……」

 あふれてくる涙をまだ短い指と小さな手で何度もぬぐいながらそう訴える。

「…………ごめん……」

 謝られた。

 鉛筆を動かす音は、もう聞こえなかった。この時せいれんは、問題集ではなくて私を見てくれていた。

「私、せいれんと同じ小学校いきたかった……」

「いのりちゃん、そんなにぼくと仲良くなりたかったの……?」

「本気で仲良くなりたいと思ってなかったら、ここまでいっしょにいないもん……!」

「……」

 せいれんは沈黙した。私のしゃくりあげる声だけが室内に響いた。

 それを聞きつけたのか、別室で連絡帳を書いていた先生がやってきて、「あららら、どうしたの~」と私たちのそばにしゃがみこみ、甘ったるい声を出した。私が泣きながら事の次第を話すと、先生は「そっかぁ」となぐさめるような声で言って私の背をさすった。そして、戸惑うせいれんに先生は向き直った。

「せいれんくん。いのりちゃんはね、せいれんくんと離れるのがさみしいんだよ。いつもせいれんくんと一緒にいたでしょ?」

 諭すような優しい口調に、せいれんはしばらくなにも言わなかった。

 でも、少しの間を置いて、せいれんは「いのりちゃん」と泣いている私に声を掛けてきた。「なに」と言葉を切り返して顔を上げると、なぜかせいれんまで少し泣きそうにしていて驚いた。

「……ほんとにごめんね」

 ともすれば聞き逃してしまいそうな声量だった。たよりない声音から、本気で反省しているのが伝わる。問題集を解いていた時と同じ、正座の姿勢で謝るせいれんは、今までで一番幼く感じられた。私はわるいことはしてないはずなのに、なぜだか自分が悪者になった気がした。

 こんなに真剣に謝ってもらえるとは思っていなかったので、びっくりして涙が止まる。

「……雪遊びする?」

 そして、そのせいれんの口から発せられた台詞に思わず目を見張った。

「……いいの? あそんでくれるの? 勉強は?」

「いいよ。勉強は家でするから。だからあそぼう」

 初めて心が通じた私たちを、先生はうれしそうに眺めていた。

 せいれんと私は初めて一緒に外に出て遊んだ。

 問題を解くせいれんはいつも大人びて見えていたけど、このときばかりは年相応の子供みたいな笑顔で楽しそうに雪玉を転がしていた。

 手袋越しでも雪は冷たく、頬に触れる空気も冷え切っていたけど、せいれんと遊ぶのに夢中で、寒さも全く気にならなかった。

 せいれんといっしょに遊べたのも十二分に嬉しかったけど、せいれんの笑顔を引き出せたのが、ほかでもない自分だという多幸感で胸がいっぱいだった。

 雪だるまをつくる私たちを、何も知らないほかの先生たちやほかの皆は、一体なにがあったのかと鳩が豆鉄砲を食ったような表情で見ていたのを覚えている。

 それから次の日も、その次の日も、卒園式までの一週間、せいれんは私と毎日一緒に遊んでくれた。雪遊びもしたけれど、ブロックで遊んだり、ままごとをやったり、今まで遊べなかったぶんを取り戻すかのごとく、園内でできるありとあらゆる遊びをやりつくした。

 ああ、こんなことならもっと早く泣きついていればよかった。初めてせいれんを見つけた年長の春の日、プール開きの日も室内でいっしょにすごした日、皆は芋ほりに行ったのに、先生に無理を言って園内でせいれんと過ごした日。いつでもよかった。もっと早くに「一緒に遊ぼう」ってしつこくお願いして涙を見せていれば。もっと長くこの充実した時間を味わえたかもしれないのに。

 そんなことを何度思ったかわからない。後悔むなしく、あっというまに卒園式の日がやってきた。朝から洗面所を占拠し、お母さんに髪を結んでもらっては「三つ編みがいい」、「やっぱり三つ編みやめてポニーテールにする」、「やっぱり、結ぶのやめる」とわがままを言って、卒園式が始まってもないのに母を泣かせた(違う意味で)。

 本当の本当に最後だから、最高に可愛い自分でせいれんの記憶に残りたかった。

 式の最中も、もう今日でせいれんとお別れなんだと思うとずっと泣きそうだった。式が終わって、とうとう解散という段、皆が靴を履いて園を去っていく中、私はせいれんの服の裾をつかんで、その場から動かなかった。

 せいれんが春から通うのは宮城にある学校だから、うちの県からは引っ越すことになる。

 せいれんの親はずっと「ごめんね、いのりちゃん」と謝ってくれたし、うちの父親は「気持ちは分かるけどもう離しなさい、困ってるだろう」と私をたしなめた。

 そんなこと言われても、ここでせいれんの手を離したら二度と会えない気がして、意地でも離したくなかった。

「いのりちゃん」

 ややあって、せいれんが私に言った。

「ぜんぜんあそんであげなくてごめんね。でも、大人になったらきっとまた会えるよ、そのときは、たくさんあそぼう」

 もしかしたら、それは頭の回転の速いせいれんの、巧みな嘘だったかもしれない。けれど、その気が抜けるような笑顔に、幼い私は「うん」と言ってうっかり手を離してしまった。

 こんなに賢いせいれんがまた会えると言うのだから、せいれんの言う通り、大人になったら、私たちは本当にまたどこかで偶然会えるような気がしていた。

 別れ際、「ばいばい!」と大声でせいれんに言ったとき、せいれんははにかみながら私に手を振ってくれた。いま思えばそれをエンドロールに、私の初恋は叶うことなく終幕となったわけだ。

 でも、もしかしたら、一度くらい子供らしく素直にせいれんに「好き」だと伝えていたら、結末は違っていたのかもしれない。

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