おちつく、時間
バス停で待っていると、時刻表の定刻から二分遅れて市営バスが到着する。プシュー、と音を立ててドアが開いた。運転席にいたドライバーとばっちり目があう。
「お!? こりゃ驚いた。モデルさんかなにかかと思っちゃったよぉ」
運転手のおじさんが私を見て一瞬双眸を見開き、すぐに顔を綻ばせた。たるみが目立ち始めた顔いっぱいに、でれっとした笑みが広がる。
今まで老若男女に、似たようなことを一億回は言われてきたので慣れっこだ。そうやって褒めれば私が喜ぶとでも思ってるんだろうか。こっちは、ちっとも嬉しくないし疎ましいとさえ感じているのに。
普段だったらそんな本心はおくびにも出さず、営業スマイルを浮かべて「ありがとうございます」と言ってあげたりもするけど、
「お、聖涼高校で降りるんだね。電車が運休の時とか、たまにバス使う生徒さんの顔は何人か覚えてるけど、お嬢さんみたいな綺麗な子は見たこと無いなあ。もしかして引っ越してきたとか?」
「まあ……」
随分お喋りなドライバーだ。早く出発しなくていいんだろうか。時刻表通りに運行しなくても会社とかに怒られないんだろうか。まあでもこんな秘境じみた山奥、しかも早朝。利用者はいないに等しいからバスが数分遅れたところで大した問題ではないのかもしれない。
「こんな山の中に越してきて大変でしょう。こんなところに越してくるのはね、夜逃げしてきた人か逃亡犯くらいだよ。なんちゃって、ハハハ。気わるくしないでね」
東雲篤貴の浮気が近所でも噂になり、夜逃げ同然で越してきた一家の一員としてはあまり笑えないジョークだった。
「いやあ、それにしても本当に可愛いね。おじさんがあと三十歳くらい若くて独り身だったら絶対、口説いてたよぉ」
独り身。
ステアリングを握っている左手に、シルバーのリングが陽光を受けて一瞬光るのが見えた。
いま、この人の奥さんが、自分の夫が見ず知らずの女子高生にこんなことを言っていると知ったら、どんな気持ちになるんだろう。
ふと、東雲篤貴の浮気を知り、さめざめと泣いていたお母さんの姿が脳裏によみがえった。
「……あまり、そういうこと言わない方がいいですよ」
「え、あ、ああ。こういうの今はセクハラになっちゃうもんなぁ。ごめんねぇ」
おじさんは申し訳なさそうに笑って、禿頭を掻いた。
お喋りがひと段落したところで、一番うしろの五人くらいが座れそうな横長の広い座席まで移動する。一番左端の窓際の席に腰を下ろした。背もたれに背をあずけて息をつく。今日初めて気が休まった心地がした。
プシューと音を立てて扉が閉まる。バスはいびつにゆれながらようやく出発した。窓枠に肘をつき、微かな揺れに身をゆだね、緑しかない窓の外を眺める。
転入先の高校まで、ここから一時間近くかかると思うと少し気が遠くなった。
隣の座席に置いたリュックから文庫本を取り出すと、素早くリュックのジッパーを閉める。
幼稚園のころ、せいれんの隣で絵本ばかり読んでいた私は、いつのまにか物語の面白さに目覚めた。小学校では児童書、中学に上がるとYA作品、高校生になった今では一般文芸を嗜むようになった。
特に恋愛小説は良い。世の中には酷い男がいるという現実を忘れさせてくれる。だってジャンルさえ気を付けて選べば、小説の中には浮気するヒーローは出てこないのだ。絶対にヒロインを泣かせたりしないどころか、ヒロインに対してどこまでも誠実。私は東雲篤貴の一件以降、浮気しない異性を求めて前よりも恋愛小説をよく読むようになっていた。
スピンを挟んだページを開いて、文字を目で追いかけ始める。
*
「お嬢さん、ここで降りるんじゃないの~?」
運転席から間延びした声がして本から顔を上げた。いつの間にかバスが停まっていた。
窓越しに『聖涼高等学校前』という寂れたバス停が見える。どうやら、本に夢中になっているうちに目的地に着いたらしい。体感的には三十分くらいなんだけど??
半分ほどまで読み進めた本をあわててリュックにしまい、バスを降りた。外に出た瞬間、むわっと蒸し暑い空気が肌に絡みつき、蝉の大合唱の洗礼を浴びる。緑の木々に左右を挟まれた車道にバスは停まっていた。
え、こんな山の中腹に学校があるの……?
にわかには信じられなかったが、緩やかな坂をのぼったところにクリーム色の古ぼけた校舎が見えたので、「あ、本当にあるんだ……」となった。急に決まった時期外れの転校だったので、学校の下見や見学には一度も行っていなかった。
「じゃ、転入初日で緊張すると思うけど、肩ひじ張らず学校楽しんで」
「あ、ありがとうございます」
振り返ると、運転手は「うんうん」と笑顔で何度も頷いていた。見かけによらず結構いい人だ。
やがて、乗客が無人になったバスは、排気ガスを出して走り去っていった。
……行くか。
体の向きを変え、緩やかな登り坂を進む。さっきまで冷房の効いたバスに乗っていたというのにすぐに肌が汗ばんできた。汗で湿り始めた額を、半袖から伸びた腕でぬぐう。
前に住んでいたところと違って、学校の周りには民家もビルもコンビニもない。こういう緑に囲まれた田舎って、マイナスイオンとか出てて涼しいんだと思ってたけど、全然そんなことないんだな……。蝉の鳴き声が耳に絡みついて暑さを助長させている感じさえする。
暑い思いをしながら坂を登り切って、学校を囲むクリーム色の塀を横目に歩くこと五分。ようやく聖涼高等学校にたどり着いた。
ひざに両手を置いて呼吸を整える。
疲弊した身体でよろよろと校門をくぐった。ふと校舎の上部に取り付けられた時計を見上げれば、本鈴が鳴る十分前をさしている。
けっこうぎりぎりだ。
先日、担任の代理と言って教頭からかかってきた電話では「初日は、学校に来たらまず職員室に向かってください」とのことだった。でも、職員室とかってどこにあるかすぐ分かるかな……。
不安に思ったとき、生徒玄関に長身の若い男の人と、私と同じ制服を着た女子が立っていることに気づいた。
……? なぜこんな暑い中、二人そろって外に棒立ち? まさか風紀検査とか……?
しかし、男性のほうは水色のシャツに黒いスラックスを合わせているが、隣の女の子はというと、栗色の長い髪をハーフツインに結んでいて、ネクタイの結び目は緩くスカートは太ももが見えるほど短い。あのいで立ちで風紀委員なんてことは……ないよね。
「あっ、来た! 転校生ちゃん!」
昇降口に近づいていくと、いきなり女の子が私を見て顔を輝かせた。
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