エピローグ

ほんとの、正体

 私が小学生のときに母は子宮頸がんで亡くなってしまった。そしてその数年後、父も後を追うようにして事故でこの世を去った。

 祖母も昔、子宮の病で亡くなっていたので、それ以来、私は母方の祖父のもとで暮らした。

 しかし母と父は駆け落ち同然で籍を入れたせいか、祖父は私にいつも冷たかった。それでも私は少しでもこの祖父と打ち解けようと、料理や洗濯を積極的に手伝ってみた時期もあった。

 けど、一向に仲が縮まることはなく、私は祖父と打ち解けるのをいつしか諦めた。掃除も洗濯も料理も各々でやるようになり、会話もろくにかわすことがなかった。

 同じ家に暮らす家族のはずなのに、まるで他人のよう。父と母が生きていた時期が恋しくてしかたがなかった。

 自分が大人になったら、素敵な人と結婚して、かわいい子どもを産んで、あったかい家庭をつくりたい。祖父との生活の不満から、そんな夢が芽生え始めたのは中学生のころだった。

 でも。

 高校に進学して間もなかった時期。私は腹痛に見舞われ、学校で倒れた。

 病院へ行くと、子宮内膜症と診断され、どうやら子宮内に腫瘍があることが判明した。もともと生理痛がひどかったが、これのせいだったのだ。

「腫瘍がこの大きさにもなると投薬ではなかなか……。これ以上の悪化を防ぐためには手術をおすすめします」

 またお腹が痛くなって救急車で病院へ担ぎこまれるのは嫌だったので、私は腫瘍をとる手術をすることを選んだ。

 妻も娘も子宮を患って他界したのに、孫娘までもが子宮関係の病気になっていたのは後味が悪かったのだろう。祖父も、「手術の費用がばかにならない」だとか嫌味を垂れそうなものなのに、このときはなにも言ってこなかった。


 手術は成功した。


 だが、私は喜ぶことはできなかった。

 子宮内膜症について、携帯で調べていたとき「開腹手術をすると、妊娠しにくくなる可能性がある」という記述を見つけたからだ。

 手術は成功したのに、安心できなかった。子宮内膜症は再発することも多い。もし、子宮内膜症が何度も再発したり、母と同じ子宮頸がんになったりしたら、私は子宮を摘出しないといけなくなるかもしれない。

 もしそうなったら、子供は産めない。代理出産や、養子縁組といった制度もあるが、自分のお腹のなかで育てていない子を、自分のような人間が果たして慈しんで育てられるかが不安だった。

 もし、子宮を摘出する事態になったら、その時点で、あたたかい家庭をつくるという夢は永遠に叶わなくなってしまうのではないか……。

 そう思い、不安の海に突き落とされた気分で、日々を過ごした。生理のたびに、少しでも腹痛が強いと、子宮内膜症が再発しているのではないか、もしかしたら子宮頸がんになっているのではないか、と苦しい想像をしては泣いた。

「礼拝堂に行って神様にお祈りしてみたらどうかな。願掛けになるかもよ」

 あまりにも私が沈んだ表情ばかりしているのを見かねて、友達がある日そんなことを言ってくれた。たしかに、そうかもしれない。運命をどうこうできるのは神様しかいないのだから、どうせならただ不安がっているよりも神様にお願いをしたほうがいいのかもしれない。思い立った私は放課後、だれもいない礼拝堂へともぐりこんだ。

「お願いします。将来、あったかい家庭がつくれますように」

 誰も寄り付かない古い礼拝堂に、私は毎日、一日一回は行って祈った。そのうち、ただお願いをするだけでは神様に図々しいと思われるのではないかと思って、聖書を読んで敬虔な信者っぽく振る舞ったりもした。

 いま思えばおかしなことをしていたと思う。けれど、あの時の私はそれくらい必死だった。このまま一生、子供も産めずにずっと祖父と二人であの冷えた家族の暮らしを続けなくてはいけなくなるんじゃないかと。

 それは嫌だ。将来、家族が欲しい。子供をうみたい。

 そんなことをしているうちに、約一年が経った。雪がふりしきる冬の日のことだった。

「叶えてやろうか」

 祭壇に向かって祈っていると、ふいに後ろから声がかかった。驚いて振り向くと、長身の美青年がにやにや笑って立っていた。真っ白なスーツに身を包んでいる。生徒でも、先生でもない。知らない男だった。

「……だれ?」

「俺か? 俺ァ、天使だ」

 耳を疑った。でも。

「天使? 神様じゃなくて?」

「てめえの願いは神でなくても叶えてやれるんだ。天使で勘弁してくれ」

 信じられなかった。こんなことが果たしてあってもいいのか。つめたい床に座り込む。

「あ、あなたは、本当に私の願いを叶えてくれるの?」

「そうだ」

「ていうか、天使って願いとか叶えられるの?? 神様とかしかできないんじゃ……」

「神が願いを叶えられて、悪魔も人間の魂と引き換えに願い叶えたりしてんのに、天使だけ叶えられんなかったらヘンだろ」

「い、言われてみるとたしかに……? で、でも、天使って天国にいるものなのに。どうして空から降りてきたの?」

「質問攻めだな。てめェのその純真無垢な精神に惚れたからだ」

 目を瞬いてしまう。この男前が、私のことを?

「惚れたから、願いを叶えてやりたくなって、それで神に逆らって堕天してきた。正確には天使じゃなくて堕天使だが。まあ細けぇことはどうだっていい。俺が惚れるなんざ滅多にねェんだぞ。雲の上から百万回は聞いてたが、改めて願いを言え。佐藤雲母」

 息を呑む。

「あっ、あったかい家庭がつくりたいの。素敵な人と結婚して、子供を産みたい」

「上等だ。叶えてやろうじゃねェか。結婚相手の希望は?」

「え、えっと、強いて言うならイケメンがいいな。あなたくらいの顔面偏差値は欲しい。でもまあ、あなためちゃくちゃカッコいいから正直あなたでもいいんだけど」

 私は面食いだった。

 しかし、天使は顔の前で手を振った。

「俺ァ駄目だ。てめェのことは好きだが、天使は天使同士で、人間は人間同士で結婚する決まりがあんだ。人間だって、動物と結婚したりしねェだろ。それと同じだ」

「ふうん……。残念。でも、見た目的には人間とほとんど変わらないのにね。天使の輪も天使の翼もないし」

 私がそう言うと彼は苦笑して、「そんなダセェもん天界じゃ誰も着けてねェよ。お前ら日本人だって、いまどき普段着に和服を着たり、髪ちょんまげにしたりしねェだろ」と言った。ああ、あれって天界ではそういう扱いなんだ……。

「人間に姿は似てるが、人と違って寿命は亀くらい長ェし、ほとんど年をとらない。飲まず食わずでも生きていけるから、お前とは違ェよ」

 彼はどこか切なげな笑みを浮かべると、「さて」と切り出した。

「お前は、いい男と結婚して子供を産んであったかい家庭をつくりたいんだったな。ほかに将来の結婚相手の要望はあるか? 本来だったら、交換条件と引き換えに叶えるんだが、特別に無条件で叶えてやる」

「え、うれしい! えっと……! 顔がカッコいいのは大前提で、あと優しい人がいい。どうせお嫁にいくなら、佐藤っていう普通の名字じゃなくて、かっこよくて珍しい名字になってみたい」

「わりと条件多いな……」

「でも珍しい名字って憧れたりしない? あ、そういえばあなた名前は? 天使も名字があるの?」

「ねェよ。あと天使だったころに使ってた名は捨てた」

 じゃあこの世界では何て名乗るの? と尋ねると彼は黙り込んだ。決めてないのだろう。

「じゃあ、私があなたに名前つけてあげようか」

「は? いいのか」

「うん。どういうのがいい?」

「……俺ァ一応、天使だからな。神聖な感じの名前がいい」

「空……、いや、天じゃそのまんますぎるし……、雅? 都……? うーん……あ、京都とか神様が祀ってある神社いっぱいあって神聖なイメージしない?」

「しねェ」

「京都の京って書いて、『かなどめ』って読む名字があるの知ってる? 珍しいし、かっこよくない?」

「なんだその適当に決めた感じは。気に入らねェな」

 そう言いつつも、天使は嬉しそうだった。

「ねえ、京。またこの学校の人の願いを叶えてあげてよ。人間よりずっと長生きするってことは、これから自由な時間がいっぱいあるんでしょ?」

「お前以外の願いは叶えるつもりはねェ。……まあ、お前レベルのいい女が現れたら、そのときは叶えてやっても良いが」

「そう? あ、でも、天使として願いをかなえるときは姿を見せるのはやめたほうがいいんじゃない? 『礼拝堂にイケメンがいて、その人が願い叶えてくれるんだってー』とか噂がたったら面倒そうだし」

「そうだな。不審者と思われて職員に通報されても困る。いっそ、正体かくしてこの学校の教師にでもなったらいろいろ便利かもな」

「それいい! あ、もしかしたら将来、私の子供がここの学校に通うことになって、この礼拝堂に来たりするかもしれないね」

「ああ、そうだな。そうなりゃ面白いかもしれねェ」

 京は微かに笑って、窓の外でしんしんと積もる雪を眺めていた。

「そのときは願い事、叶えてあげてね」

 そう言ったら、「そいつがてめェに似てたら考えてやるよ」と彼は笑った。



「この間、星廉とカブトムシをとりに行ったんだ!」

「偏差値80の男に何やらせてんだ」

「とっても楽しかったぞ、あとさっき廊下で見かけたが、綿貫女史と和泉教諭がいつもに増してべったりだった」

「夏だから浮かれてんだろ」

「……京教諭、登校日が嫌だからってそこまで露骨に態度に示すこと無いと思うぞ。今日は、相槌にイラつきが含まれすぎている」

「うるせェな……。人が一服してんのに邪魔してくるからだろ」

「もうすぐ朝のHRなのに担任京教諭がこないから呼びに来たんだ。京教諭は本当にこの踊り場が好きだな?」

 赤羽が首をかしげる。

 俺は「人目のつくところにいると親衛隊がうるせェからな」と返す。

「それはそうと星廉と東雲女史がこの間、二人で私服で遊んでる現場を見たんだ! 二人は恋人同士なのかもしれん!」

 目を輝かせる赤羽を横目で見る。

「そのうち、つきあいだすんじゃねェか?」

 ふっと笑って言うと、赤羽は「やっぱりか!?」と声を上げた。

 開け放した窓の外に吐き出した紫煙は、二度と昇れぬ天に吸い込まれ、消えていった。

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サヨナラ天使、またきて初恋。 針夜ゆる @salmon_sushi17

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