つめたい、理由

『六月の梅雨が始まったくらいの出来事だったと思う。曇天の金曜日、私は来週月曜日提出の課題プリントを学校に忘れて帰宅してしまった。

 夕食を食べ終わって、「課題でもやるか」と通学用のリュックから教科書を出しているとき、プリントがないことに気づいた。学校から配布されるプリントはA4サイズのファイルに入れていたが、そのファイルすら見当たらない。

 あわててリュックをひっくり返してみたが、アップルグリーンの半透明なクリアファイルは見つからなかった。

 私、モテすぎてとうとう私物を盗るような危ないファン……いや、熱烈なファンがついてしまったの? と一瞬、自惚れたことを考えてしまったが、今日の六時間目は化学だったことを思い出してハッとなった。

 化学の授業は毎回化学実験室で行われる。今日は提出する化学のプリントがあり、授業のときクリアファイルごと持っていったのだ。もしかしたら、そのまま置いてきてしまったのかもしれない。

 ということは学校まで取りにいかなければ、宿題ができない……。

 カーテンを開けて窓の外の様子を見ると、真っ暗だった。窓ガラスにぽつぽつと水滴がついていて、小雨も降っているようだ。

 面倒の二文字が頭に浮かんだ。

 かと言って休日の土曜日に学校に行くほうが億劫だ。仕方なく部屋着から、シャツとショートパンツに着替えて一階へ降りた。

「ちょっと学校に忘れものとってくるね」

 リビングのカウチで雑誌を読んでいるお母さんに一言声をかける。

「え? もう暗いけど大丈夫なの?」

「プリント忘れてきたの。とってくる」

「お父さんが出張じゃなければ車で送ってもらえたのにねえ」

「いいよ、べつに」

 お父さんとは、会話らしい会話もしていなかった。一年くらい前から残業が増え、家に帰ってくる時間も遅く、接待だか休日出勤だかで休みの日もよく家を空けていた。

 たまに早く帰ってきて家族そろって夕食を食べることもあったが、会話と呼べるものは「学校はどうだ」、という当たりさわりのない問いかけと、「普通」と答える私の返答のみ。そんな生活がしばらく続き、父との距離がどんどん開いていくような気がして、次第にどう接したらいいのかわからなくなった。父に車で学校まで送ってもらっても、きっと道中無言で気まずかっただろう。

「大通りの方から行きなさいね。あっちの方が人通りも多くて明るいから」

「うん」

 私はお母さんの注意喚起にそう返事をして家を出た。六月とはいえ、まだ夜は少し肌寒い。外は小雨がぱらぱらと降っていて、半袖のシャツから伸びた腕にぽつぽつと雨の小さな雫がついた。いつもは曲がるT字路を、私はまっすぐに突き進む。ここを曲がると、閑静な住宅街ののちに学校。突き進むとビルや喫茶店やコンビニが立ち並ぶ大通りがしばらくつづき、やがて学校にたどり着く。

 大通りから行くと迂回することになるので、学校に行くには少し遠回りになってしまうが、女子が夜に人気ひとけのない道を一人で歩くのは危ない。母の言う通りにしたほうが賢明だと思ったのだ。

 でも、もしこのとき私がいつもの通学路を選んで学校へ向かっていれば、大通りなんて通らなければ、あんな現場を目撃しなくて済んだのかもしれない。

 やがて、賑やかで華やかな街を抜けて、学校へついた。校門にいた守衛さんにわけを話すと、すんなり校内に入れてもらえた。真っ暗の校舎を月灯りを頼りに化学実験室まで進むと、思った通り、プリントが入ったクリアファイルはそこに忘れてあった。

 半透明のファイルからは数学の公式が透けて見える。誰かに触れられたような形跡はなく、きちんとプリントはそのまま入っていた。

 よかった。これで宿題ができる。

 ファイルを回収しホッと息をつく。ふいに外で閃光があり、私の顔を照らした。思わず肩が跳ねる。数秒遅れて地響きが鳴った。雨粒が窓を強く打っている。小雨だった雨が本降りになりかけていることに気づいた。

「だるいって……」

 とは言いつつ傘を持ってきていなかったので、急いで校舎を出た。校門にいた守衛さんにお礼を言って家までの道のりを走り出した。

 遠くで雷が鳴っていた。アスファルトに雨粒が落ちる音が大きくなっている。シャツの上から肩や背中に冷たい雨がしみ込んで体温を奪う。

 まずい。これ以上雨脚が激しくなる前に帰らないと、風邪をひいてしまうかもしれない。

 クリアファイルを小脇にかかえて明るい夜の街を走っていると、ふと、コーヒーの香りが鼻先をついた。

 反射的に顔を上げる。少し先にコーヒーショップがあった。赤いレンガ造りの外装で趣きがある。

 しかし、その駐車場に、見慣れた車が停まっていることに気づいて、足を止めた。

 水色のラパン。

 一瞬よく似た車かと思ったが、ルームミラーには昨年、私が修学旅行で出雲大社に行ったときに買った交通安全の御守りがぶら下がっている。その車は、まちがいなくうちのお父さんの車だった。

 お母さんが、「お父さんは今日も出張」だと家を出るとき言っていた。それなのに、なんでこんなところにお父さんの車が……?

 違和感が膨張していき、私はコーヒーショップに近づいた。

 そのコーヒーショップは壁が一部ガラス張りになっていて、外からでも店内の様子を窺い見ることが出来た。カウンターでは年を召したバリスタが銀のじょうろのようなものでコーヒーを注いでいて、店内はわりと盛況。今日は金曜日のせいかスーツを着た仕事帰りの大人の人が多い気がする。

 そして、よく店内に目をこらしてみて、とある人物を視界にとらえて息を呑んだ。

 カウンター席で、父が女性と隣り合って談笑していた。

 女性は二十代前半か、下手をしたら十代後半くらいだったと思う。

 黒髪のセミロングが店内の照明の明かりを受けてつやつや輝いて、せわしなく開閉する唇は、黒と赤をまぜたみたいな毒々しい色に塗られている。黒のシャツドレスを着ていることも相まって、私にはその女が魔女のように見えた。

 お父さんも私服だった。昨日から出張に行っているはずなのに。まさか嘘をついて、女性と会っていた……?

 嫌な二文字が脳裏に浮かぶ。胸が苦しかった。信じられなかった。自分の心臓の音が嫌に大きく聞こえる。

 もう少しだけ窓ガラスに近づく。窓際の席にいるおじさんと目が合い、訝し気な顔をされたが、そんなことはどうでもよかった。

 アスファルトから靴のかかとを少し離して、奥の席の二人をよく観察する。

 うちのお父さんが浮気なんかするわけがない。

 家族に嘘をついて女性と会っていた時点でもうお察し案件なのに、まだ浮気ではないと思いたい自分がいた。けど、微かな期待は泡と散った。

 テーブルの上で、骨格の違う二本の手が絡み合っているのを見てしまった。

 綺麗なオレンジのジェルネイルが塗られている細い指と、節がしっかりして少し日焼けしたお父さんの指。

 互いの指が、互いの手の甲に伸びている。恋人以外はしない手のつなぎ方だ。

 それを目の当たりにして、全身の毛穴が開くのを感じた。

 一年ほど前から、家にいる時間が減っていたのはこの女と会っていたからだったんだろうか。

 会っていただけならまだマシだが、お父さんだって大人の男だ。体の関係がないわけない。

 ややあって、ふつふつとお腹の奥に熱が溜まっていく。怒りと、嫌悪感。

 お母さんは、お父さんが遅くなる日もずっと帰ってくるのを起きて待っていた。自分の誕生日の日も、お父さんが家に帰ってこなくても文句の一つも言わないで翌朝帰ってきた夫のために味噌汁をつくっていた。

 あんなに献身的な母を、父は裏切ったというのか。

 自分でもこのとき、何がしたかったのか分からない。気が付いた時、私は、力いっぱい目の前のガラスを叩いていた。

 バン、という大きな音が鳴る。

 同時に掌に痺れと痛みが広がる。

 ガラス窓の付近に座る人から、カウンター席に座る人まで、店内の客が余すことなく全員、私を見ていた。皆、一様に驚いた顔をしていた。

 ガラス越しに私を見たお父さんのその顔からは、一瞬、一切の表情が消えた。はくはくと口が微かに動いていた。「なんでここにあいつが」、とか、もしくは「娘だ」、とかつぶやいていたのかもしれない。

 魔女のような女が、信じがたそうに私と東雲篤貴を交互にみていて、両手で口元をおさえた。衝撃に目を大きく見開いていた。

 私は店内の客たちから注目を浴びながら、再度、雨に濡れたガラス窓を力いっぱいった。

 薄いガラスが震える音がする。

 男の顔をして女と喋っていたお父さんは、いつのまにか真っ青な表情で私を見つめていた。

 女性は、自分たちの関係が私に露呈したことを悟ったのか、両手で顔を覆っていた。

 東雲篤貴に娘がいることを知っていたのか知らなかったのかはわからない。でも何にせよ、私は、父のことをいい気味だと思っていた。気が緩みすぎだ。バレないだろうと高をくくってこんな近場で女と会うから。

 しばらく雨に打たれながら、ガラスを何度か叩き続けた。私が射抜くような目で父たちを見ているせいか、ほかの客がちらちらとカウンター席の二人を窺いだす。

 カウンターでバリスタが怯えている。

 東雲篤貴以外にとっても、恐怖だっただろう。傘も持たずに全身雨に濡れた女が、険しい顔で何度もガラスを叩く光景は。

 見かねたのか東雲篤貴は、当惑しながらもおもむろに席から立ち上がる。

 その瞬間、ふと正気に返った。ガラスを叩いていた手が焼けるような熱を持っている。濡れた服が肌に張り付いている。

 店から東雲篤貴が出てくる前に、駆け出した。あんな奴と、もう何も話したくなかった。

 夜の街を駆ける。アスファルトに当たって跳ね返った雨がふくらはぎを濡らす。髪も肩も、服を着たまま海に漬かったようにずぶ濡れで、寒い。水分を吸い込んだ服は鉛のように重たかった。

 後ろから名前を呼ばれた気がしたが、追いかけてくるような靴音は聞こえなかった。それでも、息が切れても家を目指して走り続けた。

 頬にぬくい雫が流れた。でもそれを、冷たい雨粒が洗い流していってしまう。

 自分の吐く息に嗚咽が混じった。どうして泣いているのか自分でもわからなかった。ただ、私はもう、浮気相手を何度も乗せたのだろうあの車には、二度と乗ってやらないと思った。

 あのコーヒーショップで女性と談笑する父は、ふだん家で見ている父とは全く異なっているように見えた。いや、違う。妻以外の女性の前であんな顔をするような男はもう父親とはいえない。あの夜に私が見た彼は、東雲篤貴という、ただの一人の男でしかなかった。』

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