ひとまず、解散

 星廉の一言で「そういやそうだ」、という雰囲気に戻りかけたそのとき、耳に何か微かな音が引っかかった。靴音が近づいている音だ。

「……ねえ、待って。誰か階段上がって来てない?」

 私の言葉に皆がピタッと挙動を止め、耳を澄ました。

「本当だ、誰か来たみたいだぞ!」

 赤羽君が踊り場から跳ねるように階段を駆け降りて、確認しにいく。そのうち階下から「和泉教諭じゃないか!」という溌剌はつらつとした声の後に、「莉乃って……、そこに、いる?」とのんびりした和泉先生の問いかけがされた。

「だめっ! 莉乃はいないってことにして!」

「じゃあ声量はしぼれよ」

 階下に向かって大声を出す莉乃ちゃんに、冷静に言う京教諭。

 彼の仰る通り、この距離じゃ余裕で聞こえていただろう。和泉先生が階段を上がって踊り場に到達し、私たちの前に姿を現す。

「……莉乃」

 和泉先生がポーカーフェイスで呼びかけた。私の背中に隠れていた莉乃ちゃんは、「なに? 莉乃、しばらくお話したくないって言ったよね?」とつっけんどんに返した。

「……ごめん…………」

「……なにが『ごめん』なの?」

「………………」

「なにが『ごめん』なのか言って」

「………………」

「適当にごめんって言っておけば莉乃が許すと思ってるんでしょ。ばかにしないで」

 居合わせた我々はたいへん気まずかった。赤羽君はしきりに目を泳がせているし、星廉も眉が八の字。京先生は、平常通りの表情で腕を組んで二人を眺めていて、この人はきっと数々の修羅場をくぐり抜けてきたのだろうなと思った。

「言ってよ。なにが『ごめん』なの」

「………………ごめん……」

 先生が再びそう言ったとき、莉乃ちゃんの瞳が揺れた。

「もういいっ!」

 そう叫ぶと、莉乃ちゃんは、俊敏な動作で私の影から飛び出した。下ろした長髪を揺らしながら、階段を降りて行って見えなくなる。

「莉乃……、まって…………」

 のろのろと(第三者からみれば遅いけど、たぶん彼にとっては最高速度)、和泉先生も後を追って見えなくなったが、階下から「ついてこないで!」と莉乃ちゃんの拒絶が聞こえ、一人分の足音だけが、どんどん遠ざかっていった。

「……けっこう深刻だな」

 京先生がぽつり、と零す。

「あんな激しい喧嘩してるの見たことないぞ。和泉教諭たち、別れたりしないといいが……」

「まさか……」

 星廉はそうは言っていたけど、その声からは不安の色が拭えない。

 でも、もしも本当に和泉先生が浮気しているのだったら。このまま距離を置いた方が莉乃ちゃんのためになるのかもしれない。

「泣いていたな……。綿貫女史。少しでも元気を出してもらいたいものだが」

 赤羽君が、紙パックの牛乳のストローを咥えた。

「そうだね」

「でも、そう簡単には無理だと思いますよ……。当人同士の問題が解決しないことには」

「そうだ。第三者のお前らにできるのは、せいぜい、綿貫の話を聞いてやるとかして気を紛らわせるくらいが限界だろ。抜本的な解決は本人たちにしか出来ねェ」

 冷静に的確なアドバイスをくれる京先生がいつになく教師っぽい。

「というか、ダチのことに頭悩ませんのも青春チックで結構だが、三日後に数Bの復習テストやるって言ったの忘れてねェだろうな?」

「忘れていた!!!!!!」

「おい。てめェは一番忘れちゃいけねェだろうが」

 口の片端を引くつかせた京先生が、赤羽君の耳を引っ張った。

「しかし、先週の金曜六限目に言われたことなんて、翌週の月曜朝のHRまでには忘れるだろう普通!」

「メモをとれメモを。ただでさえ馬鹿なんだから」

「そうだ俺はばかなんだ! ばかすぎていっぱい赤点をとってて、もう次のテストでは赤点をとれないんだ! 評定が1になってしまう! 助けてくれ星廉!」

 赤羽君が星廉の両肩をつかんだ。

「もちろんです。赤羽君が留年になったら大変ですから。勉強会しましょう」

「本当か、有難い!! これぞベストフレンドの真骨頂って感じだな!!」

「あの……、星廉、私のことも助けてほしいんだけど……」

 男子二人の友情にちょっと水を差すようで申し訳ないが、おずおずと手を上げた。

 三日後にテストがあるとか今初めて知った……。だって先週金曜日は、私、まだ転入してきてなかったもん……。赤羽君ほどではないにしろ、私だって数学は苦手なのだから、このままだととんでもない点数をとってしまいかねない。

「いいですよ、皆でやりましょう」

「うむ! 三人寄れば何とやらと言うしな!」

「勉強会すんなら、綿貫も誘ってやれ。……勉強すりゃ少しは気が紛れるだろ」

 今になって、先ほど莉乃ちゃんに失言を連発してしまったことの罪悪感でも芽生えてきたのか、いつになく京先生が気遣いの姿勢を見せている。

「まあ、誘っても断られちまったらどうしようもねェけどな」

「そうだな! しかしたぶん大丈夫だと思うぞ!」

「なんでだ?」

「そんな気がするんだ!」

「ただの勘じゃねェか……」

 仰る通り。ただの勘。でもなぜか赤羽くんが言うならそんな気がしてくるから不思議だ。

「ただでさえ、三人寄ればナントカの知恵と言うんだ! 四人で勉強したら何かもっといい感じにはかどるかもしれん!」

「そうですね、皆でやる勉強も楽しいですからね。あと、三人寄れば文殊の知恵ですよ」

「じゃあ、いつにする? 今日……はちょっと急すぎるよね」

「明日の放課後とかはどうですか?」

「良いと思うぞ! とても!」

 じゃあそういうことで……と話がまとまり、ちょうどのタイミングで予鈴が鳴り響く。五限は、たしか物理だったはずだ。「あーあ、まだ一服してねェのに、休息の時間が終わっちまう」、と京先生は惜しむように踊り場の窓を開け、シャツのポケットから煙草を取りだした。

「……莉乃さん、次の授業でますかね?」

 星廉が、莉乃ちゃんの消えた階下を横目で見た。「さあ……」としか言いようがない。

「大丈夫だと思うぞ! 英語の時間ならともかく、他教科なら教室で和泉教諭と顔合わせることもないだろうしな! 綿貫女史は根は良い子だから、体調が悪いわけでもないのに授業を休むという選択をするのはちょっと難しいと思うんだ!」

 赤羽君のあっけらかんとした言葉には妙に説得力があった。そうだ。莉乃ちゃんは昨日、貧血で倒れかけた私を保健室まで連れて行ってくれて介抱してくれた。心根の優しい良い子だ。

「……でも、もし本当に和泉先生に浮気されてるんだったら、莉乃ちゃんかわいそうだよね…………」

 今朝の落ち込んでいた莉乃ちゃんの姿や、さっき怒って走り去っていった莉乃ちゃんが脳内に浮かんだ。転入初日は、「一緒にいたいから」という理由で暑い中、一緒に和泉先生と外に立って私を待っていた莉乃ちゃん。彼のために毎日お弁当までつくっていたようだし、相当尽くしていたと思う。なのに、和泉先生は一体なにが不満だったのだろう。

 私の一言で、赤羽君も星廉も黙った。場の空気がやや重くなる。

「……まだ確定じゃねェだろ。まあ、和泉が綿貫以外の人間に微笑みかけるなんて事例、俺でさえ見たことねェが」

「じゃあもうお察し案件なのでは……?」と星廉がおののく。

「……俺から和泉に探り入れといてやるから、お前らはひとまず首突っ込むんじゃねェ。授業始まるぞ。戻れ」

 しっしっと追い払うように手を振られ、赤羽君が「人畜無害そうな雰囲気の和泉教諭が浮気だなんて信じられんがな……」と踊り場から降りる。

 東雲篤貴といい、和泉先生といい、やっぱり三次元の誠実な男って絶滅危惧種なのかもしれない。

 そう思うと、胸の奥に重たい石が出来た気がした。

 いくら天使の課題をこなすためだけの使い捨てだとしても、男女交際に踏み切ったりしなくて正解だった。莉乃ちゃんには悪いけれど、素直にそう思ってしまう。私は赤羽君と星廉と一緒に階段を降りた。

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